第154話:命を賭して
「真の姿を晒したからには、万に一つも貴様らに勝ち目などない」
魔王の巨影が、赤黒い空を完全に覆い尽くしていた。
ひと振りの腕は嵐の一撃となり、振動は城の奥深くまで響く。
瓦礫は砕けて宙を舞い、圧縮された空気が鋭い刃のように肌を裂く。
息を吸うたび肺が軋み、全身を締め付けられる。
その猛威のただ中で――リクは笑っていた。
勝利を信じてではない。
生き延びるために……エリナの逃げる時間を稼ぐために……。
その笑みが、エリナの胸を痛烈に突き刺す。
心臓を鷲掴みにされたように、呼吸が止まりそうだった。
「がぁぁぁぁっーー」
魔王の鉤爪が閃き、巨壁のような影が迫る。
リクはその刹那、地を蹴った。
――シュッ、と空気が裂ける。
黒い残像が視界を横切り、エリナの頬に土煙が叩きつけられる。
間一髪、リクは死をかわした。
「っ、くっ!」
「ふんっ!」
追撃。
二の爪がうねりを上げて降り注ぐ。
リクは体を紙一重でひねり、魔王の足元を駆け抜けた。
剣を振るう暇などない。
壁を蹴り、崩れかけた柱を飛び越え、砕けた石材を盾代わりに身を隠す。
風そのものが意思を宿したかのように、彼はただ回避に徹した。
援護の魔法を放ちたくても、エリナの魔力はすでに尽き果てている。
――リクは戦っていない。
ただ、生き延びている。
わずかでも時間を稼ぎ、魔王の意識を自分に引きつけるためだけに。
「こっちだ!!」
「……おのれぇぇ、ちょこまかと!」
幸いにも、なぜか魔王ルシファーの狙いはリクと――そして私だけに向けられていた。
人間など取るに足らぬ存在のはずだ。
それでもあの瞳は、確かに私たちを逃さぬ獲物として追い詰めてくる。
本気を出せば、あの力なら高位の魔法ひとつで私たちなど一瞬で灰にできるだろう。
それでも、ルシファーは自らの手で息の根を止めることにこだわっている――その執念が、かえって恐怖を増幅させた。
「うぉぉぉぉ!!」
リクの咆哮が闇を切り裂く。
必死の動きに、もはや戦士としての型はない。
それでも、その一挙一動が魔王の巨体を確かに誘っていた。
――リクを、絶対に死なせたくない。
エリナは唇を噛み、視界をかすませながら心で叫ぶ。
きっとリクも、同じ願いを胸に動いているのだろう。
けれど魔力は残っていない。
守る術もない。
この圧倒的な存在を前に、二人で逃げ切れる道などどこにもない。
彼にできることはただ一つ――リクの望むまま、ここから離れることだけ。
でも……
足はまったく動かなかった。
鉛のように重く、震えながら床に縫いつけられている。
「リク、ひどいよ……!」
堰を切った声が、涙とともにあふれた。
「一緒に死のうって……言ってほしかった……私がリクを犠牲にして動けるわけないじゃないっ!!」
その叫びは、砕けた天井へと虚しく吸い込まれていく。
胸の奥が焼けつく痛みに変わり、心臓が裂けそうだった。
エリナは震える指を胸に当て、かすかな声を紡いだ。
「リク……私、リクを……」
そして、心の奥底から言葉が迸る。
ああ――私は、ただ好きなだけじゃない。
「愛してる……」
世界が音を失った。
その告白だけが、静かに燃え続ける。
リクは私に生きてほしいと願っているのだろう。
けれど――それは優しさではない。
「リク、それは優しさなんかじゃない……!」
心が理解してしまう。
リクのいない世界に、意味などないのだと。
「……リク、ごめん。 逃げられない。 せめて……せめてここで、あなたを見届ける……。 あなたがいなくなったら、私も後を追うね……」
* * *
その間にも、リクは速度を上げ続けていた。
魔王の巨腕をくぐり抜け、天井の梁へ剣を突き立て、勢いを利用して反転。
瓦礫を蹴り、宙を舞い、裂けた石壁を駆け上がる――その一瞬一瞬が命の綱だった。
呼吸のたびに血が飛び、骨の軋みが体中から悲鳴を上げる。
「ハッ、ハッ、ハッ、……」
荒い息を吐きながらも、リクは一歩たりとも動きを止めない。
その視界の端に、エリナが映った。
動かず、ただ彼を見つめている。
「な、なんでっ!?」
胸の奥に迷いが走った、その一瞬――。
魔王は逃さなかった。
闇よりも速い一閃が走る。
ザシュッ!
鋭い爪が稲妻のように振り抜かれ、リクの右腕と右脚を切り裂く。
同時に、巨大な掌底が叩きつけられた。
ドゴォォォン!!
地面が砕け、衝撃が城を揺らす。
リクの体は何度もバウンドしながら、エリナの方へ弧を描いて転がった。
「リクぅぅーーーっ!!」
エリナは涙で顔をぐしゃぐしゃにし、叫びながら駆け出した。
その背後で、空気が揺れる。
魔王の巨大な影が、獲物を切り裂くために両腕を振り上げる。
「はぁっはっはっ――終わりだ、禁忌を犯した“■■■■■■”!」
黒い爪が、エリナとリクをまとめて貫かんと迫る――。
「読んでくださって本当にありがとうございます。
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