第58話:失われた誇りと刃
霧が深く立ち込める寺の裏手。
風はほとんどなく、空気そのものが淀んでいるかのように重たい。
灰を含んだ湿気が肺にまとわりつき、一息吸うごとに鉛を流し込まれるような圧迫感が胸を締めつけていた。
その場に立つだけで、死の影に触れていると錯覚させるような不吉な気配が漂う。
ユリウスとタケダ。
互いに一歩も退かず、剣と刀を交えては離れることを繰り返していた。
数十合に及ぶ攻防の果てに、二人の衣は裂け、鮮血が布を染める。
しかしその眼光だけは、どちらも一分の揺らぎすらなく鋭く光り続けていた。
刀と剣が激突するたび、乾いた火花が濃霧を照らし、周囲を赤く染める。
焦げた鉄の匂い、湿った土に染み込む血の匂い。
戦場の空気そのものが、二人を包み込んでいく。
その攻防は、単なる力のぶつけ合いではなかった。
まさに、命を賭けた美しき斬り合い――武人としての誇りを懸けた、純粋なる魂のぶつかり合いだった。
だが――
次第にタケダの動きにわずかな綻びが見え始める。
「……っ、ゴホッ」
強烈な打ち合いの直後、タケダが低く咳き込み、肩を震わせた。
手の甲で口元を覆った瞬間、赤い血が霧に散り、冷たい地面に黒々とした染みを作る。
ユリウスの眉が僅かに寄る。
「その咳……まさか」
問いかけに、タケダは口角をわずかに上げた。
「労咳だ。医者には、冬を越せるかどうかも怪しいと言われている」
その声のかすれ具合、肺の奥から響く湿った音――嘘ではない。
それでもタケダの目に浮かんでいたのは、己の命への未練ではなく、どこか遠くを見据えた諦念の光だった。
「……だから、世界を巻き込むつもりか」
ユリウスが鋭く言い放つ。
だがタケダは、静かに肩をすくめる。
「違うな、団長殿」
一歩、濃霧の奥から進み出る。
足取りに衰えはなく、刀を構える腕は寸分の緩みも見せなかった。
「病を知る前から……とうに、この世界に価値はないと見切っていた」
低い声で語られる言葉は、霧の中で重く響いた。
その声音はまるで、誰に向けてでもなく、己の魂をなぞるように吐き出される告白だった。
「俺は、かつて一国の武人だった。名を上げ、多くの戦場に立ち、幾度となく仲間の命を繋ぎ止めた。血にまみれ、己の身を削ってでも……すべては国と民を守るため、そう信じて剣を振るった」
剣の修練に人生の全てを費やし、血と汗で積み重ねた年月。
タケダの声には一瞬だけ熱が宿り、背後の霧さえ揺らぐように感じられた。
だがその熱はすぐ、冷たい氷に変わる。
「……だが、戦が終わった時、俺たちは“危険分子”とされた。平和を守る盾ではなく、剣を捨てられぬ狂人として粛清対象にされた」
ユリウスの目が細く鋭くなる。
「まさか……」
「事実だ」
タケダの目が細く鋭くなる。
「俺の仲間は、“平和の象徴”を傷つけぬよう、ひそかに始末された。抵抗の声を上げる間もなく。
家族もまた、“影響が及ぶ”という理由で、一夜にして命を奪われた」
声に怒号はない。
淡々と告げられるがゆえに、その奥に沈む憤怒と絶望は際立っていた。
「俺だけが生き残った。死に損なった剣士としてな。……それ以来、国も、正義も、民すらも――信じることをやめた」
霧が重く流れ込み、二人の間に一瞬の沈黙が落ちる。
タケダは静かに刀を構え直した。
「正義など、誰かが決めた方便だ。平和など、都合の良い幻想にすぎん。そんなものに縋る価値は、もはやこの世界にはない」
その瞬間、空気がひりつく。
目に見えぬ刃が走り、肌を裂くような殺気が広がった。
「だからこそ、終わらせる。この歪んだ世界ごと、散らせてやる」
その眼差しには、一切の揺らぎも迷いもなかった。
対するユリウスは剣を構え、無言で相手を見据える。
その姿は冷静でありながら、胸奥に秘めた決意は剣の切っ先よりも鋭かった。
やがて、低く吐き出すように言葉が紡がれる。
「……俺は、あんたを哀れだとは思わない。だが、そんな結末を望むのなら……その願いごと、俺が斬り捨ててやる」
霧を裂くように放たれた言葉は、鋭い刃そのものだった。
次の瞬間――
濃霧を震わせ、再び刃と刃がぶつかり合う音が夜を揺るがした。
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