第130話:極致
戦闘が始まって、まだわずかな時間しか経っていない。
それでも魔王城の広大な廊下は、すでに本来の威容を失っていた。
豪奢な赤い絨毯は所々で裂け、瓦礫と灰に塗れて黒ずみ、鼻を刺す血の匂いと焦げた石の粉塵が充満している。
壁に並んでいた壮麗な彫像は腕や首を欠き、砕けた漆喰の塊が床に散乱しては、踏みしめるたびに鈍い音を立てた。
かつては静謐で荘厳な空間だったはずの廊下が、今では地獄の戦場と化している。
荒い息を吐きながらも、ライアン、リセル、焼大人、Dai、そしてコルクは立ち続けていた。
いや、正しくは――立たされていた。
圧倒的な格の差が、彼らを意地と気迫だけでこの場に縛りつけていたのだ。
「シッ!」
血で濡れた手でナイフを構え、Daiが牽制のために投げ放つ。
銀の刃が闇を裂く――しかし。
「ソニックムーブ」
その言葉と同時に、音すら追いつけぬ残像が走る。
PIROの姿が視界から掻き消え、気づいた時にはDaiの目前に迫っていた。
「……ッ!」
投げたナイフは空を裂き、虚しく壁へと弾け散った。
次の瞬間、Daiは反射で剣を抜く。
――ガキィィン!
金属の悲鳴と共に、肩に鋭い衝撃がめり込み、腕の骨が悲鳴を上げた。
全身を貫く激痛に、今にも膝が折れそうになる。
だが肩口から鮮血が飛び散りながら、必死に踏みとどまった。
そして剣を返し、かろうじてPIROの頬に薄い裂傷を刻んだ。
「……無駄ではない。だが届かぬな」
余裕の声が、崩れた廊下に不気味に響いた。
「ガウ! ガウ! ガウッ!」
すかさずコルクが吠え、背毛を逆立てながら牙を剥き、一直線に飛びかかる。
だが――。
再び――ソニックムーブ。
空気が裂け、視界から掻き消える。
残像だけが廊下を切り裂き、次の標的へと迫る。
次の標的はリセルだった。
弓を引く余裕すら与えられず、リセルは腰の短剣を引き抜き迎え撃つ。
「これしか……ない!」
気迫の突き出し。
しかし、その刃は容易く弾かれた。
脇腹を鋭く打ち抜かれ、肺が潰れたように呼吸が詰まる。
視界が一瞬白く染まり、口端から鮮血が滴る。
それでも倒れはしない。
片膝をつき、苦鳴を押し殺しながら短剣を握り直す。
「……まだだ、戦える!」
その一瞬を逃さず、ライアンが剣を振り抜く。
「斬り伏せろォッ!」
圧縮された斬撃が飛び、PIROの進撃を押し戻す。
だが――その隙も一瞬。PIROの標的は焼大人へと移っていた。
「わしに来るか……!」
焼大人は両掌に気を練り上げ、轟音と共に連射する。
「どっせぇぇぇいッ!」
爆裂の奔流が廊下全体を呑み込む。
轟音が耳を劈き、瓦礫が宙を舞い、床石が砕けて跳ね上がる。
だが――その混沌すらも利用し、PIROは爆風を足場に影のごとき速さで踏み込んでくる。
「なにっ――!」
次の瞬間、焼大人の体は床に叩きつけられ、顔を擦りながら石畳を滑った。赤黒い血が絨毯を汚して広がる。
「ぐ……ふ、まだ立てるぞ……!」
呻きながらも片膝で踏ん張り、再び掌を構える。
その眼光は折れてはいない。
* * *
「ふむ…… この程度では物足りんな」
PIROは立ち止まり、余裕すら漂わせて腕を組んだ。
その動作は戦場の只中にあるとは思えぬほど静かで、挑発的ですらあった。
ライアンたちは全身に血と埃を纏いながら、荒い息を吐きつつも構えを崩さない。
「おまえたちの予想通り、私は一つの技しか使えぬ。だが――」
冷笑を浮かべ、低く響く声が廊下を満たす。
「我が必殺は極致に達している。直線のみと思うのは、大きな間違いだ。生き残って見せろ」
その言葉を証明するかのように、ソニックムーブが再び発動した。
しかし今度は違う。
音を置き去りにするような疾走ではない。
両腕を大きく広げ、まるで世界そのものを閉ざすように歩む。
迫る速度は緩やかですらあるのに――逃げ道そのものが潰されていく。
「……なんだ、これは……!」
ライアンが右へ回れば、PIROは右へ。
左に振れば、やはり左へ。
まるで「逃げ道という概念」そのものが塗りつぶされていく。
矢も、気弾も、ナイフも虚しく空を裂くだけ。PIROは止まらない。
「止まらねぇ……!」
そして――ライアンの眼前に迫った。
「ッ!」
反射的に体をひねり、バックステップで回避する。
だが遅かった。
広げられた腕がライアンの左腕を斬り裂いた。
「ぐあああああッ!」
遅れて鋭い痛みが走り、血が爆ぜる。
左腕が宙を舞い、乾いた音と共に石畳に転がった。
絨毯は瞬く間に深紅へと染め上げられていく。
「「「ライアン!!(ワンッ!!)」」」
仲間たちの叫びが重なる。
それでもライアンは歯を食いしばり、片手で剣を握り直した。
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