第一話 五年間の屈辱
あれから、五年の歳月が経過していた。
大陸の片隅、勇者の末裔の隠れ里。
かつて大陸全土を恐怖に陥れた最恐の魔人アビスは、今や、見る影もなかった。
中庭の柔らかな日差しの中、一匹の黒いポメラニアン似の子犬が、死んだ魚のような目(犬だが)をして、地面に転がっている。
彼の、漆黒の毛並みは、今日も今日とて、主であるリディアが趣味で選んだ高級(だが、安っぽい花の匂いがする)シャンプーの香りに、徹底的に汚染されていた。
(……五年だ)
アビスは、もはや抵抗する気力も湧かない、この屈辱的な日常を反芻していた。
(……五年だ……! この俺様が、この脳筋娘の家畜に成り下がって、五年……!)
雑魚ども(元・四天王)を華麗に粛清し、大陸の真の支配者として返り咲いたあの瞬間。
この、勇者の末裔の、脳筋娘のたった一言。
『ハウス!』
あの理不尽な一言によって、魔人アビスの「世界破壊計画」は完璧に頓挫した。
そして、この五年間。
彼の、魔人としての牙は、確実に抜かれ続けていた。
あの、忌まわしき「ドッグフード」という名の家畜の餌を、何千回、何万回と、噛み砕かされ。
「お風呂」という名の水拷問に幾度となく放り込まれ。
彼の、魔人としての尊厳は、今や、風前の灯火だった。
「―――さあ、アビスさん。行きますよ」
アビスの絶望的な思考を、涼やかな声が遮った。
声の主は、リディア・クレセント。
五年前、あの忌まわしき遺跡で、アビスを封印していた黒い聖剣(呪いの鍵)を引き抜き、この全ての元凶となった娘。
彼女は、今や、五年の歳月を経て「小娘」から「年頃の娘」へと忌々しいほどに順調に成長していた。
背は、アビスが(犬の姿で)見上げるほどに伸びた。
あの、脳筋勇者の末裔らしい無駄な筋力も、この五年間の「軟禁生活(と彼女が呼ぶ、ただの引きこもり生活)」の中で、筋力トレーニングを毎日していたおかげで、さらに強化されたらしい。
昨日も、アビスが(ささやかな抵抗として)昼寝の寝床にしていた重い(並の人間なら三人掛かりで動かすような)クローゼットを、彼女は片手で軽々と持ち上げて修理していた。
それだけではない。
この隠れ里の閉鎖的な環境がそうさせたのか、彼女は、この五年間、屋敷の膨大な書庫に入り浸り、初代勇者が残した(とされる)文献を読み漁っていた。
その結果。
あの、脳筋一辺倒だった思考回路に、無駄な「知識(主に歴史と魔術理論)」まで蓄えられてしまったのだ。
つまり、こうだ。
五年前、アビスを絶望の淵に叩き落とした、あの小娘は。
今や、「筋力と知識を兼ね備えた、最強の脳筋」へと、最悪の進化を遂げていた。
「…アビスさん? …聞こえてますか? …『お散歩』ですよ」
その、涼やかな声が、再び、アビスを現実へと引き戻す。
アビスは、死んだ魚のような目(犬だが)で、ゆっくりと彼女を見上げた。
彼女の、その白い(一見)華奢な手。
その手には、あの忌まわしき、革製のリードが握られていた。
五年前、このペット生活が始まった頃。
アビスは、この「お散歩」という名の公開処刑に、どれほどの抵抗を試みただろうか。
唸り、吠え、その短い足で、必死に床を踏ん張った。
その抵抗のすべては、彼女のあの一言で粉砕された。
『―――ハウス』
脳天を貫く、あの金縛りの苦痛。
あの、魔人としての魂の根幹を揺さぶる、絶対的なペナルティ。
アビスは、学んだ。
この五年間で、完璧に学んでしまったのだ。
抵抗は無意味である、と。
「…アビスさん?」
リディアの、声のトーンが、ほんの少しだけ低くなった。
彼女は、もはや、あの忌まわしき呪文を口にさえしなくなっていた。
ただ、その若草色の瞳をした目をすっと細め。
あの、「ハウス!」と叫ぶ直前の「冷たい視線」を、アビスに向けるだけ。
それだけで、十分だった。
(…ひっ…!)
アビスの、小さな黒い体がビクッと震えた。
パブロフの犬。
いや、アビスの犬だ。
あの金縛りの苦痛の記憶が、彼の魔人としての最後のプライドをいとも容易く粉砕する。
(…い…。…行くよ。お散歩、行くから! その目で、俺様を見るんじゃねえ…!)
「ワン!(行きます!)」
アビスは、その短い尻尾をちぎれんばかりに振り、彼女の足元に駆け寄った。
我ながら完璧な媚びへつらいだった。
「…ふふ。…よし、いい子ですね、アビスさん」
リディアは、満足げに微笑んだ。
彼女は、アビスの、そのあまりに完璧な「調教」の成果を、疑うことさえしない。
彼女は、アビスの首輪に、リードをカチリと繋いだ。
屈辱の革紐。
アビスは、この五年間、毎日毎日、この革紐に繋がれ、この無駄にだだっ広い中庭を引きずり回されているのだ。
「さあ、アビスさん! 今日も元気に歩きましょう!」
「ワン! ワン!(フン! テメエの、その無駄に鍛え上げた脚力に、付き合ってやるぜ!)」
こうして、アビスの、五年と一日目の「お散歩」が始まった。
◇
……地獄だった。
地獄、以外の何物でもなかった。
「アビスさん! 遅れてますよ! ほら、走って! 走って!」
「キャン! キャン!(待て! 待て、この脳筋がァ! 俺様の、この短い足で、テメエのその異常な歩幅に、合わせられるわけがねえだろがあああああっ!)」
リディアは、この五年間で、さらに体力を増強させていた。
彼女にとっての「お散歩」は、アビス(犬)を運動させるためではなく、彼女自身が日課として行っている「トレーニング」の一環に、組み込まれていたのだ。
中庭の周囲、数百メートルを、彼女は凄まじい速度で周回する。
アビスは、そのリードの先に繋がれ、文字通り「引きずり回されて」いた。
舌が口から飛び出し、呼吸は荒くなり、足はもつれ、彼の黒い毛玉(本体)は、もはや地面を引きずられるただの雑巾と化していた。
(…く…くそ! …この、俺様が! …この、大陸を恐怖のどん底に陥れた魔人アビス様が! …こんな、脳筋娘一人のランニングに付き合わされて、雑巾のように引きずられているとは…!)
これが、屈辱でなくて、何だというのだ。
数十分後。
アビスが、本気で泡を吹きそうになった、その瞬間。
リディアの足が、ぴたりと止まった。
「…ふう。…いい、運動になりましたね、アビスさん」
「…ハァ…! …ハァ…!(…テメエだけ、だろが!)」
アビスは、地面に突っ伏したまま、彼女を見上げた。
彼女は、汗一つかいていなかった。
これが、勇者の末裔の血筋が持つ力か。
ふざけやがって。
「さあ、アビスさん。…運動の後はアレですよね?」
リディアが、その忌まわしき笑みを浮かべた。
アビスの心臓(犬の)が、ドクンと跳ね上がった。
(…ま、待て…。…まさか、お前。この地獄のランニングの後に、まだ続ける気か…!?)
彼女は、中庭の物置から、一つの物体を取り出した。
―――赤い、ゴム製のボール。
あの夜、アビスの魔人としての尊厳を完全に粉砕した、あの忌まわしき玩具。
アビスが、この五年間で、最も憎悪し最も恐怖した物体。
「さあ、アビスさん!『ボール遊び』ですよ!」
(…や…やめろ!)
アビスは、最後のプライドを振り絞り、後ずさった。
(…やめろおおおおおお! …俺様はもう走れねえ! …もう、そのプピプピ鳴るクソボールを追いかける体力は、残ってねえんだよ!)
彼は、必死にその場に踏ん張った。
彼の、そのささやかな抵抗を見て、リディアは、にっこりと微笑んだまま、静かにあの姿勢に入った。
若草色の瞳をした目がすっと細められる。
(…ひっ…!)
来る!
あの、悪夢のペナルティが!
あの、金縛りの苦痛が来る!
「…アビスさん?」
彼女が、アビスの名前を呼んだ。
ただ、それだけ。
それだけで、アビスの、五年かけて培われた「恐怖」の回路は完璧に作動した。
(…く…! …くそがああああああああっ!)
アビスは、その短い足を床に叩きつけた。
(…やる! やればいいんだろ! そのクソボール! 取ってきてやるよ!)
「キャン! キャン! キャン!(投げろ! さあ、投げるがいい、小娘! 俺様は、準備万端だぜ!)」
アビスは、その場でジャンプし、尻尾を振り、リディアのご機嫌を取った。
「…ふふ。…よろしい」
リディアは、満足げに頷くと、その鍛え上げられた腕力で、赤いボールを中庭の遥か彼方へと放り投げた。
ヒュッ!
アビスは内心で毒づいた。
…馬鹿か、テメエは(いや、馬鹿だが)。
小犬相手に投げる飛距離じゃねえだろが。
「取ってきて!」
「ワン!((理不尽だあああああああっ!)」
アビスは、残りの体力のすべてを振り絞り、あの赤い悪魔のボールを追いかけて、走り出した。
五年。
五年だ。
アビスは、この五年間、一体何をしてきたというのだ。
お散歩。
ボール遊び。
ドッグフード。
お風呂。
この、無限に繰り返される、屈辱のループ。
(…五年だ…!)
アビスは、赤いボールを咥え、プピ、と間抜けな音を鳴らしながら、主の元へと、とぼとぼと戻っていく。
(…この俺様が、この脳筋娘の家畜に成り下がって、五年……!)
彼の世界破壊計画は、もはや、風前の灯火だった。
…いや。
…まだだ。
彼は、この屈辱の日々の中で。
この脳筋娘の監視の目を盗み。
夜、皆が寝静まった頃、屋根裏部屋で、たった一つの希望を掴みかけていた。
(…見てろよ、小娘…!)
アビスは、ボールを彼女の足元に、コトンと落とした。
(…今夜だ…。…今夜こそ、この五年間の「呪い解析」の成果を試してやる…!)
魔人アビスの、本当の戦い(矮小な復讐)は、まだ終わってはいなかった。




