黒い影
その時だった。
川を渡り終えようとした僕のすぐ近くを──まるで幻のように、黒い影がすっと通り過ぎた。
まるで闇を泳ぐ魚のように、静かに、速く。
黒い水着と水泳帽。背中には白いペンキで番号が書かれていた。
小柄な体。無駄のない動き。水と一体になったような滑らかさ。
──誰だ。
その影は、川を渡り、橋を渡り、記録台で素早く番号を書き、またすぐに川へ戻っていった。
一言も発せず、まるでプログラムされた機械のように、淡々と。
水音さえ乱さない正確なリズム。
それは、まるでこの夜を狙って動いているかのようだった。
視界が悪く、周囲が静まり、子どもの数が減ったこの時間──
渋滞も、接触もない。失敗のリスクも減る。
だからこそ、集中して、数だけを積み上げられる。
僕は、目を奪われた。
息をするのも忘れたまま、その背中を見送った。
すごい、と思った。
でも、同時に、情けなさが込み上げてきた。
僕は、ただ根性と気力だけでここまで来た。
水の冷たさに逆らい、肩の痛みに耐え、重たい水着に身体を引っ張られながら、がむしゃらに渡ってきただけ。
なのに──この闇を、冷静に、効率的に使いこなしているやつがいるなんて。
僕は悔しくて、濡れた拳をぎゅっと握った。
でも、すぐに思った。
──僕は、僕だ。
不器用でも、効率が悪くても、これが僕のやり方なんだ。
たとえ、誰にも届かなくても。
たとえ、それが無駄に思えても。
「……もう一回だけ」
小さくつぶやいて、僕はまた一歩、川へと足を踏み入れた。




