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第十二話 斥候

 城塞都市バルゲルでの騒動から数日が経過していた。

 「一流の魔術師」ガリウスが謎の失踪を遂げたことで、都市は大混乱に陥り、その隙にリディアとアビスはまんまと逃げおおせていた。


 現在、二人が滞在しているのは、バルゲルから西へ馬車で三日ほどの距離にある「交易都市トランド」。

 ここは、大陸の東西を結ぶ物流の拠点で、多くの旅人や商人が行き交う活気ある街だ。

 人混みに紛れるには絶好の場所である。


「アビスさん! 待っていてくださいね! すっごく美味しい『名物』を買ってきますから!」

 路地裏の木箱の上。

 リディア・クレセントは、アビス(犬)をそこに座らせると、満面の笑みで言い残し、人波の中へと消えていった。

 食料調達だ。

 彼女曰く、「この街には『伝説の激辛スパイス』を使った串焼きがある」らしく、その匂いを嗅ぎつけた瞬間、彼女の脳内優先順位は「逃亡」から「食欲」へと切り替わったのだ。

(……行ってしまったか)

 一人(一匹)残されたアビスは、やれやれとため息をついた。

(まあいい。あの脳筋と一緒にいると、こっちまで思考回路がショートしそうになる。たまには一人の時間も悪くねえ)

 アビスは、器用に前足を組んで、通りを行き交う人々を眺めた。

 平和だ。

 ここには、「浄化者」の白銀の鎧も、狂信的な演説もない。

 ただ、日々の生活を営む人々の喧騒があるだけだ。

(……フン。平和なもんだな。俺様が支配していた頃は、もっとこう、ピリピリとした緊張感と、俺様への恐怖で街全体が引き締まっていたもんだが)

 アビスは、かつての栄光を懐かしんだ。

 だが、ふと、自身の内側に意識を向ける。

 魂の奥底。

 そこにある、「遮断された扉」。

 先日、ガリウス戦で無理やりこじ開けたその扉は、今はまた固く閉ざされている。

(……回復が遅いな)

 アビスは眉をひそめた。

 二十四時間が経過し、一応「三分解呪」のチャージは完了している。

 だが、その貯蔵タンクに溜まる魔力の質が、以前よりも重く、澱んでいる気がした。

(……やはり、この『犬の体()』では限界があるか)

 アビスの脳裏に、かつての感覚が蘇る。

 魂の中にある見えないパイプ。

 そこから流れ込んでくる、無尽蔵で、圧倒的なエネルギーの奔流。

 アビスという存在は、そのエネルギーを現世に顕現させるための「蛇口」に過ぎない。

 だが今は、そのパイプが勇者の呪いで締め上げられ、針の穴のような隙間から、ポタ、ポタと雫が垂れてくるだけだ。

(……焦れったい。壁の向こうには、世界を何万回滅ぼしてもお釣りがくるほどの力が渦巻いているってのに……。このふざけた『犬』という概念の檻が、それを拒絶してやがる)

 アビスは、自分の前足を見つめた。

 黒い毛並み。

 肉球。

 生物としては愛らしいかもしれないが、魔人としてはあまりにも不自由で、屈辱的な檻。

 早く、この檻を破壊しなければ。

 完全な接続(リンク)を取り戻さなければ。

 アビスの焦燥感は、日に日に募っていた。

 その時だった。


 ゾクリ。


 アビスの背筋に、冷たいものが走った。

 殺気ではない。

 もっと無機質で、冷徹な「観測」の視線。

(……誰だ?)

 アビスは、さりげなく周囲を見渡した。

 路地裏には、誰もいない。

 表通りは賑やかだ。

 だが、その喧騒の隙間に、異質な気配が混じっている。

 アビスの鋭敏な嗅覚が、微かな「金属臭」と「魔導薬品」の臭いを捉えた。

(……聖騎士の鎧の油と、通信用魔石のオゾン臭か。……来たな)

 アビスは、あくびをするフリをして、視線を路地の奥――屋根の上へと向けた。

 そこに、いた。

 灰色のマントを頭から被り、周囲の風景に溶け込むような迷彩魔法を纏った人影。

 手には、小さな望遠鏡を持っている。


 ―――「浄化者(ピュリファイア)」の斥候だ。


 奴らは、軍隊のように派手に動くだけではない。

 こうした「影」を世界中にばら撒き、徹底的にターゲットを追い詰める情報網を持っている。


(……チッ。見つかったか)


 アビスは舌打ちした。

 まだ、攻撃してこない。

 ということは、奴の任務は「確認」と「報告」だ。

 今、奴の手にある望遠鏡が、アビスの姿を捉えている。

 そして、その手が腰の通信水晶へと伸びるのが見えた。

 斥候は、まだ通信を繋いでいない。

 情報の確度を高めるために、慎重に観察している段階だ。

 だが、時間の問題だ。

 あと数秒、あるいは数分で、奴は「確定情報」として本部へ連絡を入れるだろう。

 まずい。

 ここで「位置情報」を送られたら、数時間後には聖騎士団の本隊がこの街を包囲するだろう。

 また逃げ回る生活か?

 いや、今度はもっと包囲網が狭まるはずだ。

 報告される前に、叩くしかない。


(……やらせるかよ)

 アビスの目が、ギラリと光った。

 リディアはまだ戻ってこない。

 この路地裏には、人気がない。

 ―――条件は、揃った。


 アビスは、木箱から降りた。

 そして、わざとらしく路地の奥、死角となる場所へとトコトコ歩いていく。

 斥候が、それに釣られて屋根の上を移動する。

 より詳細な情報を得るために、近づいてきたのだ。

 斥候が、通信水晶を起動しようとした、その刹那。


(……解呪(ディスペル)ッ!)


 カッ!


 路地裏の暗がりで、黒い閃光が走った。

 音はない。

 閃光も、一瞬で闇に吸い込まれるように消える。

 次の瞬間には、そこには犬ではなく、漆黒のコートを纏った魔人アビスが立っていた。

 彼は、屋根の上の斥候を見上げ、ニヤリと笑った。

 アビスが指を動かす。


 ズンッ!


 斥候の身体が、突然の重力に引かれて屋根から落下した。

 通信水晶が手から離れ、空中で粉々に砕け散る。

 通信は未達。

 斥候は、路地のゴミ捨て場にドサリと叩きつけられた。


「ぐっ……!? き、貴様……!」

 斥候は、流石に訓練されているだけあって、すぐに体勢を立て直し、腰の短剣を抜いた。

 だが、その目は驚愕に見開かれている。

「犬が……人間になった!? いや、その禍々しい気配……まさか、『魔人』か!?」

 斥候が、予備の通信水晶に手を伸ばす。

「本部へ! 緊急じ―――」

「……遅えよ」

 アビスの声は、斥候の耳元で響いた。

 いつの間にか、アビスは斥候の背後に立っていたのだ。

 縮地。

 身体能力だけで空間を詰める、純粋な体術。

「……なっ!?」

 斥候が振り返った瞬間、アビスの手が彼の顔面を鷲掴みにした。

「……通信は終わりだ。ここからは、俺様との『面談』の時間だぜ」

 アビスは、斥候を片手で持ち上げた。

 その指先から、ドス黒い魔力が流し込まれる。

 物理的なダメージではない。

 相手の神経系をジャックし、声を封じ、動きを封じる拘束術式。

「……が、ぁ……」

 斥候は、声を出そうとしても、空気が漏れる音しか出せない。

 恐怖。

 圧倒的な強者に対する、生物としての根源的な恐怖が、彼の思考を染め上げていく。

 だが、それ以上に、斥候はある「異常な違和感」を感じていた。

 アビスの腕から伝わってくる、魔力の質。

 それは、人間のものでも、通常の魔物のものでもない。

(……なんだ、この魔力は……? 冷たい……いや、『虚無』だ……)

 斥候の肌が粟立つ。

 目の前の男から感じるのは、生物的な温かみが一切ない、底なしの暗黒。

 まるで、世界の底に空いた「穴」を覗き込んでいるような、生理的な忌避感。

 それは、この世界に存在するいかなる生命とも異なる、根本的に異質な「何か」だった。

(こいつは……『魔族』なんて生易しいもんじゃない……。この世界に存在してはいけない……『異物』だ……!)

「……ほう。いい勘をしてるな」

 アビスは、斥候の思考を読み取ったかのように笑った。

「俺様の魔力が、『不自然』だとでも言いたげだな? ……正解だ。俺様の力は、テメエらが知ってる魔術の(ことわり)とは、根っこが違う」

 アビスの手のひらに、黒い球体が生成される。

 前回、魔術師ガリウスを消滅させた「消滅の波動」の極小版だ。

「俺様は、この世界の枠組みだけで生きてるわけじゃねえ。……もっと深い、『向こう側』と繋がってるからな」

 アビスの言葉に、斥候の目が恐怖で見開かれる。

 向こう側。

 その意味を理解する間もなく、アビスの瞳が赤く輝いた。

「……消えろ」

 アビスの手が、黒い球体を斥候の胸に押し込んだ。


 シュッ……。


 音もなく。

 悲鳴もなく。

 斥候の体は、中心から黒い渦に飲み込まれるように収縮し、そして完全に消滅した。

 塵一つ残らない。

 装備も、通信水晶も、彼が存在したという痕跡の全てが、空間から切り取られたように消え失せた。

「……ふぅ」

 アビスは、手についた(実際にはついていないが)汚れを払う仕草をした。

 完全消滅。

 これで、アビスの正体がバレることも、居場所が特定されることも防げた。

「……さて。戻るか」

 アビスが踵を返そうとした、その時。


 パリンッ。


 限界だ。

 楔が砕ける音がした。

 今回は戦闘がなかった分、余裕があると思っていたが、やはり「存在維持」だけで魔力を食うらしい。


 ―――プンッ。


 アビスの視界が低くなる。

 黒い毛玉に戻る。

 途端に、強烈な倦怠感が襲ってきた。

 魔力切れの反動だ。

(……だるっ……。マジで燃費悪すぎだろ……)

 アビス(犬)は、その場にペタンと座り込んだ。

 もう一歩も動きたくない。

 その時。

「―――アビスさーん!」

 路地の入り口から、明るい声が聞こえた。

 リディアだ。

 彼女は、両手に山盛りの串焼きと、謎の包みを持って走ってきた。

「ごめんなさい、遅くなっちゃいました! すごい行列だったんですよ!」

 リディアは、アビスの前にしゃがみ込み、ニコニコと笑った。

「でも、並んだ甲斐がありました! 見てください、これ!」

 彼女が差し出したのは、真っ赤なタレが絡まった、見るからに毒々しい色の串焼き。

 そして、もう一つ。

 謎の包みを開けると、そこには、目と口がついた、奇妙な根菜が入っていた。

「ジャーン! 『マンドラゴラの踊り食い』です!」

 ……マンドラゴラ。

 引き抜くと叫び声を上げ、それを聞いた者は発狂して死ぬと言われる、あの魔界植物だ。

 それが、なぜか調理(?)されて売られている。

「店員さんが、『叫ぶ前に噛み砕けば大丈夫!』って言ってました! 新鮮ですよ!」

(……食えるかァ! 死ぬわ! テメエの胃袋はどうなってんだ!)

 アビスは心の中でツッコミを入れたが、声に出す元気もなかった。

 リディアは、アビスが疲れていることに気づかない。

「あれ? アビスさん、お腹空いてないんですか? じゃあ、私が代わりに食べちゃいますね!」

 リディアは、マンドラゴラを頭からガブリと齧った。

 ギャアァァ……ムシャァッ!

 一瞬、断末魔のような声が聞こえた気がしたが、リディアの強靭な顎によって粉砕された。

「ん~っ! 大地の味がします! 元気が出ますね!」

 リディアの背中から、謎の緑色のオーラが立ち昇る。

 どうやら、毒も呪いも、彼女の「勇者の血(と脳筋)」の前では、ただの栄養素に変換されるらしい。

 そして、勢いづいた彼女は、もう片方の手に持っていた山盛りの串焼きにも食らいついた。

「はぐっ! ……んん~! 辛い! でも美味しい!」

 激辛スパイスが効いた肉を、次々と串から引き抜いて平らげていく。

 一本、二本、五本……。

 見る間に「山」が低くなっていく。

「あー、美味しかった! マンドラゴラとの食べ合わせも最高ですね!」

 リディアは、満足げに腹をさすった。

 恐るべき食欲。

 そして、恐るべき消化能力。

(……こいつ、ある意味、俺様よりバケモノなんじゃねえか……?)

 アビスは、戦慄した。

 斥候の始末よりも、マンドラゴラと激辛串焼きを一瞬で平らげる脳筋娘(リディア)の姿の方が、よほどホラーだった。

「さあ、アビスさん! お腹もいっぱいになったし、出発しましょう!」

 リディアは、アビスを軽々と持ち上げ、リュックに入れた。

 アビスは、リュックの中で丸くなりながら、深くため息をついた。

(……平和だ。……平和すぎて、頭が痛くなってくる……)

 斥候の脅威は去った。

 だが、アビスの苦労(主に脳筋娘(リディア)による気苦労)は、まだまだ続くのであった。

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