第十話 一流の魔術師(前編)
大陸中央へと続く街道を、犬を入れたリュックサックを背負った少女が歩いていた。
あの日、「浄化」された街で見た惨劇は、リディア・クレセントの心に消えない炎を灯していた。
その炎は、彼女の足を止める重石ではなく、前へと進むための強力な推進力となっていた。
「……見えてきましたよ、アビスさん!」
リディアが声を上げた。
街道の先、小高い丘の上に、堅牢な城壁に囲まれた巨大な都市が姿を現したのだ。
城壁には無数の旗がはためいている。
あの、忌まわしき「浄化者」の紋章――白銀の太陽を模した旗だ。
(……チッ。でかいな)
リュックサックの中から顔を出した魔人アビス(犬)は、その都市を見て目を細めた。
城塞都市バルゲル。
交通の要衝であり、かつては自由貿易で栄えた街だが、今は完全に「浄化者」の支配下に置かれているようだ。
城門の前には長蛇の列ができている。
検問だ。
白銀の鎧を着た兵士たちが、街に入ろうとする商人や旅人たちを一人一人、厳重にチェックしている。
「あそこを通らないと、先へは進めませんね」
リディアが、背中の大剣(布でグルグル巻きにして隠している)の位置を直しながら言った。
アビスは、ため息をついた。
(……おい、脳筋。まさか、正面から堂々と並ぶつもりか?)
「え? ダメですか?」
(ダメに決まってんだろ! テメエは今、全大陸に指名手配されてる『最重要指名手配犯』だぞ! 自分の顔が書かれた手配書の前で『こんにちは、通してください』って言うつもりか!)
アビスの指摘通り、城門の脇には掲示板があり、そこにはリディアの人相書き(なぜか実物より少し凶悪な顔で描かれている)がデカデカと貼り出されていた。
懸賞金は、破格の「金貨一万枚」。
城一つ買える金額だ。
「うーん……。でも、変装すれば大丈夫じゃないですか?」
リディアは、リュックからゴソゴソと何かを取り出した。
それは、どこで拾ったのか、度の入っていない「黒縁メガネ」だった。
「じゃーん! これでどうですか? 知的な文学少女に見えませんか?」
リディアがメガネをかけて、ドヤ顔でポーズを決める。
(……)
アビスは絶句した。
変わっていない。
何も変わっていない。
燃えるような赤い髪も、健康そのものの屈強な肢体も、そして何より全身から溢れ出る「私は脳筋です」というオーラも、メガネ一つで隠せるわけがない。
むしろ、メガネをかけたことで「無理して賢く見せようとしている馬鹿」という印象が強まっただけだ。
(……お前、本当にそれで騙せると思ってるのか?)
「自信あります! 私、昔からかくれんぼは得意でしたから!」
(……かくれんぼと変装は関係ないだろ……こいつ本物の馬鹿か?)
アビスは頭を抱えた(前足で)。
だが、他にルートはない。
この都市を迂回しようとすれば、険しい山脈を越えることになり、数週間のロスになる。
アビスのナビゲート能力を駆使して、検問の警備が手薄な瞬間を狙うしかない。
(……いいか、リディア。余計なことは喋るなよ。聞かれたことだけに答えろ。愛想笑いもするな。テメエの愛想笑いは、嘘をついてる時の顔そのものだからな)
「失礼ですね! 分かりましたよ、クールな女を演じればいいんですね!」
リディアは、メガネをクイッと押し上げ(指紋がついた)、列の最後尾に並んだ。
◇
列は、遅々として進まなかった。
検問は異常なほど厳重だった。
荷物の中身を全てぶちまけさせられ、身体検査まで行われている。
それだけではない。
検問所の奥、兵士たちの後ろに、一人の男が椅子に座って、鋭い視線を列に送っていた。
その男は、兵士とは違う、豪奢なローブを身に纏っていた。
青いローブに、金の刺繍。
手には、先端に大きな水晶玉がついた杖を持っている。
年齢は三十代半ばほどか。
神経質そうな細い顔立ちに、銀縁の眼鏡。
その瞳は、まるで爬虫類のように冷たく、そして傲慢な光を宿していた。
(……あいつは……魔術師か?)
アビスの警戒レベルが跳ね上がった。
ただの魔術師ではない。
アビスの「魔力感知」が、あの男から漂う独特の魔力の波長を捉えていた。
練度が高い。
そこらの野良魔術師や、軍属の量産型魔導兵とは違う。
体系化された魔術理論を修め、実戦で磨き上げられた、「一流」の魔術師の気配だ。
(……厄介だな。物理攻撃しか脳がない騎士連中なら、リディアのゴリ押しで突破できるが……魔術師、それも『感知系』に長けた奴がいるとなると、変装なんて一発でバレるぞ)
アビスが懸念している間に、順番が回ってきた。
兵士が、無愛想にリディアの前に立つ。
「次。身分証を見せろ」
「あ、はい。……持ってません」
リディアが「クールな女」を演じようとして、無表情(というより、怒っているような顔)で答える。
「持ってない? なら、通行許可証は?」
「ありません」
「……目的は?」
「観光です。……文学的な」
リディアがメガネをクイッとする。
兵士の眉間に皺が寄った。
怪しい。
あまりにも怪しい。
背中には、布で巻かれているとはいえ、明らかに巨大な武器のようなものを背負っている。
そして、リュックからは黒い犬が顔を出している。
「その背中の荷物はなんだ?」
「……筆記用具です」
「そんなデカい筆記用具があるか! 貴様、ふざけているのか!」
兵士が槍を突きつける。
周囲の兵士たちも、一斉に武器を構えた。
騒ぎを聞きつけて、奥に座っていたローブの男――魔術師が、ゆっくりと立ち上がった。
「……騒々しいですね。何事ですか?」
魔術師が近づいてくる。
その声は、鈴を転がすように滑らかだが、底冷えするような響きを含んでいた。
「はっ! 申し訳ありません、ガリウス様! 不審な女がいまして……」
「不審? ……ふむ」
ガリウスと呼ばれた魔術師は、眼鏡の奥の瞳で、リディアをじっと見据えた。
上から下へ。
そして、彼女の瞳の奥を覗き込むように。
(……チッ! 『鑑定』か!)
アビスは舌打ちした。
ガリウスの目が、微かに青く発光している。
あれは「魔力視」。
相手の保有魔力量や、属性を見抜く上級魔法だ。
リディアは魔法は使えないが、その身には「勇者の血」という莫大な魔力リソースが流れている。
それは、隠そうとしても隠しきれるものではない。
まるで、暗闇の中で松明を燃やしているようなものだ。
「……ほう」
ガリウスの唇が、三日月形に歪んだ。
彼は気づいたのだ。
目の前の、文学少女を装った脳筋娘の中に眠る、異常なほどのエネルギーに。
「君。……面白い『色』をしていますね」
ガリウスが一歩近づく。
「一般人にしては、あまりにも魂が輝きすぎている。……まるで、そう。伝説に聞く『勇者』のように」
リディアの肩がビクッと跳ねた。
図星を突かれ、彼女の「クールな女」の仮面が崩れ落ちる。
「えっ!? い、いえ、私はただの通りすがりの文学者で……勇者だなんて、そんな、滅相もありません! あははは!」
「……嘘をつくのが下手ですね」
ガリウスは冷笑した。
彼は、兵士たちに目配せをした。
兵士たちが、じりじりと包囲を縮める。
「確保しなさい。……抵抗するようなら、手足を折っても構いませんよ。『浄化』する前に、私がたっぷりと『研究』させてもらいますから」
ガリウスの言葉に、リディアの顔色が変わった。
研究。
浄化。
その言葉が、あの滅ぼされた街の記憶を呼び覚ます。
「……やっぱり、あなたたちも『浄化者』なんですね」
リディアの手が、背中の「筆記用具」へと伸びる。
もう、演技は終わりだ。
彼女の瞳に、戦士の光が戻る。
「私は捕まりません! ここを通らせてもらいます!」
「ほう。抵抗しますか。……野蛮ですね」
ガリウスは、杖を軽く振った。
リディアが、布を破り捨て、漆黒の聖剣を抜き放とうとした、その瞬間。
「……遅い」
ガリウスが呟いた。
彼の杖の先端から、音もなく、波紋のような紫色の光が放たれた。
それは、攻撃魔法ではない。
物理的な破壊力を持たない、純粋な「精神干渉」の波動。
「強制睡眠」
ガリウスの言葉が、リディアの脳髄に直接響く。
それは、ただの睡眠魔法ではない。
相手の脳の意識中枢に直接ハッキングをかけ、強制的にスイッチを切る、高等な精神魔術だ。
「……え?」
リディアの動きが止まった。
聖剣の柄を握ったまま、彼女の膝がガクンと折れる。
強烈な睡魔。
それは、三日三晩の徹夜明けなどという生易しいものではない。
まるで、頭上から見えないハンマーで殴られたかのような、抗いようのないシャットダウン。
「あ……れ……? 急に……眠……」
リディアの視界が歪む。
アビスの叫び声が、遠く聞こえる気がした。
(おい! 馬鹿! 気合を入れろ! 寝るな!)
だが、リディアの「脳筋」は、物理攻撃には無敵の防御力を誇るが、こうした「搦め手」に対しては、驚くほど無防備だった。
魔法防御力、ほぼゼロ。
状態異常耐性、ザル。
彼女の鍛え上げた筋肉も、脳に直接作用する魔法の前では意味をなさなかった。
「……う……あ……」
ドサッ。
リディアは、その場に崩れ落ちた。
聖剣が手から離れ、地面に転がる。
彼女は、まるで糸の切れた人形のように、深い深い眠りの底へと沈んでいった。
◇
(……嘘だろ!?)
リュックの中からその一部始終を見ていたアビスは、戦慄した。
またか。
また、このパターンか!
スリープ・スパイダーの時と同じだ。
いや、今回はもっと悪い。
相手は知性のある人間、それも「一流」の魔術師だ。
(おい、呪い! 仕事しろ! ご主人様がピンチだぞ! 解呪しろ!)
アビスは、自分の体内の「安全装置」を確認した。
……反応なし。
しーん、としている。
(……チッ! やっぱりか!)
アビスは悪態をついた。
ガリウスの魔法は、「眠らせる」だけのものだ。
直接的なダメージはない。
心臓を止めるわけでも、呼吸を止めるわけでもない。
ただ、「寝ている」だけ。
アビスの呪いは、これを「生命の危機」とは判定しないのだ。
この、融通の利かないポンコツ呪いめ!
「……ふん。あっけないですね」
ガリウスが、倒れたリディアを見下ろして鼻を鳴らした。
彼は、地面に転がった黒い聖剣に目を留めた。
「これが、報告にあった『呪いの鍵』ですか。……禍々しい。ですが、興味深い構造だ」
ガリウスは兵士たちに指示を出した。
「この女を地下牢へ運びなさい。聖剣は私が預かります。……ああ、それと」
ガリウスの視線が、リュックから顔を出しているアビス(犬)に向けられた。
「その犬も、一緒に連れて行きなさい。魔力反応は微弱ですが……妙に知性を感じる目をしています。ついでに解剖して、中身を見てみましょう」
(……は?)
アビスの体が凍りついた。
解剖。
中身を見る。
それは、聞き捨てならない単語だ。
リディアは「研究」だが、俺様は「解剖」かよ!
(……ふざけんな! 俺様は、魔人アビスだぞ! 実験動物じゃねえ!)
兵士が、アビスの首根っこを乱暴に掴み上げる。
宙に浮く体。
無力な犬の姿では、抵抗することさえできない。
「キャン! キャン!(離せ! この下郎が!)」
「うるさい犬だ。口輪をはめておけ」
ガリウスは冷淡に言い捨て、踵を返した。
リディアは、数人の兵士によって担架に乗せられ、運ばれていく。
アビスもまた、別の兵士に小脇に抱えられ、連行されていく。
行き先は、都市の地下に作られた、対魔術師用の特別牢獄。
一度入れられれば、転移魔法での脱出は不可能だ。
(……クソッ! クソッ! クソッ!)
アビスは、兵士の脇の下で暴れながら、必死に思考を巡らせた。
リディアは眠っている。
呪いの自動解除は発動しない。
このままでは、二人とも実験台にされて「THE END」だ。
残された手段は、一つしかない。
あの、「伝家の宝刀」。
二十四時間のチャージを経て、再使用可能になっている、「三分間の制限解呪」。
(……使うしかねえのか。また、こんな……!)
アビスは悔しさに歯噛みした。
貴重な切り札を、こうも安々と浪費させられるとは。
だが、今はタイミングが悪い。
ここは衆人環視の中だ。
今ここで変身すれば、確実に「魔人アビス」だとバレる。
それに、あのガリウスという魔術師。
ただ者ではない。
真正面からぶつかれば、百万分の一の魔力では、返り討ちに遭う可能性が高い。
(……待て。焦るな)
アビスは、暴れるのをやめた。
兵士は「やっと大人しくなったか」と鼻を鳴らす。
アビスは、連行されていくリディアの背中を見つめながら、冷静に機を窺った。
(……地下牢だ。奴らが油断し、俺様とリディアを牢屋に入れた瞬間……あるいは、あの魔術師が俺様を『解剖』しようとメスを握った瞬間……)
そこが、勝負所だ。
一瞬の隙を突いて変身し、不意打ちで制圧する。
そして、証拠を一切残さず、この都市から脱出する。
(……覚えてろよ、メガネ野郎)
アビスの瞳(犬の目)が、ドス黒く濁った。
(テメエは、俺様を『犬』だと思って侮った。その油断が、テメエの命取りだ。……魔人を『解剖』しようとしたことがどれほど高くつくか、その身を持って教えてやる)
一人と一匹は、暗い地下へと続く階段を、引きずられるように降りていった。
扉が閉まる。
重い金属音が、絶望の音色のように響き渡った。




