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歩きたい
黒い水着の背中に書かれた、「268」の数字が。
彼女の歩みに合わせ、まるで小さな点のように、ゆっくりと、遠ざかっていく。
──どうする?
僕も、あの温かい場所へ行くべきなんじゃないか?
正直、体は限界に近い。
彼女と同じように休めば、少しは楽になれる。温かいスープ、湯気の立つシャワー、やわらかいソファー──それを思い浮かべるだけで、足の疲れが溶けていくようだった。
けれど、その時だった。
僕の中に、ひとつの声が浮かんだ。
──まだ、行ける。
たぶん強がりだった。でも、心のどこかで、信じたかった。
今、あの光に足を向けてしまえば、たぶん僕は、もう彼女と同じペースでは歩けなくなる。
それが、怖かった。悔しかった。
「……もう一回だけ」
小さな声だった。
冷たい雨音の中に吸い込まれて、誰にも届かない、たった一言の、僕だけの言葉。
僕は、重い足をひとつ前に出した。
そして、もう一歩。
もう彼女の気配はなかった。
でも、僕はまだ、歩ける。
歩きたいと思った。




