試練中なのに
「ちょっと、休もうね」
彼女が、ぽつりとそう言った。
学校だったら、たぶんこの一言だけで、騒ぎになってたと思う。
「え、お前ら付き合ってんの?」とか、「お似合いじゃんw」とか、誰かが後ろから言う。
僕はきっと、顔を真っ赤にして、逃げるように席を立ってた。
でも——ここには、そんなやつは一人もいなかった。
名前もない。性別もない。誰が誰かも、誰の目も、ない。
だからこそ、余計に心臓がうるさい。
ふたりで並んで、ソファに沈む。
それだけなのに、もう頭の中がぐるぐるしてた。
心臓は鼓動というより、もはや小さな爆発を繰り返しているみたいだ。
彼女の声が聞こえる。呼吸が聞こえる。それだけで喉が乾く。
距離は、近い。ほんの数センチ。
近いなんて言葉じゃ足りない。体温が感じられるくらい、近い。
僕の右手と彼女の左手が、ソファの上で5ミリも離れていないことに気づいて、手のひらから汗が吹き出してきた。
指先を少し動かしたら触れてしまう。その可能性だけで、もう息が詰まりそうだ。
たぶん今、僕は——人生でいちばん「女の子のとなり」にいる。
いや、ここでは「女の子」としての彼女なんて存在しないのかもしれない。
でも、僕の中では、もう、そういうことになってしまっていた。
彼女がソファに深く腰かけたとき、僕たちの肩がほんの一瞬だけ触れた。
何も言ってないのに、静かにここにいてくれる。
それだけで、意味もなくドキドキする。
この空間では僕たちは同じ「参加者」で、ただの番号を持った存在のはずなのに。
なのに、彼女の横顔を見るたび、喉がぎゅっと締め付けられる感じがして、呼吸するのを忘れそうになる。
なのに、誰も何も言わない。
からかいの声もない。
うわさ話もない。
誰かの目も、気配も、ない。
だからこそ、怖いくらいだった。
こんなに近くて、誰にも見られてないなんて、まるで——夢みたいで。
でもこれは、間違いなく現実で。
試練の最中で。
それでも僕の心臓は、もうずっと前から、このとなりにいる誰かのことを「女の子」として意識していた。
普段なら目を合わせるだけで頭が真っ白になるのに、こんな場所で、こんな風に隣り合わせになるなんて。
試練のことを考えなきゃいけないのに、頭の中は彼女のことでいっぱいになってる。
彼女がちょっと姿勢を変えた時、腰が僕の手に触れた。
その一瞬で、僕の全身の血管が凍りついたと思った。
彼女は気づいていない。そのことに安心するべきなのか、がっかりするべきなのか、わからない。
こんな気持ち、誰にも言えない。
でも、僕は今、この数センチの距離の中で、
こっそり人生の中で一番大事な思い出を、刻んでしまっているのかもしれない。
彼女は疲れているのか、ほんの少しだけ僕の方に傾いた。
その重みが、かすかに僕の肩に感じられる。
世界が止まった気がした。
この瞬間が永遠に続けばいいのに、と思った。
試練の途中なのに、こんなことを考えている自分が不思議で、申し訳なくて、でも——やっぱり、心の底からドキドキしていた。




