第55話:誓いの刃
霧が重たく沈む寺の前庭。
冷えた石畳には燃え残りの火が赤々と瞬き、炎の赤と霧の白が交じり合い、ゆらめく世界を不気味に染めていた。
湿気を含んだ空気は胸にまとわりつき、焦げた木の匂いが鼻を刺す。
静寂を切り裂くのは、互いの吐息と鋼が擦れ合う残響だけだった。
芳坊の怒りと絶望を真正面から受け止めたリクは、
それでも剣を強く握り直した。
(あんたの痛みは、わかった……でも――)
リクは大きく息を吸い込み、肩を上下させながら一歩を踏み出す。
足元の石が鳴り、意志の重さを刻む。
(あんたのやろうとしていることは……絶対に間違ってる!)
「――行くぞ、芳坊さん!」
叫びと同時に、剣が閃光を描き、霧を切り裂いた。
その声には迷いと恐れを押し込めた決意が宿っていた。
芳坊もまた錫杖を構え直す。
その動きは老いてなお淀みなく、心の奥に燃える覚悟が一点の曇りもなく表れていた。
覚悟と覚悟が激突する瞬間、空気は凍りつくほどに張り詰める。
次の瞬間――剣と錫杖が火花を散らした。
金属が叩き合う重く鋭い音が霧の帳を震わせ、夜空へこだました。
「……君の剣は、迷いを捨てたか」
芳坊が息の合間に問いかける。
「迷ってるさ! でも進むしかないんだ!」
リクは全身に力を込め、剣を突き上げた。
芳坊はそれを流すように杖を操り、しかし低く呟く。
「それは、若さゆえの強さだな……」
錫杖が地を叩く。
瞬間、大地が鳴動し、濃霧がうねるように広がってリクの視界を覆った。
真白な闇が一気に押し寄せ、前後左右すらわからなくなる。
(くそっ……また霧か!)
リクは剣を構えたまま、慎重に歩を進める。
額を流れる汗が頬を伝い、喉の奥が渇いていく。
(落ち着け……! 呼吸を……気配を、感じろ!)
視覚を閉ざされても、他の感覚が鋭敏になる。
霧の揺らぎ、足元の小石の震え、耳に残るわずかな息遣い――
それらをつなぎ合わせることで、敵の気配を読む。
それはリクが死線を越えて少しずつ磨いてきた、“生きるための勘”だった。
芳坊の動きはリクよりはるかに洗練されている。
間合いの支配、無駄のない一撃必殺の構え。
だが、それでも――
(……俺には、折れないものがある!)
リクは心で叫び、足を踏み出す。
剣先が霧を切り裂き、意志を突き出すように煌めく。
「誰かの痛みを知ったなら! 誰かの苦しみを見たなら! それでも、手を伸ばすことを……絶対に、諦めたくないんだ!!」
叫びと同時に、剣が風を裂いた。
刃に宿る意志が霧を押し退け、鋭い音が夜気を切り裂く。
――ガキィン!
芳坊の錫杖が受け止める。
だが、その身体はわずかに後退し、足が石畳を擦った。
「……!」
「たとえ裏切られても、報われなくても! 俺は……“信じる”ことを、諦めない!!」
リクの声が霧に響き、夜の静寂を震わせた。
芳坊は霧の奥で黙し、ただその言葉を聞いていた。
目に映るのはわずかだが、確かにその瞳の奥に、消えかけた光がかすかに揺らいでいた。
(届いてる……俺の声が……!)
リクは肩を上下させ、荒い呼吸の中でさらに踏み込んだ。
剣と錫杖が再び激突し、鋼と鋼が軋み合う。
互いの力がせめぎ合い、誰一人として一歩も退こうとはしない。
* * *
やがて霧がわずかに晴れ、夜気の中に二人の姿が現れる。
疲弊しながらも睨み合うその表情は、互いに揺るぎない決意を刻んでいた。
リクの剣先は震えながらも、決して下がることはない。
芳坊はふっと目を伏せる。
胸の奥から絞り出すように、押し殺した声が漏れる。
「……私は……かつて、誰よりも理想を信じた。だが、信じるだけでは救えぬものがあると知った」
その声はかすれ、しかし確かに真実の重みを帯びていた。
芳坊の目に宿るのは、怒りでも絶望でもなく、深い悔恨だった。
「だから、道を違えた。信じることよりも、壊すことを選んだ……」
リクは言葉を差し挟まず、ただ耳を傾けた。
芳坊の拳が僅かに震えているのを見逃さなかった。
(――あんたも、最後まで、諦めたくなかったんだ)
胸の奥でそう思う。だが同時に、はっきりと感じる。
その選んだ道は、間違っている――!
リクは剣を構え直し、真っ直ぐに芳坊を見据えた。
「……芳坊さん。俺は、絶対に負けない。この世界を――生きてる人たちを――守るために!」
芳坊は静かに錫杖を掲げる。
その姿勢は静謐でありながら、揺るぎない意志を放っていた。
「ならば、貴様の信じる道を……剣で示してみせよ」
リクは大きく頷いた。
戦いはまだ終わらない。
だが互いの覚悟は確かにぶつかり合い、霧を震わせていた。
剣と杖を構えた二人の間に、再び静かな緊張が張り詰める。
そして――次の一撃を放つために。
夜の寺には、鋭い静寂が満ち渡っていた。
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