第十一話 一流の魔術師(後編)
冷たい石の床。
鼻をつく薬品の臭い。
そして、部屋の中央に鎮座する、銀色に輝く解剖台。
城塞都市バルゲルの地下に設けられた「対魔術師用特別牢獄」の一室は、牢獄というよりは、狂気的な実験室の様相を呈していた。
その実験室の隅には、鉄格子で仕切られた独房があり、そこにはリディア・クレセントが投げ込まれていた。
彼女は、硬い石の床の上でも器用に丸くなり、相変わらず「すー……すー……」と、緊張感のない寝息を立てて爆睡している。
ガリウスの「強制睡眠」は強力だ。
おそらく、頭元でドラを鳴らしても起きないだろう。
一方。
解剖台の上には、一匹の黒い犬――魔人アビスが、四肢を革のベルトで厳重に固定され、仰向けに張り付けられていた。
「……キャン!(……おい。冗談だろ?)」
アビスは、目の前の男を見上げて、戦慄した。
「一流の魔術師」ガリウス。
彼は、白衣のようなものを羽織り、手には鋭利な輝きを放つミスリル製のメスを持っていた。
その眼鏡の奥の瞳は、研究対象を見る冷徹な好奇心に満ちている。
「さて……。まずは君から始めましょうか」
ガリウスが、メスの先でアビスの腹(柔らかい毛並み)をツンツンとつつく。
「魔力視で見ると、君の体内構造は非常に奇妙だ。外見は犬だが、内側には超高密度の魔力回路が複雑に絡み合っている……。まるで、何者かが意図的に『犬の形』に押し込めたような」
(……チッ。流石は一流か。目の付け所が鋭すぎて笑えねえよ)
アビスは冷や汗をかいた。
このままでは、腹を切り裂かれ、内臓ではなく「魔人の魂」を引っ張り出されてしまう。
そうなれば、復活どころか、標本としてホルマリン漬けにされる未来しか待っていない。
「麻酔は使いませんよ。生体反応をダイレクトに見たいですからね」
ガリウスが、薄ら笑いを浮かべた。
彼は、メスを押し当てた。
狙いは、アビスの丹田――魔力の源。
(……上等だ、眼鏡野郎)
アビスの瞳(犬の目)から、怯えの色が消えた。
代わりに宿るのは、絶対的な捕食者の光。
(テメエがそのメスを押し込むのと、俺様が『解呪』するのは、どっちが速いかな?)
アビスは、体内で練り上げていた魔力の楔を、一気に解放した。
リディアは眠っている。
この密室には、ガリウスしかいない。
―――条件は、クリアだ。
(……解呪ッ!)
カッ!
実験室の中心で、黒紫色の閃光が炸裂した。
解剖台を固定していた革ベルトが、内側からの衝撃ではち切れ飛び、四散する。
「なっ……!?」
ガリウスが驚愕に目を見開き、反射的にバックステップで距離を取った。
光の渦の中で、小さな犬の影が、瞬く間に巨大な人型へと変貌していく。
漆黒のコート。
銀色の長髪。
そして、解剖台の上に傲然と立つ、魔人の姿。
「……フゥー……。危ないところだった」
アビス(魔力百万分の一バージョン)は、首をコキコキと鳴らし、ガリウスを見下ろした。
その全身からは、微弱ながらも、禍々しい魔力が立ち昇っている。
「き、君は……!?」
ガリウスの声が裏返った。
「犬が……人間に? いや、その魔力波長……『魔人』か!?」
「ご名答だ、人間の魔術師」
アビスは、ニヤリと笑った。
「だが、残念ながら時間がない。三分で片付けさせてもらう」
「魔人……! まさか、伝説の……!?」
ガリウスの顔に、恐怖ではなく、狂気的な歓喜の色が浮かんだ。
彼は、やはりただの兵士とは違う。
未知の脅威を前にして、逃げるどころか、「最高の実験材料」を見つけた研究者としての欲望を爆発させたのだ。
「素晴らしい! 素晴らしいぞ! まさか、勇者の末裔が連れていた犬が、魔人の擬態だったとは! これを捕らえれば、私の名は歴史に残る!」
ガリウスは、持っていたメスを投げ捨て、両手で杖を構えた。
彼の全身から、青白い魔力が噴出する。
部屋中の空気がビリビリと震え、実験器具がガタガタと音を立てる。
本気だ。
手加減なしの、最大火力をぶつける気だ。
「抵抗するなら、手足を吹き飛ばしてでも確保する! 喰らえ! 超位雷撃魔法『天雷の槌』!」
ガリウスの杖の先端に、目が眩むような雷光が収束する。
それは、直撃すればドラゴンですら黒焦げにする、高密度のプラズマ弾。
狭い室内で放てば、自分も巻き込まれかねない威力だが、彼は自身の周囲に防御結界を展開しつつ、容赦なくアビスに向けて解き放った。
ズドォォォォォォンッ!
雷の奔流が、アビスを飲み込む――かに見えた。
だが。
アビスは動かなかった。
避けることもしない。
防御魔法を展開することもしない。
ただ、迫りくる雷光を、冷めた目で見つめていた。
(……出力、推定五千。術式構成、第五階梯。……雑だな)
アビスの目には、その雷撃が「光の塊」ではなく、無数の数式と魔力回路の集合体として映っていた。
確かに、威力は高い。
まともに食らえば、今の「百万分の一」のアビスなど、一瞬で蒸発するだろう。
力と力のぶつかり合いなら、アビスに勝ち目はない。
だが。
これは「魔術戦」だ。
魔術とは、力比べではない。
いかに効率よく、世界の法則を書き換えるかという、パズルであり、計算式だ。
そして、その分野において。
千年以上を生きた魔人と、たかだか数十年生きた人間の魔術師とでは、知識のレベルが次元単位で違う。
(……そこ。繋ぎ目が甘い)
アビスは、右手をすっと前にかざした。
指先に、極小の黒い魔力を灯す。
それは、攻撃魔法ですらない。
ただの、魔力で編んだ「干渉針」。
「……書き換えだ」
アビスは、その針を、迫りくる雷撃の「術式の中枢」にある、わずかな綻びへと正確に突き刺した。
ピシッ。
ガラスにひびが入るような、小さな音がした。
その直後。
ギュルルルルルッ!
ガリウスの放った『天雷の槌』が、アビスの鼻先数センチで、唐突に停止した。
そして、まるで渦を巻くように収縮し、球体となってその場に留まったのだ。
「な、なんだと……!?」
ガリウスが目を見開く。
あり得ない。
放たれた魔法が、何の障壁もなく停止するなど。
しかも、制御権を奪われたように、自分の命令を受け付けない。
「ば、馬鹿な! 私の術式に干渉しただと!? そんな芸当、一瞬でできるわけが……!」
「できるさ。テメエの術式が、穴だらけのザルだからな」
アビスは、空中に浮かぶ雷の球体を手玉に取るように操りながら、冷淡に言った。
「威力にばかりこだわって、構成美がねえんだよ。無駄な回路が多すぎる。……添削してやったぞ、人間」
アビスが、指をパチンと鳴らす。
瞬間。
雷の球体が、色を変えた。
青白い光から、どす黒い、漆黒の闇へと。
アビスが、ガリウスの魔力を利用し、その性質を「雷」から「消滅」へと上書きしたのだ。
「ひっ……!」
ガリウスが後ずさる。
彼は本能で理解した。
目の前の黒い球体が、自分の放った魔法など比較にならない、絶対的な「死」の塊であることを。
「ま、待て! 話し合おう! 私はただ、研究がしたかっただけで……!」
「ああ、安心しろ。テメエも研究材料にしてやるよ。……『無』のな」
アビスは、無慈悲に右手を振り払った。
「『術式反転・虚無』」
黒い球体が、ガリウスに向かって射出された。
防御結界?
そんなものは紙屑同然だ。
この黒い波動は、魔力そのものを「無」へと還元する。
結界に触れた瞬間、結界ごとガリウスを飲み込んだ。
「あ、あがぁぁぁぁぁぁぁっ!」
断末魔は一瞬だった。
ガリウスの体は、足元から頭頂部まで、黒い霧に包まれ、砂のように崩れ去り、そして完全に消滅した。
服も、杖も、眼鏡も。
細胞の一片すら残さず。
後には、ただ冷たい石の床だけが残された。
「……フン。手応えのねえ」
アビスは、誰もいなくなった実験室で、肩をすくめた。
完全犯罪成立。
死体も残らないため、「行方不明」として処理されるだろう。
(……さて、残り時間は)
体内時計を確認する。
あと、一分弱。
まずい、のんびりしすぎた。
アビスは、牢獄の鍵(物理的な鉄格子)を、残った魔力で溶断した。
中に入ると、リディアはまだ爆睡していた。
「……起きろ、この能天気娘」
アビスは、リディアの頬を軽く叩いたが、反応はない。
仕方ない。
アビスは、魔力で身体能力を強化し、リディアを抱きかかえた。
そして、壁際にあった通気口のようなダクトを睨んだ。
魔力探知によれば、このダクトは都市の外壁に直結する排水路へ繋がっている。
距離にして約三百メートル。
魔人の脚力なら三十秒で駆け抜けられる。
「……行くぞ!」
アビスは、リディアを抱えたまま、ダクトの鉄格子を蹴破り、暗い穴の中へと飛び込んだ。
ダッ、ダッ、ダッ!
狭いダクトの中を、アビスは疾走する。
膝が擦れそうになる狭さだが、魔力強化された脚力で無理やり突き進む。
出口の光が見えてきた。 あと少し。 あと百メートル。
その時。
パリンッ。
体内から、無情な音が響いた。
楔が、砕け散ったのだ。
計算よりも魔力の消耗が激しかったのか、あるいはガリウス戦で使いすぎたか。
「……しまっ……!」
―――プンッ。
走っていたアビスの視界が、ガクンと低くなった。
漆黒のコートが消え、長い手足が縮み、黒い毛玉へと戻る。
当然、抱えていたリディアを支える腕もなくなる。
ズザザザーーーッ!
勢いのついたリディアの体は、慣性の法則に従ってダクトの床を滑っていき、アビス(犬)はその下に押し潰される形になった。
「グエッ!?」
アビスの悲鳴。
狭いダクトの中で、少女の下敷きになる小型犬。
完全な交通事故だ。
(……く、苦しい……! 重い……!)
アビスは、もがきながらリディアの下から這い出した。
出口までは、あと五十メートルほど。
だが、今の彼は無力な小犬だ。
爆睡するリディアを持ち上げる腕力などない。
(……クソが! ここで止まるわけにはいかねえ!)
ここで止まれば、遅かれ早かれ、追手の兵士に見つかってしまう。
アビスは、リディアの襟首にガブリと噛み付いた。
そして、四本の短い足を床に踏ん張り、必死に後ろへと引っ張った。
「グルルルッ……!(動け! 動けこの肉塊!)」
ズルッ……ズルッ……。
重い。
鉛のように重い。
だが、幸いにも排水路の床は湿っていて滑りやすかった。
アビスは、顎が外れそうになるのを堪えながら、一歩、また一歩と、リディアを引きずっていった。
(……俺様は、魔人アビスだぞ……! なんでこんな……土木作業みたいなことを……!)
プライドはズタズタだ。
だが、止まるわけにはいかない。
ズルッ、ズルッ。
出口の光が近づく。
外の風の匂いがする。
「……ふんぬぅぅぅぅっ!」
最後の一引き。
アビスは、渾身の力を込めて首を振った。
スポーン!
リディアの体が、ようやくダクトの出口から押し出された。
二人は、城壁の外の茂みの中へと転がり落ちた。
「……ハァ、ハァ、ハァ……!」
アビスは、地面に突っ伏した。
顎が痛い。
足が震えている。
魔力切れと肉体疲労で、視界がチカチカする。
(……死ぬ……。マジで死ぬ……)
やり遂げた。
「一流の魔術師」を葬り去り、証拠を隠滅し、そして最後は根性でリディアを運び出した。
誰も褒めてくれない、孤独なミッション・コンプリート。
(……せめて、高いドッグフードを……いや、ステーキを要求してやる……)
アビスが、意識を失いかけた、その時。
「……んん……」
隣で、リディアが身じろぎをした。
長い睫毛が震え、若草色の目がゆっくりと開く。
「……あれ? ……私、寝て……?」
リディアは、むくりと上半身を起こした。
キョロキョロと周囲を見渡す。
青い空。
そよぐ風。
そして、目の前にそびえる城壁は、いつの間にか「背後」にあった。
「……えっ!? 外!?」
リディアは飛び起きた。
混乱している。
確か、検問所で、あの嫌な感じの魔術師に止められて……そこから記憶がない。
気がついたら、街の外にいる。
しかも、太陽の位置からして、数時間が経過しているようだ。
「どういうこと……? 私、いつの間に検問を抜けたの?」
リディアは、自分の手足を確認した。
怪我はない。
荷物も、聖剣も無事だ。
ただ、服が泥だらけで、背中が少し擦り切れている。
「……もしかして」
リディアの脳裏に、ある可能性が閃いた。
スリープ・スパイダーの時の記憶。
「私は、寝ている間に戦っていた」という、あの(誤った)成功体験。
「……また、やっちゃいましたか?」
リディアは、顔を輝かせた。
「私ったら! また夢遊病モードで、あの魔術師さんを説得……いや、実力行使で突破しちゃったんですね!?」
彼女の脳内では、眠りながら華麗に兵士たちをなぎ倒し、魔術師を言葉巧みに(あるいは物理的に)黙らせ、堂々と正門から出てくる自分の姿が再生されていた。
ダクトを引きずられたせいで服が汚れていることなど、些細な問題だ。
「すごい! 私、無意識の方が強いのかも!」
リディアは、一人で納得し、うんうんと頷いた。
そして、足元で死んだように伸びているアビスに気づく。
「あら、アビスさん。またボロボロになって……。私の激しい動きに振り回されて、疲れちゃったんですね。ごめんなさい!」
リディアは、アビスを抱き上げ、よしよしと頭を撫でた。
アビスは、抗議する気力もなく、されるがままになっている。
(……まあ、いい。そういうことにしておけ……)
アビスは、心の中で呟いた。
今回もまた、解呪はバレずに済んだ。
リディアの勘違いスキルには助けられているが、同時に、自分の功績が全て彼女のものになる理不尽さに、少しだけ涙が出そうだった。
「さあ、難関突破です! このまま『浄化者』の本拠地まで、ノンストップで行きますよ、アビスさん!」
リディアは、アビスをリュックに放り込むと、再び歩き出した。
その足取りは軽い。
背後には、一流の魔術師が行方不明になり、大混乱に陥っているであろう城塞都市バルゲルがあったが、彼女はそんなことは知る由もなかった。




