その四
マスターは話し出す前に煙草を一本取り出して火を付けた。それから気がついたように煙草を二宮に差し出した。しかし二宮は丁重に断った。
「僕は吸わないんですよ。すいません」
「ははっ、そうか、それがいいよ。私もねいつかは禁煙しようと考えているんだ。いつになるだろうね。でもね、私は禁煙できるという自身があるんだ。所詮禁煙なんて言うものはその人の気持ち次第さ。それが最も単純で至極重要なことなんだよ。何事もそうさ、大切なことはまず思うことだから。
すまないね。
本題を話そう。不思議と恐怖がつきまとう話しはここからだ。
私はマスターの顔を見ようとしたがマスターの顔は青ざめていてね、額には玉のような脂汗が浮かんでいるのが一目で分かった。でも彼はいくらかは落ち着いた様子で瞬きを繰り返しながら必死に深呼吸していたよ。事情を聞こうとはしなかった。静かな恐怖が迫っていることだけは肌で感じたんだ」
「光る目?」二宮が呟く。
「その通り。直接的ではなくて忍び寄るタイプの、最も恐ろしいものだったのかも知れない。いや、恐ろしいものなのかな?実際はそれを望んだものに訪れる出来事なのに?不思議ではあるし、非科学的ではあるけれど、まぁ人が考えられる範疇を越えた出来事はやはり恐ろしさは付きまとうのだろうね。
マスターは少し疲れた声で私に“代金はいらない”と言ったけれど、私にはその言葉すら理解する余裕はなかった。正直パニックに陥っていてね、あの奇妙な空気に。外見は正常だったかも知れないけれど、どうしていいか分からなかった。早くにこの場所から立ち去ろう。それだけを考えていたんだ。私はカウンターの上に代金を適当に置いた。足りていたかは知らないがポケットにあった小銭は全部置いたよ。そして店から飛び出した。出る寸前に振り返って老夫婦を見たが、彼らもやはり私のことを見続けていた。私の目が狂っていなければ二人共口元には薄ら笑いを浮かべていたね。ちなみに私の視力は二.〇だよ。目は銀色に光っていて、あれは人間のもの何かじゃあないって確信した。人間なのは見た目だけで、もっと別の生き物だと。幼い頃私は犬を飼っていたがね、バーニーズマウンテンドッグというやつだ。お腹の白い毛が綺麗で名前はバジルといった。知ってるかい?バジルの花は白いんだ。交通事故にあって死んだんだが、最期にね、死ぬ寸前のバジルの目が、丁度あの老夫婦のものに似ていたと思う」
二宮は老夫婦の座っていたテーブル席に目をやった。さっきまで日の差していた席はもうすでに陰っている。それから二人が座っているところを思い浮かべてみた。銀色の髪、光る目、そして口元の微笑。それらを思い浮かべると二宮は体を震わせて向き直った。
「私は外に出てみたが別段変わった様子なんてなかったんだ。いや細かく言わせてもらえばね、太陽が大きな雲に隠れて何というか、世界全体に薄いフィルムでも張ったみたいな感じがしたのを覚えている。それに強い風が吹いていた。バイクの所まで行くとその風はさらに強くなって私はバイクが倒れないように必死に支えた。山全体が騒ぎ出して、私に何かを話しかけているようだった。木々、花々それぞれが自分の言葉で。風が最高潮に達したとき、駆け抜けるように風がぴたりと止んだ。そしてその風は尾根を下るようにざわめく木々を伴って降りていったよ。雲も晴れて太陽も顔を出した。空の一番高いところに鳶かな、鳥が飛んでいるのも確かに見えたし、それはいい天気だった。私はほっと胸を撫で降ろして、バイクのエンジンを掛け、その喫茶店を後にした」
「で、恐怖というのはそのことですか?」二宮は座り直した。
「慌てなさんな、君。慌てるという行動は勿体ない行動だよ。実際本当は見えてるものでも慌てて見えなくなってしまうことだってあるのだから。ただ慌てたからといって、あの言葉は言わないでくれよ。何度だって言うが君はツいているんだから。無駄にしないことを約束してくれよ」マスターはそう言って二宮の顔を確認するとニヤリと笑った。「で、私はバイクを発進させて、もと来た道を戻った。何故先に進まなかったかというと、来た道の方が安心だったからさ。先に進むというのは知らない道を行くということだろう?そうする勇気が私にはなかった。私もやはりびびっていたからね」
二宮は苦笑いで顔を振り同意した。
「ちょっと話は逸れるが私がバイクの旅に出る前最期の二週間、会社を辞めてからの話しだが、生活のリズムは完璧なものだったと自負するよ。朝は六時に起床すると天気予報を見て天気を確認した。それから外に出て、空気の匂いをかぎながら散歩をした。しっかり三十分歩いた後には朝食をとって、その後午前中は洗濯なんかの家事と、それに読書をして過ごした。昼食の後は街に出てぶらぶらするんだが目的は様々だった。地図探しに・・・次に読む本を探したりでね。映画を見たりもしたよ。もちろん一人だ。夜は早めの晩ご飯をとる。時間はきっちりと六時にしていた。そしてすっかり暗くなると地図や雑誌の写真を眺めながら、これから自分がどういうところに行くのかということを想像して時間をつぶす・・・そして九時には眠る。コンディションを整えることが大切だと思っていたからね、長旅には重要なことだと信じていたよ。これもあの『日と月』って本の影響さ。
さぁ。
で、私はバイクを走らせて道を戻った。ついさっき、喫茶店に入る寸前に通ってきたトンネル。そのトンネルへ入ったんだ。薄いオレンジ色の灯りが行進するみたいに繋がっていて、その下を通り、トンネルを抜けた。トンネルの向こうはカーブがあって、その先にあったのは・・・この喫茶店だった」
「えっ?なんですって?」二宮は声を上げた。
「そう、奇妙だろう?後にしたはずの喫茶店、この店が目の前に突如現れたんだよ」
二宮が訝しげな表情で話しを整理しにかかっているのを尻目に、マスターは落ち着いた表情でのんびりと煙草を吹かして、軽い咳をした後にソーダ水を飲んだ。二宮の鼻に煙草の匂いがまとわりついて、そして消えた。
「過ぎ去っていった物が突然目の前に現れる。簡単には言えるけれど、実際にそいつを目の前でやられたら殆どの人間はパニックに陥るのだろうと思うよ。私がね、まぁかろうじてだが平静を保ち続けられたのはきっと自分自身新しい土地へ行ったり、新しい物と出会ったり・・・そういう物が好きだったからじゃあないかと思う。そうか気が狂ってしまっていたか、はははっ」マスターは鼻の上の当たりを手の甲でこすった。「喫茶店が目の前に現れた。私はもしかしたら同じような喫茶店が、私が見落としただけで元々からあったのではないかと思った。それで先ほどでた喫茶店のことを思い起こして新たに目の前に現れた喫茶店との違いをあれこれ考えてみたんだ。さっきの店の屋根は鮮やかな赤色だったんじゃあないか、今度の店は少しくすんでいるぞ、だとか店の外には紫の花が植えてあったはずだ、だとかってね。私は私の横の通り過ぎてゆく新たな、もう一つの喫茶店を見て考えを巡らした。そうして後にして、またトンネルへと入っていった・・・この先はもう分かるだろう?」
「トンネルを抜けると・・・そこにはまた同じ景色が広がっていた」二宮は素早く反応した。
「その通りだね。三度目の正直さ。もう疑いようのないもので、朱色の屋根だって深紅の屋根だって、違いなんてない。私が無理矢理そう思っていただけ、視点を変えようとしただけだ。狂ってしまったと思ったよ。自分は一体何をしようとしているんだろう。早く帰って次は日本の西側を攻めてやるんじゃなかったっけ?同じ所をぐるぐる回っている場合じゃあないだろう?先へ進めばいいんじゃないかな?そう、トンネルの先へ・・・。私は道路の真ん中でね、大きくUターンをした。対抗車なんて来る気配はなかった。むしろ来た方が気持ちのいいぐらいのものだ。周りから音がしなくなっていてね、いつの間にか耳の後ろを油みたいなのっぺりしたものが伝っていったよ」
マスターはここで二宮のために空中を指で辿って見せた。同じ所でぐるぐる指を回して見せて、途中でぴたりと止めると次は逆に回し始めた。その動作はマスターのそのときの精神状態を表しているのか、バイクの辿ったルートを表しているのか、二宮には判断できなかったが、どちらにしてもそのときのマスターは体から魂が体外へ遊離し彷徨っている状態で、冷静さは逆に放心状態へと繋がる前兆であったことを二宮は勘ぐって心配になっていた。
「戻れなかったんですね?」二宮は“ですね?”と変な所を強調しながら言った。