幕間:黒き囁き
――なんてことをしてしまったのか。
胸の奥底で、氷の刃のような声が幾度も幾度も反響する。
自分の心臓を内側から切り裂くように、冷たく、鋭く、止むことがない。
孤児として生きてきた幼い日々。
飢えと恐怖と孤独だけが友だった世界で、私を掬い上げてくれた人――あの人は、私にとってただの“姉”ではなかった。
姉であり、母であり、時には未来そのものだった。
その温もりだけが、私が人間であると信じられる唯一の証だったのに。
姉さんが先に暗部へ入り、王国を陰から守るその道を示してくれた。
誘われるように私も同じ道を選び、影として国と民を守る誇りある仕事を得た。
もしあの手に拾い上げてもらえなければ、私は他の孤児と同じく、路地裏の闇に呑まれ、誰にも知られず死んでいたはずだ。
あの日差しのような手を、私は決して忘れない。
感謝してもしきれない――そう誓ったはずだった。
だからこそ、何があろうと姉さんを守る。
その背を、盾となって支える。
それが私の存在理由。
それだけが、生きてきた証だったはずなのに。
それなのに……私の手は、あの姉さんの命を――。
「リリィ」
背後から、鈴を転がすような柔らかな声が、突如として静寂を破った。
はっとして振り返る。
「姉さん……!?」
そこに――仮面を外した“うさぎ”がいた。
光の粒をまとい、暖かな白光に包まれ、まるで夢の中から現れた幻のように。
微笑みは昔のまま、何一つ変わらない。
その優しい瞳を見た瞬間、張りつめていた心が一気に崩れ落ちた。
「姉さん!!」
リリィは堪えきれず駆け寄る。
足がもつれ、何度も転びそうになりながら、必死に。
そして、その胸へと縋りついた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
嗚咽が言葉を塗り潰し、涙が頬を焼く。
「あらあら、大きな子供ね。しょうがない子」
うさぎはそっと両腕を広げ、リリィを受け止める。
指先が髪を梳き、子守唄のように頭を撫でた。
その手の温もりは確かで、懐かしい。
まるであの孤児院の夜、震える私を抱きしめてくれた時のように。
「もう過ぎたことはいいのよ」
「でも……私、私……!」
声にならない叫び。
謝罪だけが、破れた心からあふれ出す。
リリィは涙に濡れた顔を何度もうさぎの胸に押しつけ、ただ繰り返した。
「もういいって」
うさぎは変わらぬ笑みを浮かべ、しかしゆっくりと視線を遠くへ向けた。
白い光の奥、そのさらに向こう――何かを見つめている。
「そんなことよりも、サクラさんたちが人類の存亡をかけて今も戦っているわ。あなたにも、まだできることがあるはず」
「そんなことじゃないっ! 姉さんがいない世界なんて、なんの意味もない!」
声は震え、嗚咽が喉を裂く。
世界が滲み、視界は涙で真っ白に溶けていく。
「リリィ……。あなたは昔から、心が弱いわね」
その声は優しさを含みつつ、どこか遠い。
ほんのりと、氷の刃のような硬さが混じっていた。
「姉さんだけが……私にはすべてだった。姉さんを失ったら……私は……」
「……優しいあなたには、暗部は合わなかったのかもしれないわね」
うさぎは静かに呟き、リリィの瞳をまっすぐ見つめた。
柔らかな微笑の奥、かすかな翳りが一瞬よぎる。
それは、深い深い闇の気配。
そして――低く、甘く、囁くように言った。
「私がサクラさんたちをサポートします。あなたの体を貸しなさい。
すべてが終わったら、一緒に行きましょう。もう、ひとりぼっちになんてしないわ」
リリィは息を詰め、震える声で「うん……」と答える。
その胸に顔を埋め、何度も何度も頷いた。
温もりを確かめるように、必死に。
「リリィ、顔を上げなさい」
うさぎがそっと顎を持ち上げ、遠くを指さした。
「ほら、あそこ。黒い影が見えるでしょう?」
リリィは涙で霞む目を凝らす。
「……見える。あそこ……」
「あそこに入れば、私が戻った時、すぐにあなたを見つけられるわ。 そこで待っていて。必ず迎えに行くから」
「わかった! 先に行って待ってるね!」
震える声を必死に張り上げ、リリィは涙を拭う。
希望に縋る子供のように、黒い影へと駆け出した。
その背中は、小さな光を纏ったまま、やがて闇に吸い込まれていく。
――そして、彼女の姿が完全に見えなくなったその瞬間。
うさぎの表情から、微笑みが音もなく消えた。
瞳の奥で、夜よりも深い闇がゆらりと揺れる。
唇がゆがみ、冷たい影が頬を這う。
やがて、ゆっくりと――悪魔のような笑みが、闇の中に浮かび上がった。
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