第123話:音の向こう側
「水獄流縛陣、再展開……っ!」
血に濡れた喉から、くらしょうの叫びが搾り出される。
指先はすでに痙攣し、両膝も震えている。それでも、水の術式は崩れずに彼の周囲を守り続けていた。
魔力は底を尽きかけているはずなのに、それでも尚、術は破られなかった。
「……見事な粘りだな、虫けら共が」
PIROが吐き捨てるように言いながら、ポケットに手を突っ込んだまま、片足で軽く地を蹴った。
そのわずかな動きだけで、空気がざわりと波打ち、重苦しい風が唸りを上げる。
芳坊は一歩も退かず、錫杖を高く掲げた。
杖先からは細かな火花が飛び散り、足元に幾重にも重なった術式が光を帯びて蠢いている。
結界の層をさらに積み重ね、目の前の怪物をわずかでも封じるため、祈るように錫杖を地に叩きつける。
「それでも、まだ……まだ私たちは、立っているぞ!」
PIROは一歩も動かない。
ただ、細めた目の奥でじっと二人の様子を観察していた。
「……そろそろ、いいか」
呟くように言ったその声に、空間全体が凍りつく。
そして、ゆっくりとポケットから両手を抜いたその瞬間──風の流れが止まった。
空気が重くなる。熱が逆流するような錯覚すら覚える。
くらしょうが、理屈ではなく本能で察知する。
これは、何かが“来る”。
「芳坊、今すぐ──!」
彼が叫ぶより先に、次の動きが始まろうとしていた。
* * *
その頃、回廊の奥──
リクたちが魔物の残骸を踏み越えながら進んでいた。
戦闘の余波を感じながら、リセルが弓を下ろす。
その瞬間──
「ッ! ……思い出した!」
焼大人が突然目を見開き、静かだった顔に緊張が走る。
全員が一斉に彼の方を振り向いた。
「眠眠書房、地上戦録篇・巻之五十一、“音速の拳士”の章……」
彼の声は低く、僅かに震えていた。
そしてその目は、どこか怯えと畏敬を含んだものに変わっていた。
「“ソニックムーブ”──動きは音よりも速く、目では捉えられぬ。移動した後に、“音”と“衝撃”が遅れて届く……それが、この世の理から外れた技の本質だ」
言葉を切り、焼大人は静かに空を仰ぐように天井を見上げた。
その目には、かすかな苦悶が浮かんでいる。
「……しかし、それだけではなかった。あの技が“完成”するのは、両腕を広げたとき──」
彼はゆっくりと両腕を横に広げ、その姿をなぞる。
「その瞬間、両腕は刀と化す。空間そのものを裂き、すべてを切り落とす。
そして、刃のような一撃の“後”に、空気が破れるような破壊の衝撃が遅れてやってくる……」
その言葉が、全員の身体を貫いた。
誰もが息を呑み、場に重苦しい沈黙が落ちる。
「つまり……芳坊さんたちは、PIROに遊ばれてるだけ……」
リクが声を詰まらせる。
エリナが小さく震え、唇を噛み締めた。
ドォォォォォーーーーン。
魔王城が激しく揺れる。
「……まさか」
リクたちは顔を見合わせる。
ライアンが無言で大剣を構え直し、険しい表情で前を見据える。
「……行こう。どれだけ時間が残されてるかは分からないが……あいつらの命で作ってくれた“猶予”を、無駄にはできない」
誰もが返す言葉を持たなかった。
だが、その思いだけは同じだった。
重く沈黙した空気の中、彼らは再び歩を進め始めた。
* * *
「これで終わりだ」
PIROの声は静かだった。
その静けさが、何よりも恐ろしかった。
両手が、ゆっくりと広がる。
構えでも、見せ場でもない。ただ“殺すため”の動作。
その気配だけで、結界が軋み、水の防壁がわずかに波打つ。
「ソニックムーブ」
その名を告げたとき、PIROの姿は霧のように消えた。
PIROが何事もなかったかのように出口のそばに姿を現す。
空間には何も起きていないような静寂が、数秒間だけ支配する。
──ドォン!!
雷鳴を思わせる轟音が、突然空間を切り裂いた。
それは、“音”と“衝撃”が遅れて届いた証。
次いで、空気が悲鳴のように歪み、
魔王城の石造りの回廊が振動し、柱が砕け落ちる。
天井からは鉄のような匂いが漂い、
そして──静かに、赤い霧が広がり始める。
「さて……侵入者を追うか」
ポケットに手を戻しながら、ゆっくりと足を進めていく。
その背後。
今しがた死が通り過ぎたその空間には、形が判別するものはもう残っていなかった。
ただ──
静かに降り始めた血の雨だけが、無言で全てを物語っていた。
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