第63話:災厄の胎動
霧と炎が混ざり合う夜の寺の空に、突如として不気味な振動音が響いた。
ドン……ッ、グォォォン……ッ!
地の底から伝わるような鈍い震動。大地そのものが軋み、何か巨大な“何か”が這い上がってくるような音だった。
リクは剣を構えたまま、硬直する。
(……この音――!)
遠くから、次々と似たような波動が伝わってくる。
――momonosuke、くらしょう、地雷嫌、タケダ。
彼らがそれぞれ命と引き換えに放った「封印の札」が、今、連動して何かを起こそうとしている。
「……四つ、か」
芳坊が低く呟いた。
「これで“輪”はほぼ完成だ。あとは――最後の火種を落とすだけだな」
「……まさか!」
リクの問いに、芳坊は静かに頷く。そして、懐から禍々しく脈動する一枚の札を取り出した。
「もはや、止まる理由などない。私はこの時のために生き延びてきたのだからな」
「やめろ……! それを使えば、本当に――!」
だが芳坊は、もはやリクを見ることなく、視線を天ではなく、足元――地下へと向けていた。
「嫉妬の魔人……コードネーム9648」
「名すら持たぬその存在は……あるいは、我らが知る“悪意”の原型なのかもしれぬ」
芳坊が札を空高く放り投げた。
ズガァァァン!!
直後、地面から轟音とともに噴き上がる熱風。
空気が焦げるような熱が一瞬で広がる。
テルマ村の南方――火山の山頂から、真紅の火柱が天へと突き立った。
「う、噴火……ッ!」
リクの目が見開かれる。地面が揺れ、瓦礫が崩れ、霧が熱気で渦巻く。
「芳坊ッ!!」
その叫びと同時に――
ズドォン!!
上空から落下してきた巨大な噴石が、芳坊の真上に直撃した。
音も、光も、圧力も、すべてを飲み込む轟音。
粉砕された石畳。巻き上がる土煙。
「……ッ!!」
リクが駆け寄る間もなかった。
そこに、芳坊の姿は――なかった。
影も、血も、衣のひとかけらすらも。
(……死んだ……?)
リクはその場に膝をつきかける。だが、次の瞬間――
ボコッ、ボコボコボコ……
テルマ村全体の地面が泡立つように、異常な音を立てて揺れ始めた。
地下から吹き上がる蒸気、変色した温泉の水が、緑の泡を吹き、地割れから噴き出す。
「村が……崩れていく……!」
足元に広がる亀裂。背後で崩落する岩壁の音が、なおも地鳴りと共に響く。
「くそっ……どうすりゃいいんだ……!」
リクは歯を食いしばり、剣を握る手に力を込める。
だが、どうにもならない。芳坊は死に、テルマ村が崩壊し、そして――
* * *
誰の目にも映らぬその時、南西の断層地帯。
赤黒く渦巻く空。地面に口を開いた巨大な裂け目。
その中心で、黒き霧が一つに集まり、形を成そうとしていた。
まるで泥のように、まるで煙のように、重く、禍々しい質量が膨れ上がる。
そして――
“それ”が顕現した。
二本のねじれた角を持つ、トナカイを思わせる頭部。
だが、その目は、人ではない。
焦点の定まらない虚無と、底なしの飢え。
情動のない憎しみ。
赤黒い毛並み、異様にしなやかな四肢。
立ち上がったその姿は、まるで神性と獣性の混濁体。
『ある記録にはこう記されている。
かつて、ひとつの村で嫉妬にまつわる争いが絶えず、村人同士が互いに憎しみ合い、次第に狂気へと沈んでいったという。
そして、“それ”が現れた。
翌朝、その村は跡形もなく消え失せていた――
まるで最初から存在しなかったかのように。
後にこの存在を、人は“嫉妬の魔人”と呼んだ――
それが史実か、伝承かは誰にもわからない。
だが、今もコードネーム“9648”は、忌むべき数字としていくつかの古文書に記されている。』
その名すら忘れられた存在。
だが確かに“それ”は、今、目を覚ました。
そして――
* * *
リクの耳に、咆哮が届いた。
遠く離れているはずのその声が、まるで鼓膜の内側から響くように。
「……魔人が……現れた……」
恐怖とは違う。
だが確かに、魂が震える。
空が黒く、村を炎で呑み込むその中で――
リクは、一歩も動けなかった。
だが、戦いは終わってなどいなかった。
ここからが、本当の始まりだった。
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