その二
「しかし気持ちのいいところですね」二宮は何の迷いもなくそう言った。「こういうところへ来ると思うんですけどね、僕はこういう場所で、いやどんな仕事かは分からないですよ。でもこういう場所で仕事をするのが一番向いているんじゃあないかって思うんです。都会のまっただ中ではなくてこういう場所で。こういう場所に住み・・・」
「君!」話の途中でマスターが声を荒げて遮った。
二宮は驚きのあまり跳ねるように体を起こして椅子から転げ落ちそうになった。慌てて体を元に戻し、そしてマスターに向き直る。
「君、何を言おうとしたのかは知らないが・・・それ以上は何も言わない方がいい。絶対に」マスターは念を押すように言った。
「どうしたんですか?僕はただこんな所に・・・」
マスターは顔を寄せると、手を口元に当て、唇を震わた。
「言わない方が君のためなんだ」
自分に向かう視線に二宮ははっと気付く。背中を巨大な毛虫が登っていくような感覚が巡り、冷たい汗が額に浮かんだ。素早く振り返る。その視線の正体は老夫婦のものだった。鋭く色のない目で二人共にじっと見つめている。白内障でも患っているかのような淀んだ灰色。二宮は恐怖を覚えて目を逸らした。
「大丈夫だ、大丈夫だよ、君。言わなかったらそれだけでいいんだ。君は実にツいてる。運がいいんだから」マスターはすでに平静を取り戻したらしく、微笑みながら二宮に話しかけた。深い皺が目尻により、二宮はその皺を見るとまた息を漏らした。
強い風がドアをガタガタと揺らした。それに伴って鐘が小さく鳴る。外を風が駆け抜ける低い音が通り過ぎて、また静かになった。
しばらくの沈黙が店の中にあった。マスターは鍔広帽の男の席を片付けに行き、その間に老夫婦もまた店を後にした。静かになると店の中を流れる音楽は二宮の耳に聞こえだしてきた。何の曲かは分からないがローテンポのジャズか何かだった。マスターは食器を流し台に運び、歌を呟きながら洗い出した。
「あの」沈黙を破ったのは二宮だった。「よかったらその話し聞かせてもらえないでしょうか?」
洗い物を終え濡れた手をタオルで拭うマスター。彼は二宮へ体を向けると何かを言おうとして口を閉じた。それから手を組んで何も言わなかった。
「絶対に他人へ、その公言はしないと約束します」二宮は両手を膝の上にのせて、背筋をピンと張ってマスターを見た。
「どうしてそんなに聞きたがる?」マスターはやっとの事で口を開いた。
「僕は記者ですから」二宮はそう返事をしたものの、気取った様子で付け加えた。「それに気になるんです。好奇心がこうさせるんですよ。人間ですから」
マスターは呆れた様子できちがいじみた甲高い笑い声を挙げた。「いやいや、変わっているさ。人は普通は聞きたがろうとしないものだがね。こんな恐ろしい話・・・それでも聞きたいのか?」
「はい」
マスターはカウンター越しに二宮の目を真っ直ぐ覗き込んだ。そして観念した様子で目を閉じた。
「話を聞くまで帰る気はないって目だな、仕方ない・・・君、堅くせずに楽にしなよ」
二宮は体勢を崩してカウンターテーブルに乗りだした。それから残っていたコーヒーを半分くらい飲み干し息を整える。聞く態勢は万全だった。
「この話はね私自身の話なんだ」マスターは座りながら言った。「私の話、信じるとか信じないとかそんなことはどうだっていいんだ。もし君が聞くのであれば話すし、もう止めて欲しいのであれば止めるかも知れないね。つまりこの話は壁に付いた煙草のシミみたいなものなんだよ。気がついたときにはもう遅くて、もうそれを消すことなんて出来ないのさ」
神妙な面持ちで二宮は了解した。
「もしかしたらね、私も彼のように、何という作品だったかな?アレを書いて自殺した作家のことだが・・・」
「九重亮」二宮が繋いだ。「彼の遺作は『箱の中をのぞき見る』です」
「そう彼だ。彼のように自殺をしていたかも知れない。ただしのどに銃を突っ込んで撃つなんて言う馬鹿げたことは出来ないから・・・だって悲惨だろう?脳漿が飛び散るかも知れないし。悲惨だ。うん、つまりもっと他の方法でだね。だが私はしなかった。もちろんこれからもするつもりもないが、私を救ったのは幸か不幸かここから見えるこの景色だった」
マスターは遠い目で窓の外に広がる景色を眺めた。恩人に感謝するような、長い間連れ添ったパートナーを見るような、そんな目で。
「自殺ってのは最もナンセンスなことだとは思わないか?人は狂気に駆られ、しばらくして憔悴しきると最期に自殺してしまうんだろう?私にはどうにもこうにも分からない。ドイツのね哲学者ショーペン・ハウアーって知ってるかな?」マスターは訊いた。
「いいえ」二宮が答える。
「彼の言葉でね、彼が『自殺のもたらす個体の死は解脱ではない』と言っている通り、死んだって何の解決にもならないんだ。まぁ自殺の話しはいいね」咳払いをして、マスターが続ける。「この頃、私は会社を辞めたところだった。脱サラといえばいいのかな?だがその後のことは何も考えていなくてね、無職でどうにもならない日々を送って旅をしていたんだ」
「僕のように?」二宮が言った。
「境遇は違うよ。ははっ。煙草を吸ってもいいかな?お客さんがあるときには吸わないことにしているんだが、長話になりそうなんでね」
「えぇどうぞ」
マスターは「ありがとう」と言いながら煙草を取りに立ち上がった。そしてつま先立ちで手を伸ばして、キッチンの上の棚から煙草の箱を取り出すと、続いて新しいコーヒーを一杯用意して戻ってきた。
「それはもう冷めているだろう?新しいやつをやるといい」
マスターは先ほどのカップを脇に押しやると新しい熱い一杯を二宮の前へ押し出した。強い香りが漂って来るのを二宮は飲み込んだ。二宮の頭の中は話を聞くことで一杯だった。二宮は興味を持ったことにとことんのめり込む性格である。前の自殺した小説家の時もそうだった。興味からの取材でこうなった。小学生の頃、小学生のものとは思えないほどの立派な帆船模型を夏休みの工作で作ったときも、終わりのないパズルゲームをやり始めたときもそうだった。やり終えた後はどっと疲れが押し寄せてきて、やらなければよかったという感情にやり玉にされるのはいつものことだ。今はマスターの話を聞くことしか頭にない。
マスターは箱から煙草を一本取り出して、ポケットからライターを出すと火を付けて煙を吐いた。そして話しを始めた。
「先にも言ったね?これが私自身の話だと。つまり思い出みたいなものなんだ。思い出ってその表現が正しいのかは私は知らないよ、ただ私はこの出来事をよく覚えている。誰しも興味があることだったりすると嫌でも覚えているだろう?好きなアニメの主人公のセリフしかり、好きだった女の子とのフォークダンスしかりだ。ただしそれらは脚色されていくらか綺麗なものになっているだろうけれどね。ははっ。それにね、好きなことばかりじゃあない、恐ろしかった思い出だって心に残ることはあるよ。こいつはよりやっかいでね」そういうとマスターは心臓の辺りを手で押さえた。「こいつはここの一番深いところにね、根を下ろすんだ。それに蔦を絡ませてくる。皆が忘れようとするけれどね、こいつは忘れられない。まぁ忘れられないって点では好きだったものの美しい思い出と、恐ろしかったものの暗い思い出は同じようなものだから・・・」
「どちらも心臓が高鳴るってことですね?耳鳴りみたいにバクバクなって、あれは思い出が心臓に根を下ろす瞬間だったってことです」二宮が口を挟んだ「そうでしょう?」
「そういうことになるのかもね」
二宮はマスターを見てはっとした。大きな二重の瞳は話し相手の二宮ではなくずっと先の方を見ていた。目の下には深い皺が乾燥した砂の地表のように走っている。いくらか白髪の交じった頭髪、煙草を挟んだ指の間には茶色い染みが出来ていて、それが煙草のヤニによるものであることはすぐに分かった。堅く皮の張った指、恐竜の肌のように堅くざらざらしている。しかしながらそれ以上にずっと若く見えるのは、マスターが歳をとっているというよりは、まだまだ現役の男、自分くらいの年齢にしか見えないのは、多分この山の澄んだ環境のお陰であるのだと二宮は思った。そしてこんな場所に住んでいたら誰でもそうなるものなのだろうとも思った(都会の喧騒も、人間関係から発生する嫉妬や憎悪などもストレスも何もないような場所だから)。