第148話:誰もいない街
* * *
――少し前。
視界がゆらりと揺れ、エリナは深い水面から浮かび上がるように、ゆっくりとまぶたを開いた。
そこは確かに戦場だったはずだ。
剣戟や魔法の爆発音等、今はどこからも聞こえない。
かわりに、すぐそばでほの白い光が漂っていた。
まるで深海に差し込む月光のように揺らぎながら、静かに脈動している。
視線を向けると、石板のような四角い石があった。
その表面には、呪いを宿した骸のような痕が、鬼の形相のまま貼り付いている。
目は憎悪に見開かれ、口元は最後の叫びを刻んだまま凍りつき、
まるで死の瞬間の恨みが石へ封じ込められたかのようだ。
しかしエリナには、それが誰の姿なのか、あるいは何を意味するのか理解できない。
その凄絶な輪郭を前にしても、柔らかな光の律動が意識を絡め取り、恐怖は芽生えなかった。
その光の拍動が心を引き寄せ、考えるよりも先に、指先がゆっくりとその石へ伸びていった。
光はまるで心臓の鼓動を映すかのように規則正しく瞬き、エリナの胸の奥で同じリズムを刻んだ。
誘われる。
呼び寄せられる。
抗うという考えすら浮かばない。
気づけば、彼女は手を伸ばしていた。
指先が石に触れた瞬間、世界が音もなく反転する。
足元の感覚が消え、上下の区別さえなくなる。
匂いも音も、あらゆる知覚が一瞬にして白い霧の奥へと遠のいていく。
圧倒的な白光だけが全身を包み、耳を裂くような――それでいて完璧な――無音が、心の奥まで満たしていった。
* * *
まぶたを再び開くと、そこは完全に異質な世界だった。
空を覆うほどの高層ビル群が、幾何学模様のように複雑に重なり合っている。
金属とガラスでできた巨大な壁面が、月光を受けて冷たく光り、まるで天空まで続く迷路のようだ。
街路は奇妙なほど整然としており、人の気配はどこにもない。
代わりに、無人の乗り物が音もなく滑るように走り抜け、足元に淡い光の筋を残していった。
吹き抜ける風は乾いて冷たく、わずかに金属の匂いを帯びている。
頭上では、巨大な光の看板が数えきれないほど瞬き、目に見えないリズムで色を変えていた。
それらが投げかける光が空気を染め、建物のガラスに無数の反射を生み出す。
近未来――いや、夢そのものが具現化したような光景。
「リクぅーーーー! ……誰かーーーっ! …………いないの?」
声を張り上げる。
叫びは鋭く空気を裂くが、冷たく乾いた空へ吸い込まれるだけで、何一つ返ってこない。
心細さが胸を締めつけ、背筋を冷たいものが走る。
――魔王の魔法?
一瞬、そんな疑念が過った。
だが、そこにあるのは殺気でも敵意でもなく、ただ圧倒的な静寂。
聞こえるのは、自分の鼓動と靴底が舗道を踏むかすかな音だけだった。
ここに留まっていては、答えは決して得られない。
エリナは荒ぶる心臓をなだめるように息を整え、慎重に一歩を踏み出した。
歩を進めるたび、街の壁面を覆う巨大なスクリーンが唐突に点灯する。
そこには見知らぬ人影が映し出され、異国の言葉で笑い、歌い、踊っている。
しかし近づくと映像は霧のように淡く薄れ、こちらに視線を向ける者は誰一人いない。
映像なのか幻なのか、判断がつかない。
魔導具? それとも心を惑わせる幻覚?
理屈を探しても、胸の奥で不安だけがじわじわと広がっていく。
それでも足は止まらなかった。
むしろ、歩を重ねるごとに、奇妙な懐かしさが胸に芽生え始める。
知らない街であるはずなのに、どこかで見たことがある――そんな感覚が、心の奥で静かに膨らんでいく。
夢で何度も見た景色の断片。あるいは失われた記憶のかけら。
やがて、その感覚は確信に近づく。
視界の奥、光と影の向こうにひときわ大きな建物が姿を現した。
白い壁面は陶磁器のように滑らかで、金属の縁取りが月光を反射して淡く光っている。
丸みを帯びたドームの輪郭は、稲妻のような既視感を胸に走らせた。
「……ここ、知ってる。どこかで……」
自分でも理由のわからない言葉が、無意識に唇からこぼれ落ちる。
気づけば歩幅がひとりでに広がり、足音が石畳を急かすように響いた。
近づけば近づくほど、胸の奥で眠っていた何かが疼き出す。
かつて訪れた遺跡に確かに似ている。
だが、あの荒れ果てた廃墟ではない。
壁も床も新品のように輝き、まるで時が巻き戻され、かつての栄華を取り戻したかのようだった。
入口脇の壁面には、淡く光る奇妙な文字が浮かび上がっている。
見たことのない、しかしどこか愛嬌を感じる曲線の連なり。
そしてその一角にだけ、見覚えのある傷が刻まれていた。
「……FUKUJIN作」
遺跡で目にした、あの刻印。
意味はわからない。
けれど心は確かに震え、忘れていた何かを呼び覚ます。
恐怖はなかった。
あるのは、懐かしさと、抗いがたい引力。
それが胸の奥から押し寄せ、身体を前へと突き動かす。
――入らなければ。
理由などいらない。
ただ、そうしなければならない。
エリナは深く息を吸い、両手で静かに扉へ触れた。
扉は音もなく開き、内側から白い光が滝のように溢れ出す。
その光はやさしくも力強く、彼女の全身を包み込み、心の奥底までも温めていった。
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