その三
「私は当時ある広告代理店に勤めていてね、今の君よりも少し若いくらいだと思う。当時の私は三十一歳だった。自慢じゃあないが私も結構仕事は出来る方だったんだよ。上司にも気に入られていたしね。昇進もすぐだって言われていた。だけれど私はそんなことには興味はなかったんだ。私にはやりたいことがあったからね」
「それは何です?」
「バイクだよ。バイクでね世界中を走り回りたかったんだ。走らなくなったバイクが裏に止めてある」そう言ってマスターはカウンターテーブルの向こうの裏口への扉を親指で指した。「あいつで走り回りたかったんだ」
「男のロマンって奴ですね?」二宮は挟んだ。そして破願した。
「ロマンに夢ね。そんな崇高な言葉を使ったら怒られるかも知れないけれど確かにそうするということが、その目標が私の全てだった。会社の上司もそれは知っていたからね、無理に私を止めようなんてことはしなかった。私はお金がある程度たまったら会社を辞めたんだ。取りあえずは日本中を走り回ることに決めた。400ccのバイクの荷台には少しの荷物と丸まった地図、それにカバーのない本が一冊だけ入っていた。この本が『日と月』だよ。さっき思い出したんだが。
あの本は私を一歩前へ押し出してくれたという点に関しては最大の功績を持った本だよ。栄誉賞をあげたっていい。ただ全員が全員あの本の内容によって押し出されるとは限らないね。中には糞だとけなす奴だっているに違いないだろうしね。あの本が実は編集社宛に送られていたものだと知ったときは私はどきっとしたよ。実際編集社に送ったって殆どの作品は読まれないっていうじゃないか。一体どれくらいの資源が紙となって、そして嫌というほどに文字を書きたくられて、そして棄てられていくんだろうね。あの本だって封筒に入ったままゴミ箱の中へ捨てられたって可笑しくはなかった。だがそうはされなかった。彼は編集社宛に送ったのではなく編集者宛に送ったそうだね。自分の所に小包が届いた。だから貰った人はそれを開けた。確かに当たり前の構図だよ」
「そうして?」
「うん、そうして私はバイクでの旅に向かったんだ」マスターはうなずいた。「まず始めに私は日本の東側を旅しようと思った。そうして静岡から太平洋に沿って東へ進んだんだ。一番の苦労はガソリンだったね。私はおっちょこちょいなのかよくガソリンを入れるのを忘れるんだ。ガソリンスタンドも何も閉まっちゃってね。朝までスタンドの前で野宿なんてのは珍しくはないよ」
「今みたいに24時間のセルフスタンドは少なかったですからね」二宮は笑った。
「24時間のスタンドが今はあるのかい?そんなものが当時あったら苦労はしなかったね。私は北へと向かって北海道にも入った。ここでは滑稽な話があるんだが聞いてくれるかい?北海道で稚内に入ったときのことだよ。あそこはね実にロシア人が多い町だった。看板なんかもロシア語で書かれているのが目立っていたし、町の人たちもそれには慣れた感じだった。私には人から聞いていて確かめたいことがあったんだ。何でもロシアの人たちは自分専用のワサビを持っていて食堂なんかでパンに塗って食べるんだと。信じられるかい?ワサビをだよ?私自身の中ではワサビはご飯に合わせるものだからね、信じられなかった。私たちがピロシキにマヨネーズでも塗って食べたらロシア人は同じような反応をするかも知れん。うん、そして私は確かめようとしたんだがなかなかその現場にはハチあわなかった。私がそろそろ稚内を後にしようとしたときだ、最期に昼食でもと思って入った食堂でね、入った目の前にいた外国人の男がね、おもむろにワサビを取り出すとそれを食パンに塗りだしたんだよ。そしてパクリ。私は立ったままその男を見ていたから、その男も口を動かしながら私の顔を変なものでも見るようにじっと見ていたっけな」
言い終わって一呼吸置いた後、マスターは突然思い出したように笑い出した。二宮もそんなマスターを見て笑った。
「へぇ、一度試す価値はありそうですね。ははっ。それからまた南へ向かったんですか?」と二宮。
「そうだ。今度は日本海側を通ってだが、ずっと、ゆっくり二週間ぐらい掛けて南へ向かった。新潟を越えた当たりで一度戻ろうと思ってね、東側の旅を終えようと思って岐阜へ入り南へと走らせた。この場所はね、この喫茶店はそのときに見つけた所なんだ。トンネルを抜けてカーブを曲がったすぐの所にこの場所があって、私はすぐに駐車スペースへとバイクを乗り入れた。店には入らずにしばらくは景色を眺めていたよ。春先のことだった。山はどこも緑色だった。風が吹いて木々がざわざわと音を立てて揺れていた。緑色の中にいくつか桜の木が混じっているところもあった。そこだけは薄い桃色が周りのせいで一際目立っていてね綺麗だったよ。空には雲があったにはあったが晴れていて気持ちの良い日だったのを覚えている。そうして私は中に入った・・・」
一度話しを止めて煙草をぷかぷかと吹かした。白い煙が立ち上って消えた。マスターはその煙の中に何かを見ているのか?二宮は咄嗟にそう思った。何せマスターは煙を目で追いかけそれが姿を消すと少し沈んだ目で眺めているからだった。その瞳が水晶玉のようだと二宮は思った。それに幼い頃に友達と交換したり転がしたり覗き込んだり、それに並べてうっとりとしてみたりした安っぽいガラスのビー玉のことを思い出した。あれらはまだ実家の、勉強机の一番上にバンドエイドの空き缶に入って残っているのだろう。そう思った。
二宮はマスターが一本を吸い終わり、新たな一本に火を灯すのを、コーヒーを飲みながらゆっくりと眺めていた。マスターのしわがれた手の中で炎が優しくオレンジ色に燃え、煙草の先を焦がす。
「話を続けようか」とマスター。「店の中には小さくジャズが流れていてね、知らない曲だが好きな感じだった。あるだろう?CMやラジオ何かで知らない外国の音楽が流れていたとき“あっ、この音楽なんて曲だろう、気持ちのいい曲だ”って感じることが。その音楽は私にとってのそれだった。音楽に限らない。絵画だったり彫像だったり映画だったり、ここの景色だったり、それに九重亮のあの小説であっても人間は何かしら心の中にボタンがあって、それを押すことが出来る瞬間というのは、そういうものに出会った瞬間だと私は思っている。つまるところ、その瞬間に巡り会えたときにこそ自分がどうしたいのか、それに気付けるのだとね、思っているんだ。君が物事に異常な興味を示す瞬間も同じような類のことだと思うよ。
さて、私がこの喫茶店に入ったときに客は私を入れて四人だった。老夫婦が一組とトレンチコートに鍔広帽を被った男、男というのは体格で判断したんだ。顔はよく見えなかった。そして私。後は私を向かえ入れてくれたマスターが一人だった」
話しが一瞬止まって、二宮はこの瞬間にはっとした。突然にあふれ出した感情は疑問と驚き、それに恐怖が五対三対二位の割合だった。おかしいのだ。マスターの話は一体いつのことだろうか。話しに沿って考えればそれは二十年位前か、もう少し前の話しということになる。しかしその時代にはこの場所はもうあった。いやこの喫茶店があることは大して問題ではない。江戸時代から何百年も続く酒蔵や和菓子の店だってあるくらいだ。息の長い喫茶店があっても決して変ではないのだ。しかしマスターの話に出てきた客の人物、老夫婦とそれにトレンチコートに鍔広帽の男・・・。これは紛れもなく自分がこの喫茶店を訪れたときに客として今自分が飲んでいるものと同じコーヒーを飲んでいた人たちそのものではないのか?
二宮は慌ててマスターにそのことについて聞こうとした。しかし聞けなかった。マスターの目は水晶玉から黒真珠のような憮然としたものへ変わっていたのだ。それはもう質問は受け付けないと言った風だった。ここから先の話しは自分のみで進めさせてもらうと言ったように表情を変えていた。
「君と同じさ。君と同じようにこのカウンターテーブルへ座ってコーヒーを注文した。私の場合はミルクを少量入れたがね。それを半分位飲んであそこのね、大きなガラス窓から下の景色を見下ろした。そしてあのセリフを言ってしまった。“こんな所に住めた・・・”というあのセリフを」
「そのセリフには何か意味があった?」二宮は乗り出した。
「ああ、あったとも。大いにね。あの言葉を言ってすぐに店の中の空気が変わったのが分かったんだ。捩れているというか重くなっているというか、それはすぐに理解できたよ。何かしら自分がしてしまったということが」マスターは立ち上がって自分用にソーダ水を一杯入れた。それからレモンを縛り一口飲んだ。「老夫婦の目が私の方を向いていてね、それは恐ろしかった。白く光っているようで瞬きもせず私を見ていて、昔の映画に「光る目」っていうやつがあってね、子供たちは皆白銀の髪に光る目を持っていて、村人たちが次々に死んでいくんだ。その子供たちの目に似ていた。髪も丁度白髪だったし。アレはね、パニックホラーというよりは精神面での恐怖が強かったが、そう、静かな恐怖だね。うん、それにトレンチの男は突然立ち上がって店を出て行ってしまったよ。テーブルの上には代金が輝いていた」
二宮はゴクリと唾を飲み込んで、それからうなずいた。
「戸惑いながら席に戻った私の元へマスターがゆっくりとやって来た。そしてこう言った。“お客さんあんた今なんて言ったんだ?”と。その声は嗄れていて震えていた。瞳孔が開かんばかりだったし息も絶え絶えでね。私は普通に答えたよ。“こんな場所に住めたらいいなってそう言ったけど・・・何かおかしなことかい?”マスターは怒りに震えたような声で、いや、今になって考えると絶望の声だったのかも知れない。つまりそんな声で“あんたぁ滅多なことは言うものじゃあない。あんたはもう帰れない、お終いだ”と言った。言葉は全部覚えているよ。あんなに鬼気迫ったセリフは初めてだったから」
「それから?」
「ここからが本題だよ」マスターは席に戻りソーダ水を口に含むと、目を閉じてそれをゆっくりと飲み込んだ。「ここからが話しの本題だ。不思議で恐ろしい出来事の始まりだ」