第158話:最期の言葉
――城内を満たしていた魔王の気配が、嘘のように消え失せた。
砕けた石壁からは熱を帯びた塵煙がゆるやかに流れ、遠い嵐の余韻だけが残っている。
重く垂れ込めていた赤い空が、ほどけるように薄れ、瓦礫の隙間から月の淡い光が差し込んだ。
「……やった、の……?」
エリナは胸を押さえ、息を切らしながらかすれた声を漏らした。
鼓動はなお激しく、耳の奥で脈打つ。
勝利――そう信じた矢先、視界の前で光が揺らめく。
――ふらり。
リクの背を包んでいたあの神々しい輝きが、ふっと掻き消えた。
次の瞬間、彼の身体は糸の切れた人形のように前のめりに崩れ落ちる。
「っ……リク!!」
エリナは息を呑み、瓦礫を蹴り飛ばしながら駆け寄った。
膝をつき、震える腕でその身体を抱きとめ、自らの太腿へとそっと横たえる。
膝枕に置いた頭は驚くほど軽く、そして温かい――いや、熱すぎる。
指先に伝わるぬるりとした感触。
目を落とせば、光で覆われていた欠損部から鮮やかな紅があふれ出していた。
温かい血が、彼女の掌を瞬く間に染め上げていく。
「リク、しっかり! 今、回復させるから!」
エリナは両手をかざし、必死に魔力を呼び起こす。
けれど空気は冷たく、体内にあったはずの力は砂のようにこぼれ落ちていく。
――分かっている。
たとえ魔法が残っていても、この傷は癒やせない。
再生の術など、どんな奇跡でも及ばない。
「うっ……」
微かな声。
リクの唇が、わずかに震えた。
「リク!! 魔法が効いてきてるよ! すぐ良くなるから、頑張って!」
叫びは祈りに変わり、祈りは震える空気に溶けていく。
しかしエリナの本能は知っていた――この血はもう止まらない。
死の気配が、静かに彼を包み込んでいる。
それでも諦めない。
涙を噛み殺し、彼の視界に笑顔を残そうと必死に口角を上げた。
頬は濡れ、唇は震えているのに。
「……変な顔」
リクがかすかな笑みを浮かべ、掠れた声を絞り出した。
「変な顔って……何よ! 失礼ね!」
エリナは袖で涙を拭き、無理に明るく返す。
笑顔は今にも崩れそうだったが、それでも彼を安心させたかった。
「……もういいから」
リクは静かにまぶたを閉じ、弱々しく続けた。
「自分の身体のことは、自分が一番よくわかってる……」
「そんなのいやっ! ……いやっ! ……いやっ!」
エリナは子供のように首を振り、声を震わせた。
両手は血に染まり、爪が肌に食い込むほど強く彼を抱きしめる。
「地上に帰って、実家に帰るって言ったじゃないっ!」
「……そうだったな」
リクが小さく笑みを浮かべる。
その笑顔は、どこか懐かしい日のものに見えた。
「悪いけど……母さんたちには、代わりに謝っといてくれよ……」
「いやよっ! 自分で言って……!」
涙が頬を伝い、瓦礫の上に点々と落ちていく。
エリナはそれでも頭を振り続けた。
「……自分でかぁ……まいったなぁ」
リクは息を整えようとするが、言葉の合間に苦しげな吐息が混じる。
それでも彼は本当に困ったように微笑み、そして――
「ごめんな……もう……時間がない」
わずかに開いた瞳が、エリナをまっすぐ映す。
震える左手がゆっくりと伸び、彼女の頬を優しく撫でた。
その手は驚くほど温かく、けれど確実に力を失っていく。
「……こんなに……近くに……いたなんてなぁ……」
かすれた息に混じりながら、リクは途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
そして、最後の想いを押し出すように――
「愛してるよ……Eriko……キミ……の……しあ……わせ……ねが……」
声が、音の粒となって宙にほどけ、消えていった。
「……え……? い、今……なんて……」
その名――Eriko。
リクから呼ばれた瞬間、エリナの瞳が大きく見開かれる。
胸の奥が稲妻に貫かれたように震え、世界の色が一瞬にして裏返った。
「……優斗? 優斗!! 優斗! 優斗ぉぉ!! いやーーーー、目を開けて――!」
エリナ――いや、Erikoは、リクの胸に顔を埋め、何度もその名を叫んだ。
嗚咽はとどまることなく、砕けた城壁に何度も反響する。
声が枯れてもなお、震える身体は彼を離さず、名を呼び続けた。
静まりゆく世界の中で、ただひたすらに――。
「読んでくださって本当にありがとうございます。
ブックマークや評価、感想をいただけたら、今後の創作の励みになります。」