第73話:森の目覚めと奇妙な農家
* * *
「……!」
リクは、ふいに意識を取り戻した。
肺の奥に冷たい空気が入り込み、喉がかすかに震える。
先ほどまで全身を覆っていた重苦しい霧の感覚が消え、代わりに柔らかな風が頬を撫でていく。
気がつけば、そこは深い森の中ではなかった。
視界を包むのは鬱蒼とした木々ではなく、開けた小道に立っていた。
土の匂いが濃く漂い、湿った落ち葉が足の裏に柔らかく沈む。
「……大丈夫か?」
落ち着いた声に顔を上げると、目の前には一人の男が立っていた。年の頃は四十ほどか、穏やかな目元に人の良さがにじみ出ている。
「あなたは……?」
リクが警戒を隠さず問い返すと、男は苦笑を浮かべながら答える。
「俺はMGR。このあたりで果樹農家をやってる」
名乗ったMGRは軽く肩をすくめ、周囲へ視線を走らせた。
「お連れさんも……大丈夫そうだな」
その言葉にリクはハッとして振り返る。
少し離れた場所、仲間たちが立ち尽くし、誰もが夢うつつのようにぶつぶつと呟いていた。
「うふふ……お菓子……もっと食べたい……」
エリナは両手を胸に当て、恍惚とした笑みを浮かべている。
頭の中では甘いお菓子の家で好き放題に食べ歩いているのだろう。
「へへっ……もっとこっち来いよ……」
ライアンはにやけ顔で、誰もいない空間に手を伸ばしている。
美女に囲まれて浮かれている夢に違いない。
「……だから、俺は酒が飲めないんだって……」
ユリウスは苦虫をかみつぶしたような表情で首を振り、誰かに必死で言い訳していた。
「ふふっ……クマちゃん、ふわふわ……」
リセルは両腕を大きく広げ、見えないぬいぐるみを抱きしめる仕草をしている。
仲間たちの異様な姿に、リクは眉をひそめる。
「これは……いったい……?」
MGRは腕を組み、少し苦笑いを浮かべて説明を始めた。
「これはな、キノコバードの胞子のせいさ」
「キノコバード……?」
「幻覚作用があるキノコさ。ちょっとした音や振動でも簡単に胞子を撒き散らして、森全体を覆い尽くす。一度漂い始めると、しばらく誰も入れなくなるくらい厄介なんだ」
「……!」
「でもな、今はもう胞子から離れてる。少し揺さぶってやれば、目を覚ますはずだ」
リクは頷き、次々と仲間たちを揺すって起こしていく。
「……ん……?」
「なんだ……?」
「頭が……重い……」
「……あたし、何して……?」
一人、また一人と目を覚まし、ようやく全員が正気に戻った。
「はぁ……何だったんだ、あれは……」
ライアンが頭を押さえ、エリナも呆然と呟く。
MGRはにっこりと笑いながら言った。
「どうやら、無事だったようだな」
リクたちはほっと息をついた。
「キノコバードの胞子を吸い込んだあとは体がだるくて仕方ない。うちで少し休んでいけ」
MGRの厚意に、リクたちは顔を見合わせ、短くうなずき合う。
「……じゃあ、少しだけお世話になります」
そう口にしながら、リクはふと胸元を探った。
……そこには、ルルから受け取った小さな袋が、しっかりと残っていた。
(……やっぱり、あれは幻なんかじゃなかった)
目を閉じ、短く息を吐く。
あの奇妙な時間も、確かに“あったこと”だと、リクは心の中で噛み締めた。
* * *
MGRの家に通されたリクたちは、広間の卓に置かれた奇妙な果物を前に腰を下ろしていた。
ザナリアン――そう呼ばれるそれは、大きな楕円形で表面はゴツゴツとして硬い。
近づくだけで鼻をつく強烈な匂いが立ち上り、部屋の空気を圧倒する。
「さあ、遠慮すんな。食ってみな!」
MGRは豪快に笑い、両手で果実を押し出すように勧める。
「……すごい匂いだな、これ……」
ライアンが思わず顔をしかめ、鼻をつまむ。
MGRは得意げに胸を張った。
「確かにクセはある。でも、中身は甘くてクリーミーで、たまらん味だぞ。クセになる奴には病みつきになるんだ」
好意を無下にはできず、しかしどうしても手を伸ばす勇気が出ない。
リクたちは視線を交わし、皿の上のザナリアンを前に固まった。
そのとき――
「コケコッコーーーッ!!」
激しいニワトリの鳴き声が外から響いてきた。
MGRがピタリと動きを止め、顔をしかめる。
「……おかしいな。普段から騒ぐような子じゃないのに」
立ち上がり、ドアへ歩み寄りながら振り返る。
「ちょっと様子を見てくる。お前らはゆっくりしててくれ」
そう言い残すと、彼は足早に外へ消えていった。
* * *
広間には、再び奇妙な果物の匂いだけが残った。
リクたちは皿の前で互いに顔を見合わせ、なんとも言えない沈黙に包まれるのだった。
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