人生50年世界だと、子供も早く大人になる~うちの弁丸様~
弁丸は、真田昌幸が次男である。佐助に言わせると「手足が短くて頭と目玉と声の大きい御子」である。
現在真田家屋敷には当主は不在であった。父昌幸の仕える武田で魔物が大量発生した事で、父は武田領の城に詰めていた。
「おくおー、父上はいちゅごおおもどいにごじゃおうか。兄上はいちゅこちあにまいやえゆか」
兄上、父上は何時頃お戻りに御座ろうか。兄上は何時此方に参られるか。
弁丸は現在でいう、さ行、た行、ら行が苦手であった。まだ他にもあるが、確実にこれらは正確に言えた事が無い。
「にゃんでごじゃおうか?」
「お父上も若君も、武田領にて討伐が終わり次第真っ先にお越しになられるでしょうな」
こてりと大きな頭が揺れる。六郎は内心破顔しながらも、いつもと変わらぬ顔で答えた。
「お越しになうであおうか」
しゅんと俯く弁丸。六郎は寂しいのだなと思うも、忍の身では如何にも出来ない歯痒さを感じながら幼子を見詰めた。
「弁は、兄上のように立派ではなく。其れ故、此処に送られたのでごじゃろう?」
弁丸は、現在武田領内の真田と同格の屋敷に人質として出されていた。魔物の討伐は危険を伴う。また、複数の家が殿の元、協力し合わなければ対応出来ない物である。
複数の家紋が集まれば、当然殿の覚えを良くしようと欺きや裏切りが起こる。それを阻止するべく、近しい家族を差し出し仕え先への忠誠や、出し抜いて裏切る等の行為をしない事を固く誓う手段の一種。つまり、よくある事であった。
人質といっても対応は客人を持て成す事と変わらず、酷い物でも無かった。ただし幼い時分から家族と離れ別の家にやられるのは子供にとっては不安でストレスになる事も多かった。
人質制度では家から二人の世話人を付ける事が許されていた。最初共に付いて来た男二人は「次男の供とは」当てが外れたとよく陰口を聞こえよがしに言っていた。
幼くとも耳もあれば考える頭もある。だが弁丸は弱音を吐かなかった。元より長男に比べて次男は軽んじられる事が多い。真田家嫡男の弁丸の兄は、物覚えの良い聡い子だった。
それに比べ弁丸は兄と同じ歳になっても舌足らずな話し方しか出来ない。それ故か弁丸の母は兄を贔屓気味であった。
それを知っていた事もあるのだろう。真田領から離れた地で気が緩んでいるのか、悪口は影でという暗黙の了解的なマナーも全無視で男達は、不平不満を口にしていた。
男達は徐々に威圧気味な態度を取るようになり、弁丸を粗雑に扱うようになった。それでも弁丸は不満を口にする事は無かった。
人質は屋敷から滅多に出る事が無い。というか出られない。逃げられると困るから。それ以外にも、味方と思っていた屋敷で人質が殺られたとなれば戦のきっかけに出来る。
人質は預ける方も預かる方も、それなりの覚悟が必要だった。一番覚悟が必要なのは年端もいかぬ弁丸のような子供なのだが。
訪問は比較的自由であった。故に弁丸の兄は可愛い弟に度々会いに来ていた。
弁丸は何処に居ても元気いっぱいで愛らしい。兄は弁丸が大好きだった。その大好きな可愛い弟故に、少しの陰りにも目敏く気が付いた。
そして聡い兄は弁丸に何があったのか問うも、弁丸は何も無いと元気に笑った。其れから直ぐに佐助が弁丸の忍として毎日弁丸の様子を見る事になった。
通常二人と決まりがあったが、其処は家の話し合いで如何とでもなるようで、更に佐助の容姿から特に警戒される事無く認められた。
「しゃっけは弁まうと共におうのだな」
ある日弁丸の兄が来ると、供達は当然と弁丸を置いて兄の元へと行く。なのに佐助はいつもと変わらず側に居た事が弁丸は不思議だった。
「だって、若君の忍ですから」
重そうな頭を傾げて不思議そうな顔で見て来る弁丸に、当たり前の事なのにと返すと、弁丸は頬を染めて満面の笑みを浮かべた。
「しょうであったにゃ。しゃっけは弁まうの忍であった」
弁は兄上が好きだから、母様が兄上を好きなのは分かる。皆が兄上を好きで。けど佐助は何時も弁と一緒で、兄上が来ても弁と一緒に居て側を離れなかった。何故か問うと当然という様に答えた。
「はい。そうです」
供の者は真田家の者。この着物も昔の兄の物で、持ち出す時に乳母は残念そうだった。その乳母も元々は兄の物。皆家や兄の物で弁の物では無かった。
だから弁では無く皆兄に行くのだと思っていた。佐助の名も兄が決めた。だから佐助も兄に行くのだと思っていた。けど、佐助はいつも一緒に居る。
自分だけのもの。弁丸は特別な自分の忍を大事にしようと思った。それなのに、守ってやる事が出来ない。
「兄上、弁は悔しゅうごじゃいましゅう」
いつもの様に何かないかと問うと、今まで泣き言を言わなかった弁丸が、大きな目に涙を浮かべてそう言った。
そして弁丸付きの忍が理不尽な目に合っている事を一生懸命に話す。兄は可愛いなぁと思いつつ、弁丸の頭を緩く撫で話を聞いた。
「母様は弁まうよい兄上がしゅちで、皆兄上がしゅちで。兄上のようにしゃとちゅなちゅ、家よいだしゃえ」
弁丸は優しい兄に柔らかく背を撫でられるうちに、ぽろぽろと今まで溜め込んでいた事を話した。
母や家臣は兄が好きな事。聡くない自分は家から遠くに置かれる事になった事。一人は寂しく心細い事。
「弁まうは、っ、じにゃんうえっ止めりゃえじゅ、っ、ぅ゛。しゃっけはいちゅも不憫でにゃいましぇにゅ」
自分が軽んじられている事に怒るより、付き従う忍が不憫と最後はしゃくりあげながら話した。沢山話して、話疲れた弁丸はそのまま、兄の膝を枕に寝てしまった。
「お前の言う通りであった。礼を申す」
弁丸の兄は、ただ前を見ながらそう呟いた。ゆらりと空気が動く。そして翌日には陰口を表で堂々と口にしていた男達は居なくなった。
弁丸は、急に意地の悪い男達の代わりに海野六郎が「此より若君には再び己がお仕えいたします」と頭を下げて来た事に驚いたが嬉しくもあった。
「しゃっけ」
「はい何でしょう若君」
弁丸は呼べば直ぐ来てくれる佐助が頼もしかった。海野は仕事となれば弁丸を置いて行く事もあったが、佐助はずっと一緒だった。
佐助が正式に弁丸の供として側仕えする事になり、弁丸は自分だけの者が、これからも自分と共にいる事がとても嬉しかった。
「弁まうじょ!しゃっけは弁の忍うえな」
「はい。若君の忍です」
佐助は剥れる弁丸に困り、少し後ろを歩く六郎を困り顔で見た。白雲斎の多大な干渉はあったが無事に弁丸に笑顔が戻って数日。
「むぅー、弁まうじょ!」
六郎は小さく溜息を洩らすと、嫌われ役をするのは嫌だと思いながら弁丸の前に片膝をついた。
「若君」
「弁まうじょ」
「この六朗や佐助は、若君の名を呼ぶ事はならぬのです。よもや誰ぞ居るか分からぬ場所で、忍や側仕えが主君の名を軽々しく声に乗せれば、ひいては殿に迷惑が掛かります故」
弁丸はじっと六郎を見ていた。まだ難しかっただろうかと話し終えた六郎は弁丸の様子を伺う。すると弁丸は大きく頷いて佐助の方へと顔を向けた。
「しゃっけ」
「はい何でしょう」
佐助と呼ばれ返事をすると、弁丸は嬉しそうに頬を染めぎゅーっと佐助の手を握った。痛みに困惑しつつ六郎を見た佐助は何故か六郎がこちらを見て若干涙ぐんでいる事に眉を寄せた。
「おくおー、弁まうに忍を教えよ」
弁丸は佐助の手を握ったまま大きな声でそう言った。訳が分からないと六郎は弁丸を見る。すると弁丸は満面の笑みを向ける。
「弁はこえよい忍をまにゃぶ事としゅう」
弁はまだ幼く、六郎や佐助と話す事も気軽に名を呼んでもらう事も出来ない。出来ないなら出来る様にすれば良い。
だが世を変えるのは今の弁には出来ない大きな事。ならば小さな周りの気配が分かる様に学ぼうと思った。
忍に出来る事が出来るようになれば、普通に呼び合う以外に方法があるかもしれない。弁丸はそう思うと壮大な計画に頬を染めた。
舌足らずで手足も短く、頭と瞳が大きい幼子。弁丸はTHE幼児な外見だった。よく食べ、よく眠る。行動も幼児そのものだった。それが禍してなのか弁丸は聡さに欠けると言われていた。
だが、弁丸は聡かった。しっかり考える事も、状況を把握する事も出来ていた。ただ残念ながらそれを上手く表現する事が出来なかった。
「忍を習うとはねぇ」
佐助から話を聞いた白雲斎は楽しそうに呟いた。そして誰にも願われてもいないのに、翌日から勝手に弁丸の居る屋敷へと赴いた。
「ねぇ何で師匠が居るの?」
「んー?そりゃ、弟子の働き振りを見るのも師匠の仕事だからな」
師匠は知らん振りしてるけど、物凄く嫌そうな気配が伝わってくると佐助は後に立つ六郎の気配に眉を下げた。やがていつもの様に朝餉を終えた弁丸が縁側に来ると、大きな声で忍を呼ぶ。
「しゃっけ!」
「はい何でしょう若君」
「あしゃげはしゅんだか?」
「朝餉、師匠と済ませました」
弁丸と佐助は毎日毎日同じ会話を繰り返す。それを六郎は孫を見るような温かい目で見ていた。だが今日はほのぼのしても居られない。
「何故此処に居る」
六郎は白雲斎に問い掛けた。すると白雲斎は懐から微妙にくしゃくしゃになった書を六郎へ手渡した。
「…毎度の事ながら、」
六郎は最後まで言葉を発する事無く、大きく溜息を吐いた。それから朝のやりとりが終わった二人を見る。
「良いか、嫡男にあらずといえ真田家の若君ぞ。くれぐれも、くれぐれも遣り過ぎるな。良いな?くれぐれもぞ」
「くれぐれくれぐれ煩ぇなぁ。ちゃーんと心得てますぅ」
少し離れた場所で言い合っている大人二人を子供達は不思議そうに見ていた。
「どなたにごじゃおう?」
「あれは、俺の師匠です。何で居るかは分かんないけど」
首を傾げる弁丸に、佐助は答えながら仕事ぶりを見るとか言ってたけど全然見てない白雲斎に同じ様に首を傾げた。
「おーい、そんじゃぁこれから忍の講釈を始めますよー」
二人の視線に気付いたのか、大人二人は話をやめた。すると白雲斎は大きく片手を振りながら縁側に座る。弁丸と佐助も縁側の側へと歩いた。
「なんと!弁まうの師匠としゃっけの師匠が同じになうとゆう事か」
「まぁそういう事ですねぇ」
今日から忍についての勉強を教えてやるから有難く聞く様に。そんなニュアンスの事を言ってきた白雲斎に佐助は目を見開いた。
そんな事聞いてないと六郎を見ると、六郎は佐助の視線から顔を背け溜息を吐く。何かやったんだ。佐助は弁丸の言葉に緩く頷いている白雲斎をじっと見た。
「おい、なんて顔してんだ兄弟子。ほれ、手本」
白雲斎は怪訝な顔で自分を見ている佐助に向かって跳んでみろと縁側に座ったまま、片足を伸ばした。佐助はその足をひょいと跳ぶ。
「これが忍の跳躍ですよ」
「うむ。では弁まうも!」
意気込んで助走をする仕草を見せる弁丸に、白雲斎はストップをかける。首を傾げる弁丸に、白雲斎は佐助を手招くと縁側の沓脱石に座らせた。
「最初は佐助の足ですよ」
佐助に同じ様に片足を伸ばせと言った白雲斎は、縁側に上がると柱に背を付け胡坐をかいた。佐助が足を伸ばすと、弁丸はそれに向かって何故か突進する。
「跳ぶのに早く走る必要は無いんですよ。ここら辺で地面を強く踏んで上に跳ぶんです」
白雲斎の説明に、五度目の突進で息を切らし気味の弁丸と、一度足にぶつかられ痛かったのか、跳ぶそぶりを見せない弁丸の姿に、突進される直前で足を引込めていた佐助。
暫く様子を見ていた六郎は意外と普通に教えている姿に、ちょっとの安心と不安を残しつつも他の仕事へと向かった。
「ここでごじゃおうか?」
「んー、ほれ、兄弟子。出番だぞ。踏み切る所に線引いてやれ」
良く分からないと首、というか体全体を傾げるように曲げての分らないアピールに白雲斎はこりゃ、六郎が好々爺になる訳だと思いながら佐助に指示を出す。
「参う!」
十八回目。漸く弁丸は佐助の片足を折る事無く跳ぶ事が出来た。満足感いっぱいに顔を輝かせ汗を撒き散らす弁丸。佐助は柱に寄り掛かり寝てるんだか起きてるんだか分からない白雲斎を溜息交じりに見た。
「流石に寝る訳ねーだろ」
白雲斎は溜息交じりに身を起こすと、今日はおしまいと弁丸にいつの間にか置かれていた手拭いを渡した。
「でちましたじょ!」
「はい、よく出来ました。佐助もお疲れ」
むん!と誇らしげに胸を反らして見上げる弁丸に頷いた白雲斎は、弁丸が踏み荒らした場所と自分が書いた線を消すべく箒で地面を掃き均している佐助にも声を掛けた。
忍講釈が何日か行われたある日。今日も白雲斎は柱に寄り掛かり、佐助は白雲斎に指示され弁丸を手伝っていた。
「お師匠どお」
今日、弁丸は念願だった忍の気配を探る方法を教えて貰っていた。当然佐助は色々な場所に隠れさせられている。弁丸は白雲斎を見ると、声を掛けた。
「はい何でしょう?」
「しゃっけはたいきゅちゅでは」
「退屈?まぁそうかもしれないですね」
要は幼子とプロのかくれんぼである。当然弁丸は見つける事が出来ず、佐助は白雲斎から声が掛かるまで身動きせずその場に待機。
眉を下げた弁丸の問い掛けに、白雲斎は確実に暇だなと思いつつも言葉を濁し気味に答えた。
「弁まう、しゃっけを見ちゅけらえじゅ…しゃっけに申し訳にゃく」
しょんぼりと俯く弁丸。白雲斎は仕方ないなと柱から背を離すと、草履をひっかけ弁丸の前に屈んだ。
「良いんですよ。退屈だろうが暇だろうが佐助は兄弟子なんですから」
「兄ならば良いと申しましゅうか?」
「そうですよ。兄弟子ってのは後から来た弟子の面倒見たりするもんなんです。だから申し訳ない事も無けりゃ、気にしないで見付けてやってくださいよ」
弁丸は白雲斎の「兄弟子とは」を聞くと、大きく頭を何度も振った。多分頷いているんだと思うが、こんなに振ってたら頭落ちちまうんじゃないかなぁと白雲斎は若干心配した。
「しゃっけ!」
「はい何でしょう若君」
「今は修行中うえ、出て来てはならにゅ」
大きく呼ばれ姿を現した佐助は、膨らむ頬に眉を下げた。理不尽過ぎるが仕方ない。だが弁丸は更に返答に困る事を言って来た。
「しょして、しゃっけは兄弟子じょ。なあば弁まう、と呼ぶよう」
兄ならば弟を若君とは呼ばない。だから弁丸と呼ぶようにと言われた佐助は困って白雲斎を見た。弟子の困惑顔に、縁側に戻っていた白雲斎は面倒臭そうな顔を向ける。
「んー、まぁ兄弟子の時は良いんじゃねーの?ご本人もそう仰ってんだし」
緩い感じで返答した白雲斎は異存があれば天井裏から出て来るだろうと上を向くも、何のリアクションも無かった事にちょっと驚いた。
だが六郎が黙認するなら尚更自分がとやかく言う積りは無いと白雲斎は柱に背を付けた。
「しゃっけ、弁でも良いのだじょ?」
兄は弁丸を弁、と呼ぶ。ならば佐助も弁と呼んでも良いと弁丸はこてりと頭を横に倒して佐助を見た。
佐助は困りながらも、もう助ける積りは無いらしい白雲斎を見ると小さく息を吐く。
「弁丸様」
「しゃまはいりゃにゅ」
「だって、弁丸様は弁丸様」
どちらの子供も頑固だなぁと白雲斎は二人の様子を見ていたが、良い事思い付いたという風に背筋を伸ばした。
「なら俺に話すように話してやりゃあいーんじゃねーの?」
「?」
きょとりと首を傾げる佐助。お前無自覚?随分と無礼なことしてるって気付いてないのかと白雲斎は大袈裟に溜息を吐いた。
「なんだよ。あのなぁ俺はお師匠様なのに、お前、俺の事怒ったり怒鳴ったりするだろうが」
「それは師匠がちゃんとやらないからだろ?!」
「ほら、それだよ。お師匠様なんだから、其処は敬ってきちんと行わないからでございましょう?ってな感じに言うんだぜ?お前しねーだろ」
敬って丁寧に接しろ。敬語を使え。お師匠様に対する態度じゃねぇだろと佐助を見て言うと、佐助は敬う所が無いから敬う気になれないんだと思いを込めて白雲斎を見返した。
「佐助が軽口叩いてもいーのは、忍講釈の場だけ。まぁ若しくは他に誰もいない時。これでどうです?」
面倒臭いなぁ。白雲斎は今日はいっぱい喋ったし、これ以上口を動かすのもだるいと思うと弁丸を丸め込みにかかった。
「むぅ」
「俺等は如何やったって忍で、若様はお武家様。これは兄弟子だろうが、何だろうが変わらないんです」
まだ納得出来かねるといった感じの弁丸に、此処でごねても良い事無いから、ここらで手打ちにしときなよ。と思いながら話すと、弁丸はこくりと頷いた。
「佐助もいーな?ってかお前、お師匠様にも様ってついてんだから、弁丸様も同じようなもんだろ?」
毎度言い包められ続けていて耐性の出来ていた佐助は、怪訝な目でじーっと白雲斎を見続ける。が、白雲斎はそんな事全く気にしないといった風に柱に背を付けると、今日の復習、あと五回と佐助に告げた。