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帰り道  作者: 野狐
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その五






「そうなんだ。その通りで戻った先の景色は・・・」マスターはその後に続く言葉を二宮のコーヒーカップから立ち上る芳しい湯気に任せた。「私は喫茶店の駐車スペースにバイクを止めた。太陽はいくらか陰ってしまっていたが、それでも暑かった。息は切れていたし目は乾いていたし、喉も。それに指先が異常にジンジンと疼いた」手を顔の高さまで上げて閉じたり開いたりしてみせる。「私は喫茶店に駆け寄ってドアを開こうとしたが鍵が掛かっていて開かない。窓にべったり額を押しつけて中を覗き込んでみたが照明はどれも消えていてね、初老のマスターの姿はなかった。ただ天井の高いところでファンがゆっくり回っていたな。

 私の考えていたことなんてくだらないことだよ。私は喫茶店を壁沿いに中を覗き込みながら、今日が何曜日だっただろうと思っていた。金曜日だったか土曜日だったか、どちらかだったよ。今日中には自分の家へ帰るつもりだったんだから、ゆっくりと眠るつもりなんだ。週末には家でゆっくりする。私はこれだけは心がけていた。自分のベッドでね、慈悲深い神に見守られて私は眠る。それがどうした?私はさっぱり考えようと動かなくなった自分の頭を無理に動かそうとして頭痛が始まったんだ。吐き気がして・・・どんな態度をとってこの状況を理解したらいいのか・・・今話していることも支離滅裂になっていないかい?大丈夫?」

「ええ、平気ですよ」二宮は笑って見せた。しかしマスターが少なからず興奮していることは感じていた。手元の煙草は茶色くくすんだ指の間、その寸前まで燃えていたのだから。

「お腹が空いたね、何か食べたい気分だが、ソーセージか何かを食べたいな。それにライ麦パンが食べたいな。私は昔から好きなんだ、ライ麦パン。お腹は空いていない?」

「僕は・・・あまり」考えるそぶりをしてみせる。

「じゃあ止めておこう」マスターは気がついたように煙草をもみ消して、灰皿の中へ置き捨てると両手の指を組んで向き直った。「私はねどこかへ行かなければならなかったんだ。ずるずると自分の細い精神にぶら下がっていてね、かろうじての私の冷静さは、自身が置かれた状況を理解できていなかったことにあるんだね、きっと

 さて、店の裏口へ回ると店の扉があるだけの殺風景なところだったが、私はそこで一つの光明を見つけたよ。森の中へ降りていく細い道があるんだ。左右から高い草が押し寄せてはいたが、それでも確かに道は続いている。ここは山の頂上なんだから当然下へ向かえばここから抜け出せる・・・私はその道の先を、目がどうにかなるんじゃないか、と思うくらいに見つめた。その道の先を透過して見据えるくらいに。

 私は小さな声で何かを呟いていた。“明日はどうしよう”“眠たくなってきたな”何でもないことをね。想像を巡らせていた。余裕を持って口笛を吹き鳴らしながら歩いたり、お気に入りの歌を口ずさみながらバイクを走らせる自分の姿。同時にそれは自分の明日の姿だった。現状に留まることなんてそんなつまらない人生はないね。“夢を諦めた人間は死んでいるのと同じだ”だったかな?夢なんて言葉を使わなくたっていい。でも明日を考えられなくなったら、それはつまらないね。明日のことで笑ったり、くすりとやったり、それにドキドキしたりそれこそが楽しさだし生きてることだ。自殺する人間はそれを失った人間、辛さに負けて・・・」

 二宮はパソコンのことについて考えていた。少し前にインターネットのブログで“パソコンを打つことについて”の話を読んだ。偶然訪れたそのブログは自分と同じぐらいの歳の男性が経営しているブログで、本人のハンドルネームはコラーダといった。コラーダとは中世スペインの英雄、騎士エル・シードが持っていた剣の名前だ。コラーダはキーボードを叩いているときに幸せを感じるという。素早くキーボードを叩いて文字を打ち込みスペースキーで変換する。一番最後にエンターキーを押して文章が完成したときに小さな至福を感じるのだと綴っていた。彼はエンターキーを力強くパシッと打ち込むらしい。そうすることで文字に魂が宿るのを感じるのだと。

 コラーダとマスター、二人とも同じだと二宮は思った。いや、全ての人が同じなのかも知れないとも思った。何か小さな幸せ、それにぶら下がって確実に生きている。

 二宮は床を見下ろして足下から窓まで視線を運んだ。細い染みか傷が一本繋がっていた。

「私は草をかき分けて一歩だけその道へ踏み込んだ。空は明るい晴れた日、だがその道は暗く冷たかった。地面には細い枝や石が転がっていて何度も何度も足を取られてしまった。冷たい風は私の脇の下や首筋を通り抜けていく。汗をかいていたからね、余計に冷たく感じたよ。どこに繋がっているか何て分からないけれど、少なくともこの道は私の希望だったのでね。慎重に一歩一歩進んで、一際分厚い草の扉を押し開けた。両開きのその扉の先は今までよりもずっと広い場所でね、それまではどこからか鳥の声や自然の音というのかな?聞こえていたんだ。それが聞こえなくなった。静かな場所だった。神秘的でね。大昔の人はこういう場所のことをきっと聖地だとか祭壇だとか・・・そんな風に言ったんだろうね。屋久島は行ったことはあるかい?」

「いえ、ないですね」首を振る二宮。「あなたは?」

「私もないよ。しかしパンフレットや雑誌、写真集なんかでは見たことはある。いつかは行きたいと思っていた場所だ。今だにないが」マスターは薄暗い空気を吸い込んだ。「足下に注意して一番近くの木に触れた。冷たい。見渡すと広くなったところの中央に水が溜まっていて、薄暗い周りの景色が映っていた。よく見ると小さな虫が飛んでいるんだ。ゆっくりと漂うように飛んでいる。見たこともないような虫だった。一匹や二匹じゃあない。気づけば数十匹、数百匹に増えているんだ。僅かに高い木の隙間から光が漏れていて、その虫たちは反射するように飛んでいる」マスターは空中に見えないその虫たちを追っていた。「私は緊張と暑さから息を切らしていてね、その場に座り込んだ。地面は濡れていてジーンズを通して水が染みこんできたが気にはならなかった。それでもまだ明日は何をしようかと考えていた。」

「そこには何があったんです?」二宮は踏み込むように言った。細く、強く、それは観察するような目だった。

「どうしてそう思うのかな?」マスターが返す。

「分かりません・・・ただ、何となくですね」二宮は濁らせた。

「それは元記者の勘なのかな?だとしたら君は記者としては一流だろうね。うん、そうだ。そこに現れたものは・・・想像もつかないものばかりだったよ。広場の中に石が綺麗に並んでいる場所を見つけた。多分偶然に並んだものだと思う。サークル状に。その中央には草が人間の顔みたいに咲いていた。その顔はまるで小さな男の子が笑っているようで、私は見とれていたよ。私は自分自身に“何とかなるさ”とそう話しかけてはいたけれど、どうしたらいいか何て分からなかった。正直帰れる気はしなかった。だが帰るつもりではいた」

「恐怖心は?」

「恐怖?なくはなかった。前にも言ったとおり忍び寄るタイプの恐怖だった。直接的ではないんだ。ジェイソンだとかエイリアンだとか、誰かが殺しにやってくるようなものではなかったし、ただ太陽の光が弱くなっている、そう気づいたときは恐怖だった。太陽の光は希望の象徴、それが強くなったり弱くなったりすることはその下でそれを必要とするものの心理状態を表すって、そう言っても言いすぎだとは思わない。その光が弱くなっていったんだ。飛んでいた羽虫たちから光が消え、私の心に恐怖を植え付ける。そして彼らが現れた」神経質な笑いを浮かべ、マスターは意味深に言った。

「彼ら?」

「彼らだ」マスターは一拍おいて続ける。「このことを小説にでも書いてみようかな?少なく見積もっても原稿用紙二百枚は越えるだろうね。それに置かれた状況に疑問を抱いたとしても・・・まぁ聞いてくれ。

 恐ろしいことだよ。見上げたところに大きな岩があってね、苔むして木の根が走る岩だ。その上に彼らは現れた。現れたのは二頭の鹿だった。のそりのそりと現れて、二頭して私を見下ろすんだ。私はその鹿の顔に見覚えがあってね、彼らを覚えていたよ。彼らの銀色に光る目は喫茶店にいた二人の老人たちのものだった。片方の顎から下がった立派な銀色の髭がゆっくりと下へ下がったと思うと、二頭して私に微笑みかけるんだ。口の両端を持ち上げて、その大きな目玉を私に向ける。小さな声だが彼らが言うことは聞こえていた。“深い緑、そよぐ風、端に立てば皆空を飛び、夕闇を持って眠る。優しいものに包まれる、ここは優しい良い所だよ”何度もこの言葉を繰り返していた。私は何も言えないでいた。そこに座るばかりでね」

 二宮はマスターの目をじっと見つめたままでいると、大きくうなづいて見せた。

「私は自信が狂乱したり、精神異常を引き起こしたり、言わば正常な思考が出来なくなれば、それには気が付けるつもりでいる。だからこそ言えるがこれは事実なんだよ。

 さぁ、続きだね。二頭の鹿はその大きな岩から小さな岩へと飛び移って下へ降りてきた。ちょうど鼻に苔の緑臭さがまとわりついていて離れないだけ、私には逃げることは出来なかった。疲れていたし・・・それにどうすればいいか分からなかったしね。そいつらを見ていたらふいに、僅かに残った太陽の光、それまで私の頭の左側をずっと照らし続けていたんだが、そいつが突然に遮られた。二頭の鹿が驚いたように立ち止まって、こちらを警戒し始めている様子がすぐに理解できたよ。どうしたんだろう?そう考える前に私はそっと顔を上げて見上げてみると、そこに立っていたのは鍔広帽を被ったトレンチコートのあいつだったんだ。いや、あいつなんて言っては失礼に値するな。あの人、あの方だ。当人がどう思っていたかは分からないが、私は彼のお陰で助かったのは事実なんだから」

「助けられたと?」

「あぁ、そういうこと」そう言ってマスターは人差し指を立てた。「見上げた彼の顔は陰っていてしっかりとは見えなかったけれど、鹿たちが怯えていることは容易に理解できたし、何しろ鹿たちの顔と言ったらね、あれ知っているかい?トムとジェリーでジェリーの罠にはまったトムの驚いた表情。舌なんか飲み込んでしまって、体中の骨が後ずさりするみたいに体を後ろに引っ張るんだ。毛は逆立ってるし、目玉はゴルフボールみたいに真ん丸でぐるぐるしてる。状況が状況だったが、違っていたら私はがさつな女みたいな笑い声を上げていたかも知れないな。ある本の言葉を借りて言うのならばこれこそがまさに“気が触れた人間の歓喜”というやつだよ」

「日と月」そう言って二宮は破顔した。







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