第十四話 追手との遭遇(後編)
土煙が晴れると、そこには絶望的な光景が広がっていた。
「竜骨山脈」の荒涼とした岩場に、巨大な漆黒の影が立ちはだかっている。
黒騎士。
「浄化者」の処刑部隊に属し、人間離れした戦闘力を誇ると噂される異形の戦士。
その身長は二メートルを優に超え、全身を包む重厚なフルプレートアーマーは、陽光を吸い込むように黒く沈んでいる。
兜のスリットの奥で明滅する赤い光だけが、彼が稼働している唯一の証だった。
「……で、でかいですね」
リディア・クレセントは、聖剣を構え直し、額の汗を拭った。
体力はまだ残っているものの、先ほどのベルンハルト隊長との戦いでの精神的な疲労は隠せない。
対して、目の前の黒騎士からは、底知れぬプレッシャーが放たれていた。
それは、生き物が発する「闘気」とは違う。
巨大な岩石が頭上から落ちてくるような、物理的で、無機質な圧迫感。
(……気をつけろ、リディア)
リュックの隙間から戦況を窺う魔人アビス(犬)の声が、リディアの脳内に響く。
その声色は、先ほどまでの軽口とは打って変わり、冷たく張り詰めていた。
(こいつは、さっきまでの連中とはモノが違う。……人間じゃねえぞ)
「えっ? 人間じゃない?」
(ああ。呼吸音がしねえ。心音もしねえ。漂ってくるのは、防腐剤と魔導オイルの臭いだけだ)
アビスの鼻は誤魔化せない。
目の前の存在は、生命活動を行っていない。
ただ、魔力という燃料で動く、殺戮人形だ。
ギギッ……。
黒騎士が、ゆっくりと身の丈ほどもある大剣を振り上げた。
その動きは緩慢に見えるが、予備動作が極端に少ない。
筋肉の収縮がないため、いつ攻撃が来るか読みにくいのだ。
「……排除する」
兜の中から、鉄板を擦り合わせたような不快な合成音声が響いた。
ドォォンッ!
次の瞬間、黒騎士の姿が掻き消えた。
いや、速すぎるのだ。
あの巨体が、爆発的な加速で距離を詰め、リディアの目の前に出現していた。
「―――ッ!?」
リディアが反応できたのは、アビスの警告があったからではない。
彼女自身の、野生動物じみた直感のおかげだ。
彼女は反射的に聖剣を盾にして、頭上から振り下ろされる大剣を受け止めた。
ガギィィィィィィンッ!
凄まじい金属音が鼓膜を劈く。
リディアの足元の岩盤が、衝撃で蜘蛛の巣状にひび割れ、陥没した。
「ぐっ、うぅぅ……! お、重いっ……!」
リディアの顔が歪む。
彼女の怪力をもってしても、押し潰されそうなほどの重量。
黒騎士は、片手で大剣を押し込みながら、もう片方の手で裏拳を放ってきた。
「―――ッ!」
リディアは、聖剣を滑らせて衝撃を受け流し、バックステップで回避した。
だが、黒騎士の追撃は止まない。
大剣が風を切り、横薙ぎに振るわれる。
岩がバターのように切断され、破片が散弾のように飛び散る。
(……チッ。出力が高すぎる)
アビスは舌打ちした。
単純なパワー勝負では、さすがのリディアでも分が悪い。
相手は疲れを知らない機械だ。
このまま打ち合えば、リディアが先に消耗して終わる。
(リディア! 正面からやり合うな! 足を使え! 回り込め!)
「わ、分かってますけど……速すぎて!」
リディアは防戦一方だった。
黒騎士の攻撃は、単調だが隙がない。
正確無比な機械時計のように、絶え間なく死の刃を繰り出してくる。
ブンッ!
ガンッ!
ドゴォッ!
リディアは、岩陰を飛び回り、必死に攻撃を回避する。
だが、黒騎士は執拗に追いかけてくる。
その動きを見ているうちに、アビスの中に、ある既視感が芽生え始めた。
(……待てよ?)
アビスの目が細められる。
黒騎士の剣筋。
足運び。
攻撃のパターン。
それらは、一見すると無骨な力任せに見えるが、その実、極めて合理的に計算された「法則」に基づいている。
(この動き……どこかで見たことがある。いや、知っているぞ)
アビスの記憶の深淵。
千年以上の時を超えた、彼自身のルーツに関わる記憶。
かつて栄えた「古代文明」。
その時代の遺跡を守っていた、自動防衛人形の動きに酷似していたのだ。
(……まさか、こいつ。『古代兵器』の生き残りか?)
アビスは、黒騎士の鎧の継ぎ目から漏れる魔力の光を凝視した。
その波長。
現代の魔術体系とは異なる、古く、そして効率的な駆動術式。
(……間違いねえ。こいつの中身は、俺様と同じ時代の『遺物』だ)
だが、アビスの中に湧き上がったのは、同類への親近感などではなかった。
それは、強烈な「侮蔑」だった。
(……くだらねえ)
アビスの瞳(犬の目)が、冷酷に光った。
(こいつは、ただの『器』だ。魂もなければ、意志もない。プログラムされた命令に従って動くだけの、空っぽの殺戮人形…)
アビスは、黒騎士の存在そのものが、自分への冒涜であるかのように感じた。
古代の兵器ごときが、魔人である俺様の飼い主を追い回すなど、万死に値する。
(……壊してやるよ。所詮はプログラムで動くガラクタだ。俺様の敵じゃねえ)
アビスは、黒騎士の動きを完全に解析するモードに入った。
相手が「プログラム」で動いているなら、そこには必ず「法則」がある。
そして、アビスはそのプログラムの「元ネタ」を知り尽くしている。
(リディア! 反撃に出るぞ!)
「えっ!? 無理ですよ、隙がありません!」
(ある! 俺様がこいつの『動きの法則』を見切った! 俺様のカウントに合わせて動け!)」
アビスは、リディアの脳内に指示を送る。
(奴の攻撃パターンは、『右薙ぎ』→『突き』→『叩きつけ』のループだ。だが、『叩きつけ』の直後、放熱のために〇・五秒だけ関節がロックされる!)
「〇・五秒!? 短すぎます!」
(テメエならいける! 信じろ!)
リディアは、アビスの言葉を信じ、足を止めた。
黒騎士が迫る。
大剣が唸りを上げて迫る。
(来るぞ! 右薙ぎ! しゃがめ!)
ブンッ!
リディアの頭上を刃が通過する。
(突き! 左へ半歩!)
ズドン!
リディアの横を、切っ先が貫通する。
(次だ! 叩きつけが来る! バックステップでかわして、着地と同時に踏み込め!)
黒騎士が、大剣を上段に振りかぶった。
全身のバネを使った、必殺の一撃。
ドゴォォォォォンッ!
大剣が地面に叩きつけられ、岩盤が砕け散る。
凄まじい衝撃波。
だが、リディア(アビス)はそれを読んでいた。
衝撃が拡散する一瞬の隙。
黒騎士の動きが、カチリ、と止まる。
冷却の硬直。
(今だァァァァッ! 懐に飛び込んで、鎧の胸部! 赤い光の場所をぶち抜け!)
アビスの号令と共に、リディアの身体が弾丸となって射出された。
一足飛びで距離を詰める。
黒騎士は、大剣を地面から引き抜こうとするが、硬直時間がそれを許さない。
ガラ空きの胸部。
そこに、リディアは聖剣を逆手に持ち替え、全体重を乗せた渾身の「掌底」を叩き込んだ。
剣で斬るのではない。
聖剣の柄頭を、杭のように打ち込む打撃技。
「はあああああああっ!」
ズドォォォォォンッ!
リディアの掌底が、黒騎士の胸部装甲にクリーンヒットした。
勇者の血脈による魔力放出と、圧倒的な筋力が生み出す破壊力。
鎧が内側にひしゃげ、内部で何かが砕ける音が響いた。
「ガ、ガガガ……ッ!?」
黒騎士が、初めてよろめいた。
赤い光が激しく明滅し、不快なノイズを発する。
制御コアが破損したのだ。
(まだだ! トドメだ! 奴の頭を落とせ!)
アビスは容赦ない。
機械は、完全に停止するまで安心できない。
リディアは、よろめく黒騎士の肩に駆け上がった。
そして、空中で身を翻し、黒い聖剣を両手で振りかぶった。
「これで……終わりですッ!」
漆黒の刃が、黒騎士の首筋を一閃した。
ザンッ!
硬質な音が響き、黒騎士の兜が宙を舞った。
首から上がなくなった巨体が、数歩よろめき、そして糸が切れたように崩れ落ちた。
ズシン……。
巨大な鉄塊が地に伏し、動かなくなる。
兜からは、血ではなく、黒いオイルのような液体がドロドロと流れ出ていた。
「……ひ、ひぃぃっ……!」
その異様な光景に、悲鳴を上げたのはリディアではない。
遠巻きに様子を窺っていた、残存する聖騎士団の兵士たちだった。
「く、黒騎士が……あんな化け物が、負けたのか!?」
「隊長もやられた! もう駄目だ!」
「逃げろ! この女は人間じゃない! 化け物だ!」
最強の切り札であった黒騎士が、単なる力押しではなく、まるで玩具のように破壊された。
その事実は、彼らの心をへし折るのに十分すぎた。
兵士たちは武器を投げ捨て、我先にと逃げ出した。
岩山の上にいた弓兵や魔術師たちも、蜘蛛の子を散らすように撤退していく。
「あ! 待ちなさい! まだ謝ってもらってませんよ!」
リディアが聖剣を振って呼び止めるが、それが余計に彼らの恐怖を煽ったようだ。
あっという間に、周囲から人の気配が消え失せた。
「はぁ……はぁ……。行っちゃいましたね」
リディアは座り込み、肩で息をした。
勝った。
正真正銘の怪物と、それを操る軍団に、打ち勝ったのだ。
「……やりました、アビスさん」
リディアは、リュックの中の相棒に微笑みかけた。
「アビスさんの指示のおかげです。……あのタイミング、完璧でした」
(……フン。当たり前だ)
アビスは、憎まれ口を叩きながらも、心の中でほっと息をついた。
これで追手は一時的に退いた。
だが、彼の視線は、倒れた黒騎士の残骸に釘付けになっていた。
壊れた胸部装甲の隙間から、奇妙な部品が見えている。
歯車でも、魔石でもない。
肉のような、植物のような、有機的な繊維が絡み合った「核」。
(……人造生体組織か)
アビスは、冷ややかに見下ろした。
古代文明が禁忌とした技術。
命なきものに、命の模造品を埋め込み、兵器として運用する。
「浄化者」は、失われたはずの「古代の遺産」を発掘し、それを悪用して軍事力を増強しているようだ。
(……哀れなもんだな。命令されるがままに動いて、壊れればゴミ扱いか)
アビスは、黒騎士の残骸に、一瞬だけ目を留めた。
(……見てろよ、偽物ども。本物の『魔』がどういうものか、そのうち嫌というほど教えてやる)
アビスの心に、暗い炎が灯った。
この旅の行き着く先には、単なる「敵(浄化者)の成敗」では済まされない、もっと根深い「世界の闇」が待っている気がした。
「……? どうしたんですか、アビスさん? 怖い顔して」
リディアが覗き込んでくる。
アビスは、ハッとして表情(犬顔)を戻した。
(なんでもねえ! さっさとずらかるぞ! さっきの連中が本隊を連れて戻ってくる前に!)
「そうですね! 急ぎましょう!」
リディアは、黒騎士の残骸には目もくれず、再び歩き出した。
彼女の背中で、アビスはもう一度だけ振り返り、動かなくなった鉄屑を見つめた。
それは、アビスにとっての「反面教師」であり、決して認めることのできない「紛い物」の墓標だった。
◇
それから数時間後。
戦いの痕跡が残る岩場に、数人の影が降り立った。
遅れて到着した聖騎士団の増援――先ほど逃げ帰った兵士たちの報告を受けて駆けつけた、本物の精鋭部隊だ。
彼らは、無惨に破壊された黒騎士の残骸を見て、息を呑んだ。
「……馬鹿な。黒騎士が、破壊されただと……?」
「報告にあった『呪われた血』……これほどの力を持っているのか?」
兵士たちが動揺する中、一人の男が残骸の前に跪いた。
白いローブを纏った、高位の神官風の男。
彼は、黒騎士の破壊されたコアを指でなぞり、薄ら笑いを浮かべた。
「……いいえ。これは、力任せに壊されたのではありませんね」
男は、コアに残された「打撃痕」を見た。
それは、あまりにも的確に、黒騎士の唯一の弱点である「冷却排熱孔」を貫いていた。
「この機体の構造を知り尽くしていなければ、不可能な芸当です」
男は立ち上がり、西の空を見上げた。
「面白い。どうやら、あちら側にも『過去の遺産』に詳しい者がいるようですね。……報告せねば。『あの方』もお喜びになるでしょう」
男の背後には、白銀の飛空艇が静かに降下してきていた。
追手の包囲網は破られたが、彼らの執念は、より深く、より粘着質に、二人を追い詰めようとしていた。




