第十六話 古代ゴーレム(後編)
―――「侵入」。
魔人アビス(魔力百万分の一バージョン)の手のひらが、振り下ろされようとしていた「アンチ・マジック・ゴーレム」の巨大な腕に触れた。
普通なら、その瞬間にアビスの腕は粉砕されていただろう。
だが、アビスは接触した一点に魔力を集中させ、極小の「緩衝結界」を展開しつつ、同時にゴーレムの内部回路へと魔力を侵入させていた。
ズズズ……ン。
ゴーレムの動きが、泥沼に嵌ったかのように鈍った。
完全に停止したわけではない。
だが、アビスが送り込んだ「ノイズ」によって、命令系統に遅延が生じているのだ。
「……フン。やっぱりな」
アビスは、ゴーレムの腕を足場にして跳躍し、その肩へと舞い降りた。
漆黒のコートが翻る。
彼の瞳は、眼下の石人形ではなく、虚空に浮かぶ「見えない文字」を追っていた。
それは、ゴーレムを構成する術式回路。
一般の魔術師には理解不能な古代文字の羅列だが、アビスにとっては母国語よりも馴染み深いものだった。
(……基本術式バージョン2・3、型番『アイギス・タイプ4』。……懐かしいじゃねえか)
アビスの口元が歪む。
この術式構築の癖。
無駄に堅牢で、融通が利かず、そして何より「魔を封じる」ことに執着した構造。
それは、千年以上前、アビスを縛り付けようとした連中――「古代魔法文明」の技術者たちが好んで使った制御術式そのものだった。
(……同郷のよしみってやつか? ああ? 随分と錆びついてやがるな、ポンコツ)
アビスは、指先からさらに深く魔力を流し込んだ。
狙うは「制御核」の掌握。
こいつを掌握して配下に加えれば、リディアを助けるどころか、強力な護衛として使えるかもしれない。
だが。
バチッ!
アビスの指先が弾かれた。
拒絶反応。
ゴーレムの表面を覆う「封魔石」のコーティングだけでなく、内部の核そのものに、強力な防御術式が組まれている。
(……チッ! 『侵入遮断』か!)
アビスは舌打ちした。
想定内ではある。
だが、今の「百万分の一」の出力では、この堅牢なプロテクトを突破するのに時間がかかりすぎる。
計算では、解析完了までおよそ六百秒。
変身時間は残り百五十秒。
―――間に合わない。
ゴオォォォォン!
動きを取り戻したゴーレムが、自分の肩に乗っている「アビス」を振り払おうと、巨大な手を叩きつけてきた。
「……っと!」
アビスはバックステップで回避し、床に着地した。
ドガァッ! ゴーレムが自分の肩を殴りつけ、石の破片が飛び散る。
痛覚がないゆえの、滅茶苦茶な暴れっぷりだ。
「……面倒くせえ」
アビスは距離を取りながら、状況を再計算した。
現在の百万分の一の出力では、魔法攻撃も物理攻撃も通じない。
ハッキングは時間切れ。
(……詰んだか?)
いや。
アビスは、床に這いつくばっているリディアに視線を走らせた。
彼女は、重力結界に押し潰され、苦悶の表情を浮かべている。
顔色は土気色になり、呼吸も限界に近い。
「……うぅ……アビス、さん……逃げ……」
まだ、そんなことを言っている。
このお人好しの、救いようのない馬鹿。
(……勘違いするなよ、小娘)
アビスは、心の中で吐き捨てた。
(俺様はテメエを助けたいわけじゃねえ。テメエという『最強の駒』を、ここで失うのが惜しいだけだ)
アビスは、思考を切り替えた。
自分でゴーレムを倒す必要はない。
倒せる奴が、そこにいるじゃないか。
今は「重力」という鎖に繋がれているだけで、解き放てば暴れだす狂犬が。
(……ターゲット変更)
アビスの「魔眼」が、部屋全体をスキャンした。
魔力の流れを視る。
リディアを縛り付けている重力魔法。
その供給源はどこだ?
床か?
壁か?
天井か?
視界が、青白い光のラインで埋め尽くされる。
そして、そのラインが収束する一点を見つけた。
ゴーレムの背後。
壁の石組みの中に偽装された、一枚の不自然な石版。
(……あそこか!)
重力結界の制御盤。
ゴーレム本体ほどの強固な守りはないはずだ。
あれを破壊すれば、結界は消える。
「おい、デカブツ! こっちだ!」
アビスは、わざとゴーレムの前に躍り出た。
手の中に、黒い魔力球を作る。
攻撃用ではない。ただの「目くらまし」だ。
「そらッ!」
アビスは魔力球をゴーレムの顔面に投げつけた。
バシュッ!
対魔装甲に弾かれて霧散するが、一瞬だけ視界を遮るには十分だ。
「ガ、ガガ……?」
ゴーレムが反応して足を止める。
その隙に、アビスは床を蹴った。
「……邪魔だァッ!」
漆黒の影となって、ゴーレムの股下を潜り抜ける。
目指すは、ゴーレムの背後の壁。
残り時間、六〇秒。
アビスは走りながら、指先から不可視の刃「真空斬」を放った。
標的はゴーレムではない。
天井からぶら下がっていた巨大なシャンデリアの鎖だ。
キィン!
鎖が切れ、数百キロの鉄塊が落下する。
ズドォォォォン!
シャンデリアは、振り返ろうとしたゴーレムの頭上に直撃し、その動きを物理的に封じた。
所詮は数秒の足止めだが、それで十分。
アビスは壁に到達した。
偽装された石版。
その奥に、脈打つ魔力のコアが見える。
(……見つけたぞ)
アビスは右手に魔力を集中させた。
「破壊」ではない。
「侵食」だ。
物理的に壊しても、予備が起動する可能性がある。
システムごと腐らせ、二度と再起動できないように焼き切る。
「……消えろ。『黒蝕』!」
アビスの手が、石版にめり込んだ。
ジュワァァァァ……!
黒い泥のような魔力が、壁の中に浸透していく。
制御盤の魔力回路が、次々と黒く染まり、ショートしていく音が聞こえる。
―――ブツン。
部屋を満たしていた重苦しい音が、唐突に消えた。
空気が軽くなる。
重力結界の解除。
「……ふぅ。……間に合ったか」
アビスは、額の汗を拭った。
残り時間、三秒。
ギリギリだ。
その時。
背後で、瓦礫を吹き飛ばす音がした。
ガシャァァァァン!
ゴーレムだ。
シャンデリアの残骸を怪力で引きちぎり、復活したのだ。
その赤い目は、怒り狂ったように激しく点滅し、制御盤を破壊したアビスを睨みつけている。
「ガ、ガガ……排除……排除……!」
ゴーレムが、地響きを立てて突進してくる。
速い。
アビスまでの距離、十メートル。
アビスは動けない。
魔力を使い果たし、身体維持の限界が来ている。
パリンッ。
体内の楔が砕ける音がした。
「……あとは頼んだぜ、脳筋」
アビスは、ニヤリと笑った。
―――プンッ。
アビスの姿が、黒い毛玉(犬)へと戻る。
その小さな体に向かって、ゴーレムの巨大な拳が迫る。
死の影が覆いかぶさる。
だが。
その拳がアビスに届くことはなかった。
「―――アビスさんに、触るなァァァァッ!」
ドォォォォォォォォンッ!
横合いから、金色の流星が突っ込んできた。
リディアだ。
重力の枷から解き放たれた彼女は、溜まりに溜まった鬱憤と、アビスを傷つけられそうになった怒りを、一気に解き放ったのだ。
彼女の飛び蹴りが、ゴーレムの脇腹に深々とめり込む。
メキメキメキッ!
対魔装甲?
そんなものは、物理の前では無力だ。
岩の巨体が、くの字に折れ曲がった。
「はあああああああっ!」
リディアは、着地する間もなく、空中で身体を捻り、追撃の回し蹴りを叩き込んだ。
ズガァァァン!
ゴーレムは真横に吹き飛び、壁に激突してそのまま埋まった。
土煙が舞い上がる中、完全に沈黙する古代兵器。
「……はぁ、はぁ、はぁ……!」
リディアは着地し、肩で息をした。
その全身からは、湯気のような金色のオーラが立ち昇っている。
彼女は、すぐさまアビスの元へ駆け寄った。
「アビスさん! 無事ですか!?」
リディアが、震える手でアビス(犬)を抱き上げる。
アビスは、ぐったりと脱力していたが、尻尾だけはパタパタと動かしてみせた。
「ワン……(……遅えよ。待ちくたびれたぜ)」
「よかった……! 本当によかった……!」
リディアは、アビスを顔に押し付け、わんわんと泣き出した。
アビスは、彼女の涙で毛が濡れるのを不快に思いつつも、されるがままになっていた。
「あ、あれ? でも、どうして急に体が軽くなったんでしょう?」
リディアは涙を拭い、不思議そうに首を傾げた。
そして、壁に埋まったままピクリとも動かないゴーレムを見る。
「もしかして……私が気合を入れたから、魔法が壊れちゃったんでしょうか?」
出た。
都合のいい解釈。
「気合で魔法を破った」。
普通なら有り得ない理屈だが、この脳筋勇者なら本気で信じ込みかねない。
(……まあ、そういうことにしておけ)
アビスは、心の中で苦笑した。
自分が壁の制御盤を壊したことは、彼女には気づかれていない。
壊れた制御盤は、ゴーレムが激突した瓦礫の下に隠れてしまったからだ。
完全犯罪成立。
(……フン。俺様が結界を解かなかったら、テメエは今頃ペチャンコだったんだがな……)
誰にも知られることのない功績。
だが、アビスは悪い気分ではなかった。
自分が無事で、リディアも無事。
そして、あの忌々しい古代の遺物を、石くれに変えてやったのだから。
「さあ、行きましょうアビスさん! この迷宮、なんだか物騒です!」
リディアは、アビスをリュックに戻すと、早足で通路の奥へと進み始めた。
もはや「探検」を楽しむ余裕はないようだ。
アビスは、リュックの揺れに身を任せながら、ふと、先ほどのハッキングの感触を反芻した。
(……あのゴーレムの術式コード。……間違いねえ。あれは、遙か昔、俺様が全てを支配していた時代の……)
アビスの記憶の底にある、鉄と油と魔力に塗れた、懐かしくも忌まわしい記憶。
かつて、彼が滅ぼした「古代文明」の技術。
あのゴーレムは、その時代の遺産だ。
つまり、アビスにとっては「勝手知ったる庭の玩具」のようなものだ。
だが、その玩具が、こうして牙を剥きはじめている。
あの黒騎士といい、「浄化者」の手によって、過去の亡霊たちが蘇ろうとしている。
(……厄介なことになりそうだ)
単なる討伐劇では終わらない予感。
この旅の終着点には、アビス自身の「過去」に関わる因縁が待っているのかもしれない。
二人は、迷宮のさらに深くへと進んでいった。
その先にあるのが、出口か、それともさらなる過去の亡霊か。
それはまだ、(アビスはともかく)リディアには知る由もないことだった。




