その六
「そうなんだ。この本でも言っていたが、その時は周りの人間にとっては、その手のものは冗談にしか見えないらしい。女性がたまに発するあの狂気じみた笑い声は特有のものなのだろうね。そいつが“気の触れた人間の歓喜”に思えてくるんだ。私はその一歩手前で笑うこともなく鹿たちが怯えている姿を眺めていた。
鹿たちは少しだけ抵抗するように踏みとどまってはいたけれど、次第にその表情からは余裕は消えた。そしてもの悔しそうに背を向けると森の奥へ跳ぶように消えていった。
ほっとした私は態勢を変えようと地面に手をついた。すると手の平に小さいけれど鋭い痛みが走った。多分剥き出していた岩か、植物の棘か何かだったと思う。手を返してみてみるとそこに一ミリくらいの大きさの血がガラス玉みたいに浮かんできたんだ。その朱色が周りの色とのミスマッチで嫌に鮮やかに見えて、今思えばそれこそが冷静さを取り戻すきっかけだったのかも知れないな。私ははっとトレンチの男の方を見ようとした。それはあの鹿たちを追っ払ってくれたことへの感謝もあったし、彼が何者かということも知りたかったしね。もちろん自分自身を安心させるために、そのことに従事して勤めたさ」
「しかしそうもいかなかったんですね?」
「ふふっそうなんだ。いやこうしてその当時も笑えたならどんなによかっただろうか。トレンチの男は私を見下ろして、ゆっくりと身をかがめて近づいてきた。私の誤算はトレンチの男が映画“アンタッチャブル”のケビン・コスナーやショーン・コネリーのような渋い正義に燃える男のようなものだと思いこんでいたということだよ。見たことは?」
「はい」
「いいねぇ。ゴホン、だが屈み込んで私の前に近づいたトレンチは正義の味方ではなかった。デ・ニーロのような悪ではないが、その姿は異形で、私は思わず手の平の赤いガラス玉を握りつぶしてしまった。高く伸びた鼻、ヒクヒクと小刻みに動き、すらりと伸びた髭が揺れる。ぎょろりとして鋭い大きな目、その奥で何かが渦巻いているように深い。枯草色の毛がびっしりと生えて、その恐ろしく大きく裂けた口からはじっとりと塗れた唾液と牙が見え隠れしていて、時折その隙間から生臭いような重い匂いと、それに面白いことだがコーヒーの匂いとが混ざって漏れているんだ。その鍔広帽の下から覗くトレンチの男の顔は巨大な狼のそれだったのだ」
二宮がふと気がついたように体を起こすと、それまで聞こえてこなかった音が聞こえてくるようだった。シーリングファンが回る音、風で戸が揺れる音、マスターの息づかい、そして自らの心音まで、これまでも聞こえていたのかも知れないが、話しの中に入り込んで身を据えていた二宮にはそれが不思議で、そして新鮮でならなかった。冷めたコーヒーを軽く啜り、マスターのお変わりの問いかけも断って、自身が今こうして話を聞きながらコーヒーを啜っていることを実感した。
「話しは続きますか?」二宮は問いかけた。
「いや、これ以上はあまりはなす事はないよ」そう言ってマスターは灰皿に煙草の灰を落として、その燃える様を見届けた。「その後のことはあまり覚えてはいない。トレンチを着た狼・・・面白いがね、彼は私に一言だけ言っていったよ。鮮明に覚えている。“あいつらのことは俺も気に入らない、貴様のことも気に入らないな。貴様はもう戻れない、俺もな。だが俺は戻る、必ず”とね。私はその言葉を聞き届けた後ゆっくりと目を閉じて眠ってしまったよ。次に目が覚めたときにはこの喫茶店の、ちょうど今、君が座っているその席だった」
二宮は自分の座った席を見て、そしてマスターを見た。
「日は落ちていた。誰もいなくランプが一つついているばかりで、前のマスターはいなかった。トンネルから帰ろうか、とも思ったがもう無理であることも分かっていた。ため息を何度かついて・・・もう一度寝たんだ」
だいぶ日が落ちてきて一日が終わることを二宮は気がついた。そしてマスターの話もまた終わったのだと気がついた。マスターの声は急に年をとったように小さくなり、聞こえなくなっていった。
二宮はカウンターの上にお金を静かに置くと立ち上がって店を出ようと扉に近づく。すると背後からマスターが声を掛けてきた。
「あの“日と月”のラストでは主人公は自殺をして死んでしまう。主人公は自殺で最期に死ぬことが解脱だと思っていたからね。全てを終えて自分の役目を全て達成してこの世から去ったんだと、そう考えていた。だが私はそんなものは狂気でしかないと思うよ。もし主人公の彼に最期まで生き抜く力があったのならどうなっていただろうね。彼は作者の、九重亮の心そのものだったのだと私は思う。彼は死ぬ寸前に全うしたのだと考えたのか、それとも狂気に駆られてしまったのか・・・私自身はきっと生き抜いてみせるさ。その方が何より望み深いものだし、人生もずっと楽しいものだよ」
マスターが話し終わるのを確認して、二宮は何も言わずに店を出た。それからボルボのV70に乗り込んでエンジンを掛けてその場を去った。トンネルにさしかかりながら、二宮は“あの言葉“を言ってみようかどうか悩んだ。ただの好奇心からだ。
トンネルのライトの下を通りながら思う。記者は好奇心と文字で生きるもの。
ハンドルをきつく握って、トンネルの向こうの暗闇へとボルボは消えていった。
「帰り道」了いです。
テレビや雑誌を読んでいると信じられないような体験をしている人が沢山いらっしゃって、それを見ると私はいつも羨ましくて仕方がありません。それが本当かどうかは別として、ね。
果たしてマスターの話は本当の体験談なのでしょうか、それとも作り物でしょうか。それが分かるのは、あの言葉をいえる勇気のある人だけです。主人公の宗吾は少なくともマスターの話を信じていたようでしたが・・・
会話だけの、特別なものが何も出てこない静かな恐怖に挑戦してみました。
感想を聞かせてもらえたら嬉しいな。