パンを焼いてただけなのに~お忍びで来た冷酷王子の胃袋を掴んだ結果、なぜか過保護に溺愛されています~
夜明け前の静寂を破るように、アネモネ・ベーカリーの古い木の扉がカラン、と優しい音を立てる。
ふわりと甘い小麦の香りが、まだ眠りから覚めやらぬ路地へと流れ出した。
アネモネは、白いエプロンの紐をきゅっと結び直し、使い込まれたパン焼き窯に薪をくべる。
ぱちぱち、と心地よい音が響き、窯の中が温かな橙色に染まっていくのを、彼女は愛おしそうに見つめていた。
パンを焼くことは、アネモネにとって呼吸をするのと同じくらい自然なこと。
丸くこねられた生地は、まるで生きているかのように彼女の手の中で形を変え、やがてふっくらと膨らみ、香ばしい焼き色を纏って窯から現れる。
その瞬間が、たまらなく好きだった。
「アネモネ、おはよう。今日も早いね」
店の奥から、眠そうな目をこすりながら父が出てくる。
「おはよう、お父さん。一番窯のパン、もうすぐ焼き上がるよ」
にっこりと微笑むアネモネの頬は、窯の熱でほんのりと上気していた。
彼女には、ささやかな夢がある。
幼い頃からの許嫁である、騎士のルカ。
最近はめきめきと頭角を現し、忙しいのか以前ほど店に顔を見せなくなってしまったけれど、いつか彼と結婚したら、毎日焼きたてのパンと温かいシチューで彼を迎えるのだ。
そんな穏やかで、パンの香り漂う家庭を築くことが、アネモネの胸の内に灯る小さな、けれど大切な希望だった。
ルカの好きな、少し硬めのライ麦パン。
彼が遠征から帰ってきたら、びっくりさせようと新しいレシピも練習している。
そんなことを考えながら生地をこねるアネモネの横顔は、朝日に照らされた焼き立てのパンのように、きらきらと輝いていた。
ただ、時折ルカが見せるようになった、どこかよそよそしい態度だけが、彼女の心の隅に小さな影を落とすのだったが……。
きっと、出世して忙しいだけだわ。そう自分に言い聞かせるアネモネだった。
◆
その日は、朝から小雨がぱらついていた。
いつもより少し客足の少ないパン屋の店先で、アネモネが焼きたてのパンを並べていると、見慣れた人影が近づいてくるのが見えた。
「ルカ……!」
思わず声が弾む。ここ数週間、顔を見ていなかった彼の姿に、アネモネの心は春の陽だまりのように温かくなった。
けれど、彼の纏う雰囲気は、以前とはどこか違っていた。
騎士の正装に身を包み、背筋を伸ばして立つ姿は凛々しいけれど、その表情は硬く、アネモネを見つめる瞳には、かつての親しげな光は宿っていなかった。
「大事な話がある。奥へ」
低く、感情の抑揚のない声。
アネモネは胸騒ぎを覚えながらも、彼を店の奥の小さな応接スペースへと案内した。
ルカは椅子に腰かけることもせず、アネモネに向き直ると、まるで値踏みするかのような視線を彼女に向けた。
そして、冷ややかに言い放ったのだ。
「アネモネ。単刀直入に言う。お前との婚約は破棄させてもらう」
瞬間、アネモネの頭の中が真っ白になった。
何を言われたのか、理解が追いつかない。
ただ、彼の唇が紡いだ言葉の冷たさだけが、じわりと肌に染み込んでくるようだった。
「え……? ルカ、何を……だって、私たち……」
か細い声で問い返すのが精一杯だった。長年積み重ねてきた想い出や、未来へのささやかな夢が、音を立てて崩れていくような感覚。
「俺は近衛騎士団への配属が決まった。いずれは騎士団長、いや、それ以上も夢ではない。そんな俺の未来に、パン屋の娘のお前はふさわしくないのだよ」
ルカの言葉は、まるで鋭い氷の刃のようだった。
「俺にはもっと高貴な家柄の令嬢との縁談がいくつも来ている。お前のような女との婚約など、俺の輝かしい経歴の汚点にしかならん」
アネモネの顔から血の気が引いていくのが、自分でもわかった。
目の前にいるのは、本当にあの優しいルカなのだろうか。
彼女が恋い焦がれ、そのためにパンを焼き続けてきた、あのルカなのだろうか。
「そん、な……ひどい……」
ようやく絞り出した言葉は、雨音にかき消されそうなくらい弱々しかった。
「それに……正直、パンの匂いにはもううんざりなんだ」
とどめの一言だった。
アネモネが愛し、誇りにしてきたパンの香り。それを、彼は侮蔑するように言い捨てた。
ぷつり、とアネモネの中で何かが切れる音がした。
涙がとめどなく溢れ、頬を伝って床の木の板にぽたぽたと染みを作る。
彼女の心は、まるで焼き過ぎて焦げてしまったパンのように、ばらばらに砕け散ってしまった。
ルカはそんなアネモネを一瞥すると、何の感情も見せずに踵を返し、店から出て行った。
一人残されたアネモネは、その場にへなへなと座り込み、声を殺して泣き続けた。
雨はまだ、降り続いていた。
数日、アネモネはまるで抜け殻のようだった。
それでも、彼女はパンを焼くことをやめなかった。
父も母も、何も言わずそっと彼女を見守ってくれた。
「パン作りは……私の、全部だもの……」
ぽつりと呟き、涙の跡が残る顔を上げて、アネモネは窯に火を入れる。
彼のためではなかったはずだ。パンが好きだから、焼いているのだ。
そう自分に言い聞かせても、心の奥底にある深い傷は、ズキズキと痛み続けた。
◆
あの日から、季節がひとつ巡ろうとしていた。
アネモネの笑顔はまだ少しぎこちなく、時折ふとした瞬間に遠い目をする。
それでも、彼女は毎日パンを焼き、店先に立っていた。
パンの香りは、彼女にとって唯一の慰めであり、自分自身を繋ぎとめるための楔でもあった。
その日は、朝から厚い雲が空を覆い、冷たい雨がしとしとと降り続いていた。
こんな日は客足もまばらだ。
アネモネは、カウンターの隅で編み物をしながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
雨に濡れた石畳が、鈍い光を放っている。
カラン、とドアベルが鳴ったのは、もうそろそろ店じまいをしようかと思っていた矢先だった。
反射的に顔を上げると、そこに立っていたのは、フードを目深にかぶった長身の青年だった。
上質な、けれど旅慣れたような仕立ての良い黒いマントは、雨の雫でしっとりと濡れている。
その姿からは、どことなく近寄りがたい、張り詰めたような空気が漂っていた。
「いらっしゃいませ……」
アネモネは努めて明るい声を出す。
青年は何も言わず、ゆっくりと店内を見回した。
フードの影からのぞく切れ長の瞳は、鋭く、そしてどこか底知れない色をしていた。
彼の視線が棚に並んだパンの上を滑る。そのひとつひとつを、まるで鑑定でもするかのように。
アネモネは少し緊張しながら、彼の言葉を待った。
やがて青年は、棚の隅に残っていた、何の変哲もないシンプルな丸パンを無言で指さした。
それは、アネモネが毎朝焼く、素朴な味わいのパンだった。
「こちらで、よろしいですか……?」
青年は小さく頷く。
アネモネがパンを紙袋に入れようとした時、青年はそれを制するように手を伸ばした。
そして、そのまま無造作にパンを掴むと、一口、大きくかじった。
その瞬間、青年の動きがぴたりと止まった。
彫像のように固まった彼の顔はフードに隠れてよく見えない。けれど、何か強烈な衝撃を受けたかのような気配が、アネモネにも伝わってきた。
青年は、まるで初めてパンを食べたかのように、あるいは長年探し求めていたものにようやく巡り会えたかのように、残りのパンを夢中で口へと運んでいく。
その食べっぷりは、どこか切実で、鬼気迫るものさえあった。
あっという間にパンを食べ終えた青年は、しばしの沈黙の後、掠れた声でぽつりと呟いた。
「……美味い」
それは、心の底から絞り出したような、魂の呟きにも似ていた。
そして、彼はカウンターに数枚の銅貨を置くと、アネモネが何か言う間もなく、風のように店から出て行ってしまった。
後に残されたのは、雨音と、そしてアネモネの胸の中に生まれた小さな、不思議な温かさだけだった。
◆
次の日も、雨は降っていた。
アネモネが昨日と同じように店番をしていると、開店とほぼ同時にドアベルが鳴った。
そこに立っていたのは、昨日の謎の青年だった。
やはりフードを目深にかぶり、多くを語らない。
彼はまっすぐにパンの棚へと進むと、昨日と同じ丸パンを指さした。そしてもう一つ、アネモネが今朝焼いたばかりの、ほんのり甘いミルクパンも。
それからというもの、青年は雨の日も晴れの日も、毎日欠かさずアネモネの店にやって来るようになった。
彼はいつも無口で、必要最低限のことしか話さない。
けれど、アネモネが焼いたパンを、それはそれは美味しそうに食べるのだった。
時には、パンの焼き加減や材料について、ぽつりぽつりと尋ねてくることもあった。
「このパンに使っている酵母は、自家製か……?」
「今日のパンは、少しハーブの香りが強いな。悪くない」
彼の言葉はぶっきらぼうだが、その内容はいつも的確で、アネモネのパン作りへの情熱を刺激した。
アネモネは、いつしか彼が来店する時間を心待ちにするようになっていた。
彼の正体は依然として謎に包まれたままだ。高貴な身分であることだけは、その立ち居振る舞いや言葉の端々から何となく察せられたが、それ以上は何もわからなかった。
それでも、彼が自分のパンを「美味い」と言ってくれること、そしてそれを食べる時の真剣な眼差しが、アネモネの傷ついた心に、少しずつ優しい光を灯し始めていた。
彼が何者であるかなんて、関係ない。もはやどうでもいい。ただ、自分のパンを心待ちにしてくれている人がいる、それだけが、アネモネにとって重要なことだった。
ルカに言われた「パンの匂いにはうんざりだ」という言葉は、まだアネモネの胸の奥で棘のように刺さっている。
けれど、目の前の青年が自分のパンを愛おしそうに食べる姿を見ていると、その棘の痛みが、ほんの少しだけ和らぐような気がした。
「明日は、彼のためにどんなパンを焼こうか……」
そんなことを考える自分がいることに、アネモネは小さく微笑んだ。
それは、あの日失ったはずの、パンを焼く喜びが、再び彼女の心に芽生え始めた瞬間だったのかもしれない。
ほんのりと頬を染め、新しいレシピを思い描くアネモネの瞳には、いつの間にか雨上がりの空のような、澄んだ輝きが戻り始めていた。
◆
謎の青年がアネモネのパン屋に通い始めてから、ひと月ほどが過ぎた。
相変わらず彼は無口だったが、その眼差しや言葉の端々に、アネモネのパン、そして彼女自身に対する確かな信頼と……あるいはそれ以上の何かが感じられるようになっていた。
アネモネもまた、彼のためにパンを焼く日々に、失いかけていた温かな喜びを取り戻しつつあった。
その日、アネモネが朝の仕込みを終え、店先に焼きたてのパンを並べていると、店の外がにわかに騒がしくなった。
何事かと顔を上げると、パン屋の前には、立派な紋章が刻まれた豪奢な馬車が停まっていた。そして、その馬車から降り立ったのは、見覚えのある騎士の制服を纏った数人の男たちだった。けど、ルカではない。見知らぬ人だ。
彼らはパン屋の前に整列すると、その中の一人の騎士が重々しく口を開いた。
「アネモネ殿でお間違いないかな。我が君、ジークフリート第二王子殿下が、至急お呼びである」
ジークフリート第二王子――その名を聞いた瞬間、アネモネは息を呑んだ。
冷酷非情と噂され、めったに人前に姿を見せないという、あの氷の王子が?
頭の中が混乱し、目の前が真っ白になるような感覚。
なぜそのような身分の方が……?
自分はいったいなにをしでかしてしまったのだろう。
身に覚えがない。
アネモネは、何が何だか分からないまま、ほとんど抵抗することもできずに馬車へと促された。
ガタガタと揺れる馬車の中で、彼女の心臓は破裂しそうなほど高鳴っていた。
これからどうなってしまうのだろう。一介のパン屋の娘が、王子様に対して何か無礼を働いてしまっていただろうか。
不安と緊張で、指先が氷のように冷たくなっていく。
やがて馬車は壮麗な王宮の門をくぐり、アネモネは生まれて初めて足を踏み入れる華やかな世界へと導かれた。
大理石の廊下、金糸で刺繍されたタペストリー、きらびやかなシャンデリア。その全てが、下町のパン屋で暮らす彼女にとっては現実離れした光景だった。
案内されたのは、驚くほど広大な、しかし調度品は質実剛健な印象の部屋だった。
大きな執務机の向こうに、見慣れた人影があった。
フードを被っていない彼の姿を見るのは初めてだった。
艶やかな黒髪、通った鼻筋、そして全てを見透かすような鋭いアイスブルーの瞳。
息をのむほど整った顔立ちは、噂に違わず冷たい印象を与えたが、その瞳の奥には、どこか見覚えのある、パンを前にした時の真剣な光が宿っていた。
まさかとは思ったが、あの青年が王子様だったなんて……。
「……急な呼び出し、すまなかった」
静かで、けれどよく通る声。紛れもなく、毎日パンを買いに来ていたあの青年の声だった。
「アネモネ。改めて名乗ろう。私はジークフリート・フォン・エルツハウゼン。この国の第二王子だ」
その言葉に、アネモネはただ深々と頭を下げることしかできなかった。
「君には、これからも私のためにパンを焼いてほしい。王宮でだ」
ジークフリートは淡々と言葉を続ける。
「君のパンがなければ、私は味というものを忘れ去るところだった。……いや、既に忘れかけていたのかもしれない」
その言葉には、彼の抱える深い孤独と、そしてアネモネのパンへの切実なまでの渇望が滲んでいた。
アネモネは顔を上げた。目の前の王子は、確かに近寄りがたい威厳を放っている。
けれど、彼の瞳の奥にあるのは、冷酷さだけではない何か。
それは、美味しいパンを心から求める、一人の人間の純粋な願いのようにも見えた。
「……わたくしのような者でよろしければ、喜んで」
気づけば、アネモネはそう答えていた。
不安よりも、彼の期待に応えたいという気持ちが、不思議と勝っていたのだ。
◆
翌日から、アネモネの王宮でのパン作りが始まった。
彼女に与えられたのは、広大な王宮の厨房の一角。最新式の大きなパン焼き窯もあったが、アネモネはまず、その窯と「お友達」になることから始めなければならなかった。
王宮の厨房は、まるで戦場のような場所だった。
何十人もの料理人たちが、慌ただしく立ち働き、様々な食材の匂いや熱気が渦巻いている。
その中で、平民出身で、しかも王子専属のパン職人という異例の立場で現れたアネモネは、当然のように好奇と嫉妬の視線に晒された。
「まあ、ご覧になって。あの方が王子殿下専属のパン屋さんですって。ずいぶんと……素朴な方ですこと」
「王子殿下も物好きねぇ。あんな娘の焼いたパンがお気に召すなんて」
遠巻きに聞こえてくる囁き声。
そして、時にはもっと直接的な嫌がらせもあった。
アネモネが用意していた貴重な酵母がいつの間にか捨てられていたり、パン生地に使うはずだった牛乳が、なぜか酸っぱい匂いのするものにすり替えられていたり。
窯の火加減を勝手に変えられ、パンを真っ黒こげにしてしまった日もあった。
アネモネは悔しさに唇を噛んだ。
けれど、彼女は泣き寝入りするような娘ではなかった。
「負けるものですか……!」
彼女は、持ち前の明るさとパン作りへの情熱で、その逆境に立ち向かった。
酵母がなければ、果物や野菜から新しく培養すればいい。牛乳がダメなら、豆乳や水で代用できるパンのレシピを考える。
窯の癖を見抜き、最高のパンを焼き上げるために、何度も試行錯誤を繰り返した。
彼女のひたむきな姿と、どんな困難にも屈せずに美味しいパンを追求する姿勢は、少しずつではあるが、厨房の一部の者たちの心を動かし始めていた。
ジークフリートは、表立っては何も言わなかったが、アネモネが厨房で孤立し、苦労していることには気づいていた。
ある日、料理長がジークフリートに呼び出され、厳しい言葉で何かを言われたらしいという噂が流れた。それ以来、あからさまな嫌がらせは少し減ったように感じられた。
また、アネモネが必要としていた珍しいスパイスやドライフルーツが、いつの間にか彼女の作業台にそっと置かれていることもあった。
それが誰の仕業かは明らかだったが、ジークフリートは何も言わず、ただ毎日アネモネの焼いたパンを「美味い」と言って、静かに食べるだけだった。
その不器用な優しさが、アネモネにとっては大きな支えとなった。彼女は、王子のためにも、そして自分自身の誇りのためにも、最高のパンを焼き続けようと心に誓うのだった。
◆
王宮でパンを焼き始めてしばらく経つと、アネモネはジークフリート王子の様々な顔を見るようになった。
執務室で、山のような書類に囲まれ、眉間に深い皺を寄せて難しい顔をしている姿。
時には、近衛騎士団長と剣術の訓練に打ち込み、鋭い気迫を放つ姿。
そして、アネモネが焼いたパンを前にした時の、まるで幼い子供のように目を輝かせ、無心に頬張る姿。
「氷の王子」「冷酷非情」――巷で囁かれる彼の評判は、確かに一面の真実ではあった。
彼は自分にも他人にも厳しく、感情をほとんど表に出さない。
けれど、アネモネだけが見ることのできる彼の素顔は、それだけではなかった。
疲れている時には、アネモネの差し出した温かいミルクパンを、ほっとしたようにゆっくりと味わう。
新しいパンを試作して持っていくと、最初は怪訝な顔をするものの、一口食べるとその味に驚き、そして静かに微笑む。その微笑みは、まるで冬の終わりに咲くスノードロップの花のように、儚げで、けれど心を温かくする力があった。
「今日のパンは……格別だな。何か良いことでもあったのか?」
ある日、ジークフリートがぽつりと言った。
アネモネは驚いて顔を上げた。彼がパンの味から、自分の心の機微を感じ取ってくれたことに対する驚きだった。
「はい。厨房の方と、少しだけですが……打ち解けられたような気がして」
はにかみながら答えると、ジークフリートは珍しく穏やかな眼差しでアネモネを見つめた。
「そうか。それは良かった」
その短い言葉の中に込められた温かさに、アネモネの胸はきゅん、と甘く締め付けられた。
日に日に、アネモネの中でジークフリートの存在は大きくなっていく。
それは尊敬であり、感謝であり……そして、おそらくは恋心。
けれど、相手は手の届かない王子様だ。下町のパン屋の娘が抱いてはいけない感情だと、アネモネは必死に自分の心に言い聞かせた。
彼の優しさは、きっと美味しいパンを焼く自分への労いなのだ、と。
一方、ジークフリートもまた、アネモネという存在に強く惹きつけられていることに気づいていた。
彼女の焼くパンは、彼の荒んだ心を癒やし、生きる力を与えてくれる。
そして、彼女自身の健気さ、ひたむきさ、どんな困難にも屈しない芯の強さ、パンに向ける純粋な愛情……その全てが、彼にとって新鮮で、愛おしくてたまらなかった。
他の誰にも見せたことのない素顔を、彼女の前では自然とさらけ出してしまう自分に、彼自身も戸惑っていた。
そして、彼女が他の男と親しげに話しているのを見たり、彼女が少しでも悲しそうな顔をしたりすると、胸の奥がざわざわと不快に騒ぐことにも。
それは、彼が生まれて初めて感じる、独占欲という名の熱い感情だった。
◆
アネモネの焼くパンの評判は、ジークフリート王子の執務室を飛び出し、やがて王宮全体へと広がっていった。
きっかけは、国王陛下主催の小さな茶会だった。
ジークフリートが「ぜひ母上にも味わってほしいパンがある」と、アネモネに特別に作らせた数種類のパンを献上したのだ。
国王陛下も王妃殿下も、そしてその場にいた他の王族や側近たちも、アネモネのパンの素朴ながらも奥深い味わいと、素材の良さを最大限に引き出した技術に感嘆した。
「まあ、こんなに心のこもったパンは初めてだわ」
王妃はにっこりと微笑み、アネモネを労った。
それ以来、王宮の公式な晩餐会や昼餐会でも、アネモネのパンがテーブルに並ぶことが増えた。
ジークフリートの忠実な側近である老騎士グレイアムや、アネモネのパン屋を手伝う両親は、二人の関係を微笑ましく見守っていた。
「姫様、王子殿下はあなた様のパンを召し上がっている時が、一番お幸せそうですぞ」
グレイアムはアネモネにこっそりそう耳打ちし、彼女の頬を赤らめさせた。
しかし、誰もが二人を好意的に見ていたわけではない。
特に、ジークフリート王子妃の座を狙う高位貴族の令嬢たちにとって、平民出身でありながら王子から特別な寵愛を受けているように見えるアネモネは、面白くない存在だった。
「所詮はパン屋の娘でしょう? 王子殿下も、いつまであのような女に現を抜かしていらっしゃるのかしら」
「きっと、珍しいもの好きが高じているだけですわ。すぐに飽きられますことよ」
アネモネの耳にも、そんな心ない噂や悪意に満ちた囁きが届いてくる。
ある夜会では、有力な公爵令嬢であるロザリンドという女性が、わざとアネモネのドレスにワインをこぼし、「あら、ごめんなさい。安物のドレスでは染み抜きも大変でしょうこと?」と嘲笑う事件も起きた。
その時だった。
どこからともなく現れたジークフリートが、氷のように冷たい声でロザリンドに言ったのだ。
「公爵令嬢。私の大切な客人に無礼を働くとは、どういうつもりだ?」
彼の瞳は絶対零度の輝きを放ち、その場にいた誰もが息を呑んだ。
ロザリンドは顔面蒼白になり、震えながら謝罪した。
ジークフリートはアネモネの手を取り、「大丈夫か?」と優しく気遣うと、彼女をエスコートしてその場を離れた。
その力強い腕と、自分だけに向けられる心配そうな眼差しに、アネモネの心臓は早鐘のように鳴り響く。
もう、自分の気持ちに嘘はつけない。
自分は、この人が好きだ――と。
ジークフリートもまた、ロザリンドの件で、アネモネに対する自分の想いの深さを改めて自覚していた。
彼女が傷つけられることは、自分の心が引き裂かれることと同じだと。
彼女を守りたい。彼女の笑顔を、誰にも曇らせたくない。
その強い想いが、彼の胸を満たしていた。
身分も立場も違う。だが、このかけがえのない存在を、決して手放したくはない。
二人の視線が絡み合い、そこには確かな恋の始まりを告げる、甘く切ない予感が漂っていた。
◆
季節は巡り、王宮の庭園では色とりどりの花が咲き誇っていた。
アネモネはジークフリート王子からの確かな愛情を感じながら、彼のためにパンを焼き、時には王宮の行事でその腕を振るう日々を送っていた。
彼女の焼くパンは「幸せを運ぶパン」として王都でも評判になり、かつての下町のパン屋の娘は、今や王宮に欠かせない存在となりつつあった。
一方、アネモネを捨てた元婚約者のルカは、苦々しい日々を送っていた。
近衛騎士団への配属という栄誉を手にしたものの、彼の傲慢で自己中心的な性格は変わらず、上官や同僚たちとの関係は悪化の一途を辿っていた。
重要な任務では判断を誤り、その責任を他人に押し付けようとしては周囲の顰蹙を買う。
かつて夢見た輝かしい未来は、まるで砂漠の蜃気楼のように遠のいていくばかりだった。
彼の耳には、アネモネがジークフリート第二王子から特別な寵愛を受け、王宮で華々しく活躍しているという噂が、嫌でも入ってきていた。
ある晴れた日、王宮主催の園遊会が開かれた。
貴族たちが集う華やかな会場の片隅で、警備の任についていたルカは、信じられない光景を目の当たりにする。
美しい水色のドレスをまとい、ジークフリート王子に優しくエスコートされながら、楽しそうに談笑するアネモネの姿だった。
陽光を浴びて輝く彼女の笑顔は、かつて自分が知っていた素朴なパン屋の娘のものではなく、気品と自信に満ち溢れた、まるで本物の貴婦人のようだった。
そして何よりも、彼女に向けるジークフリート王子の眼差し。それは、紛れもない深い愛情と独占欲を宿していた。
ルカの胸を、焼け付くような嫉妬と激しい後悔が襲った。
なぜ、あの女が? 俺が捨てた女が、どうして王子に……!
あの時、婚約破棄などしなければ。いや、あの女がもっと俺に従順で、俺の出世の邪魔にならないように控えめにしていれば……。
歪んだ思考が、彼の心を黒く染めていく。
アネモネの幸せそうな笑顔が、まるで自分を嘲笑っているかのように見え、ルカは握りしめた拳を震わせた。
失ったものの大きさと、手に入らなかった栄光への渇望が、彼の中で醜悪な感情へと変わっていくのに、そう時間はかからなかった。
◆
園遊会での一件以来、ルカのアネモネに対する感情は、後悔から明確な逆恨みへと変わっていた。
彼は、自分の現在の不遇は全てアネモネのせいだと思い込むようになっていたのだ。
「あの女が王子に取り入ったせいで、俺の評価が不当に下げられているに違いない」
そんな妄想に取り憑かれたルカは、アネモネに精神的な苦痛を与えようと、陰湿な嫌がらせを計画し始めた。
最初は、アネモネが王宮から実家のパン屋へ一時的に帰る道すがら、偶然を装って現れ、嫌味を言う程度だった。
「随分とご立派になられたものだな、元パン屋の娘殿。だが、いつまで王子のお気に入りでいられることやら」
「お前のような女が、本当の貴族社会でやっていけると思っているのか?」
アネモネは毅然とした態度で彼を無視しようとしたが、その執拗な言葉は、彼女の心にかつての傷の痛みを蘇らせた。
しかし、ルカの嫌がらせは次第にエスカレートしていく。
ある時は、アネモネが王宮で使うために特別に取り寄せていた貴重な小麦粉の袋に、こっそりと質の悪い砂を混ぜ込むという卑劣な行為に出た。
幸い、アネモネはパンを焼き始める直前にその異変に気づき、事なきを得たが、一歩間違えれば王子の口に入るものに危害を加えかねない行為だった。
またある時は、アネモネの実家のパン屋の壁に、彼女を中傷する落書きがされるという事件も起きた。両親は心を痛め、アネモネもまた、自分だけでなく大切な家族まで巻き込まれることに強い憤りと恐怖を感じた。
アネモネはこれらの嫌がらせがルカの仕業であると薄々感づいていたが、確たる証拠がない。
ジークフリートに心配をかけたくないという思いもあり、一人で耐えようとしていた。
だが、彼女の顔に浮かぶ翳りや、時折見せる怯えたような表情を、ジークフリートが見逃すはずもなかった。
「アネモネ、何か隠していることはないか? 君の瞳に、以前のような輝きがないように見える」
彼の優しい問いかけに、アネモネは思わず涙ぐみそうになるのを必死でこらえた。
ジークフリートはそれ以上は追及しなかったが、彼の胸の内には、愛する人を脅かす存在への静かな怒りが燃え始めていた。そして、彼は密かに信頼できる部下に、アネモネの周辺を警護し、不審な動きがないか調べるよう命じたのだった。
◆
ルカの悪行は、ついに白日の下に晒される時が来た。
その日、アネモネは王宮の厨房で、数日後に開かれる隣国からの賓客をもてなす晩餐会で出す特別なパンの試作に励んでいた。
彼女が少し席を外した隙を狙って、ルカが厨房に忍び込んだ。その手には、パン生地を台無しにするための苦い薬草の粉末が握られていた。
「これで終わりだ、アネモネ……!」
歪んだ笑みを浮かべ、彼がまさにパン生地の入ったボウルに薬草を振りかけようとした、その瞬間だった。
「――そこで何をしている、騎士ルカよ」
背後から響いたのは、氷のように冷たく、そして怒りに満ちたジークフリートの声だった。
ルカは驚愕に目を見開き、持っていた薬草の袋を床に落とした。
ジークフリートの後ろには、彼の腹心の騎士たちが数名控え、既にルカの逃げ道を塞いでいた。ジークフリートの護衛が、ルカの不審な動きを察知し、王子に急報したのだ。
「これは……その……アネモネ殿に、差し入れを……」
しどろもどろに言い訳をするルカだったが、その言葉を信じる者は誰もいない。
ジークフリートは床に落ちた薬草の袋を拾い上げると、その匂いを一嗅ぎし、そしてルカを射殺すような視線で睨みつけた。
「差し入れ、だと? このような劇物をか。貴様、アネモネに……いや、王家の賓客をもてなす晩餐会そのものを妨害し、国に……私の顔に泥を塗ろうとしたのだな」
その声のあまりの冷たさに、ルカは全身の血の気が引くのを感じた。
ジークフリートは、その場でルカを拘束させると、翌日、王宮の中庭に騎士団の主だった者たちと、一部の貴族を集め、即席の査問会を開いた。
そこでは、ルカのアネモネに対する度重なる嫌がらせ、今回の毒物混入未遂事件、さらには過去の職務怠慢や不正行為などが、次々と証拠と共に明らかにされていった。
ルカは顔面蒼白になり、見苦しい言い訳を繰り返したが、ジークフリートは一切取り合わない。
「元婚約者であったアネモネ嬢への個人的な逆恨みから、このような卑劣な犯行に及んだこと、断じて許されるものではない。騎士の誇りを汚し、王家への忠誠を裏切った罪は万死に値する!」
ジークフリートの厳粛な声が、中庭に響き渡る。
「よって、ルカ! 貴様を騎士の位から追放し、全ての官位と名誉を剥奪する! そして、私の大切な人を傷つけ……さらに国を裏切った罪で、死刑とする――!!!!」
彼はその場に膝から崩れ落ち、もはや言葉も出ない様子で震えていた。
かつての同僚であった騎士たちは、彼に軽蔑の視線を投げかけるばかり。
アネモネは、その一部始終を遠くから見守っていた。アネモネの胸には、自分を、そしてジークフリートの信頼を踏みにじった彼への怒りと、ようやく全てが終わったという安堵感が広がっていた。
ジークフリートは、厳しい裁きの後、アネモネの元へ歩み寄り、その肩を優しく抱いた。
「もう大丈夫だ、アネモネ。君を脅かすものは、もういない」
その温かい言葉に、アネモネはこらえていた涙を静かに流した。
◆
ルカの断罪から数日後、王宮には穏やかな日常が戻っていた。
アネモネの心も、長らく覆っていた暗雲が晴れ、すがすがしい青空が広がったかのようだった。
過去の忌まわしい記憶は、もう彼女を苦しめることはないだろう。
ジークフリートが、その全てから彼女を解き放ってくれたのだ。
ある月明かりの美しい夜、ジークフリートはアネモネを王宮のバルコニーへと誘った。
眼下には、宝石をちりばめたようにきらめく王都の夜景が広がっている。
「アネモネ」
ジークフリートは優しく彼女の名を呼び、その小さな手を取った。
「君と出会って、私の世界は変わった。君の焼くパンが、私の凍てついた心を溶かし、生きる喜びを教えてくれた。そして何よりも、君という存在そのものが、私にとってかけがえのない光となったのだ」
彼の真摯な言葉に、アネモネの胸は熱くなる。
「君がそばにいてくれるだけで、私は強くなれる。どんな困難も乗り越えられる気がするのだ」
ジークフリートはアネモネの手をそっと胸元へ引き寄せると、そのアイスブルーの瞳で、彼女を真っ直ぐに見つめた。
「アネモネ。私の全てをかけて、君を愛し、守り抜くと誓う。どうか、私の妃になってほしい」
それは、飾り気のない、けれど心の底からのプロポーズだった。
アネモネの瞳からは、大粒の涙が止めどなく溢れ出す。それは悲しみの涙ではなく、あふれんばかりの喜びと幸福の涙だった。
「はい……! 喜んで……ジークフリート様……!」
彼女は、震える声で、しかしはっきりと答えた。
ジークフリートは安堵の微笑みを浮かべると、アネモネを優しく抱きしめた。
月明かりの下、二つの影は固く結ばれ、永遠の愛を誓い合うのだった。
彼らの婚約は、国王夫妻をはじめ、王宮の多くの人々から祝福された。
身分違いの恋を成就させた二人の物語は、やがて王都の人々の間でも語り継がれ、多くの若者たちに勇気と希望を与えることになる。
◆
それから数年の歳月が流れた。
アネモネはジークフリートの妃となり、今では二人の可愛らしい王子と王女の母となっていた。
彼女の焼くパンの香りは、王宮の朝の代名詞となり、その温かく優しい味わいは、国中の人々に愛され、「アネモネ妃の平和のパン」として親しまれていた。
ジークフリートは、賢明で慈悲深い国王として国を治め、アネモネを変わらず深く、そして熱烈に愛し続けていた。
ある晴れた日の午後。
王宮の庭園に面した陽だまりのテラスで、アネモネは子供たちのためにパンを焼いていた。
小さな手で一生懸命パン生地をこねる王子と王女の傍らには、政務の合間を縫ってやってきたジークフリートが、穏やかな笑みを浮かべてその様子を見守っている。
「ママのパン、だあいすき!」
「パパも、ママのパンがいちばん美味しいと思うよ」
焼き立てのパンを頬張る子供たちの歓声と、ジークフリートの優しい声が、幸せなハーモニーを奏でる。
アネモネは、愛する家族に囲まれ、心からの笑顔を浮かべた。
かつて、婚約破棄という絶望の淵に立たされた日もあった。
けれど、あの時、パンを焼くことを諦めなかったからこそ、今の幸せがある。
そして、一人の謎の青年との出会いが、彼女の運命を大きく変えたのだ。
(パンを焼いていただけなのに……本当に、こんな幸せが来るなんて……)
胸いっぱいに広がる温かな幸福感を噛みしめながら、アネモネは、愛する夫と子供たちのために、今日も心を込めてパンを焼き続けるのだった。
彼女の焼くパンの香りは、これからもずっと、この国に愛と平和を運び続けるのだろう。
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