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孤独じゃない
ふたりとも、まだ食事を終えようとはしていなかった。
彼女はスープを飲み終えてもなお、器を手のひらの中にそっと抱いたまま、遠くの壁を眺めていた。僕も、トレーの上のゼリーに手を伸ばしながら、何か話しかけたかったけれど、言葉が見つからなかった。
名前を、聞こうと思った瞬間が何度かあった。
でも、言えなかった。
この世界では、名前は意味を持たない。
だって誰もが、番号でしか呼ばれない。背中に大きく書かれた白い数字。それだけが、この世界で許された「識別」。
彼女は「268」。僕は「314」。それ以上でも、それ以下でもなかった。
もし名前を聞いたとしても、それを呼ぶ場面なんてない。ここでは番号を越える関係性が許されていないような空気がある。あまりに人間的すぎるものは、この空間ではどこか浮いてしまう。
だからこそ、誰も名前を口にしない。お互いに知らないふりをしている。自分を番号に変えて、ただ“動く”。
それでも――それでも。
話しかけてもらえた。
声をかけてくれたのは、僕じゃなかった。彼女のほうだった。それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
たとえ名前を知らなくても。たとえこの先、二度と話さなくても。
この一瞬、この一席だけでも、「孤独じゃない」と思えたこと。それが、どうしようもなく大切だった。




