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帰り道  作者: 野狐
1/6

その一





 穴場というのはこういう場所のことを言うのかも知れない、とそう誰もが思うのだろう。その店の中は落ち着いた様子だった。店の入口には「OPEN」の木彫りの看板がユラユラと規則的に揺れていた。高い天井には木製のシーリングファンがゆっくりと回っている。コーヒーの芳しい香りが店内を漂い、窓から差し込む光は店内を柔らかく染めた。宵闇が落ちるまでまだ四時間ほども残っているこの時、一番賑わってもよさそうなこの時間にもかかわらず、店内は嫌と言うほど落ち着いていた。店内にいる人間はといえば窓際のテーブル席に座っている老夫婦が一組と、テーブル一つを開けて鍔広の帽子を深く被り茶色のトレンチを着込んだ男性一人、客はこれだけだった。後はこの店のマスターが一人、カウンターの向こう側で鍔広帽の男のコーヒーを入れているところだった。

 流れている音楽を誰も聴こうとはしなかったし(いやもしかしたら誰もが聴いていたのかもしれない)、それを知っているものもいなかっただろう。今まさに一曲が終わりを告げて、新たな曲の前奏が流れ出した。誰の耳にも流れる音楽は風の流れる音や川の流れる音と同じだった。知らない内に耳に入っている音と。

 不意に店のドアの鐘が鈍い音を立てて鳴った。入ってきた新たな客は素早く店内を見渡してから機嫌よさそうにカウンターまで歩いていく。彼は名前を二宮宗吾という。ここに来る前、彼の上司は二宮の肩に手を置いたまま耳元でこう囁いた。

 実際今回の雑誌がこんなに売れたのは二宮、お前の書いた記事のお陰なんだからな。少し休みを取っても構わないぞ、一週間ぐらいどうだ?もちろん休み扱いにはしないさ、ゆっくり休んでくるといい、我らがエース―――と。

 彼の仕事は雑誌の記者で前述の通り彼は書いた記事の成功で褒美に休みをいただいた、とそういうわけだ。

 店の中に差し込む陽の光に木製の羽目板がくすんだ茶色から輝く乳白色に色を変え、店内を幻想的なムードのままに保っている。二宮もまたこの店の中の一種独特な感覚に気づき、息を漏らしていた。時間が経てばこの大きな窓から入る明かりは角度を変えてカウンターの中を赤色に染め出す。そうしてゆっくりとゆっくりと色をなくしていき、最期には宵闇と忘却とが店の中を包むのだ。

 二宮はカウンターの前につくと糸を何重にも巻いて作った人形の付いた車のキーと携帯電話を置いてそれからカウンター席に座った。

「いらっしゃいませ」マスターは鍔広帽の男のコーヒーを持って行く所で、振り返って驚くほど親しみやすい声で二宮に言った。

 二宮は少しだけ微笑んで会釈を送ると、それからもう一度店内を見渡して、最期に天井の高いところで回るシーリングファンを見上げた。大きなファンで耳を澄ませば回る音が聞こえてきそうなほどだった。

「家はコーヒーしか置いていないんだが、大丈夫かな?」戻ってきたマスターが言った。

 口元に笑みを浮かべて、目尻に深い皺が寄った。その声は穏やかだが抑揚があった。心のカウンセラーだとか歌手だとかが多分そんな声を持っているんだろうと思った。

「後は軽い食事くらいならね、トーストとか、それにサンドウィッチとかね」

「あぁ、大丈夫ですよ。コーヒーいただけますか?出来ればミルクがあった方が」二宮はそう返した。

 マスターは肩越しに振り向いてうなずいた後で、コーヒーを入れに取りかかった。コーヒーが出てくるまでの間、二宮はマスターがコーヒーを入れるところを片肘をついて眺めた。その動きは迷うことのない動きで、正解などは知らないものの、どこか習慣的な模範的な動きだとそう思った。薄く毛の生えた手首がしなやかだとそう思った。

 この喫茶店は山中の道路沿いに位置していた。名古屋で働く二宮は休みの間のんびりと旅でもしようと考え、彼は自動車を走らせて北へと向かった。岐阜へ入り山間の町や村を抜けていく。高速道路は使わなかった。景色を楽しむためには下道を走るのが一番綺麗だからだ。高速道路のように山を突っ切るのではなく、山や川など自然の地形に沿って進む道。体を休めるには一番だった。彼が走りながら思ったことはガソリンスタンドが少ないということぐらいだ。見つける度にガソリンを入れた。ナビの付いていない彼の車がどこを走っているのかは正確には分からない。山へ入り、どんどん登っていく。左手は急な斜面になっていて、ガードレールの向こう側、下は見えない。道は綺麗だった。二車線の綺麗に舗装された道路にはオレンジ色と白の中央線がどちらもよく目立つ。山側の崖崩れ防止用のコンクリート壁は整然として、自然の山々に取り入って人工と自然との奇妙な取り合わせが実現していた。

 この場所は山頂付近であることは何となく分かっている。そして長い緩やかなカーブを向けたところにこの店はあった。切り取ったようにその場所は開いていて、山々を一望することが出来る場所に立つ店。山の向こうは山、その向こうも山、深い緑が続いている。この山間に人々が住んでいるのだと考えると、二宮は少し不思議な気分になった。青い空とのコントラストが綺麗だった。太陽の光が白く光る。息を吸うと、空気には味があるのだ、というどこかで誰かが言ったような言葉がいよいよ現実味を帯びてきて、喜びが顔に浮かんだ。

「はい、お待たせしました」マスターが言った。

 目の前に置かれた黄土色のカップから昇る湯気を見て二宮は店に入って二度目の息を漏らした。

「お一人で旅でもしてるのかい?」とマスター。

「ええ、少し長めの休みができたものですからね。本当に久しぶりに」二宮はそう言いながらカップを回して、コーヒーを口に運んだ。深く苦みのあるコーヒーで好きなタイプだった(酸味の強いのはどうも好きにはなれない)。

「そう、有給休暇か何かで?」マスターは続けて尋ねた。

「いや、ちょっと仕事で成功しまして、上司から褒美ですよ」二宮は得意気に答えた。「雑誌の記者をやっているんですけれどね、僕。今回はある小説家のことを記事に挙げたんです。知りません?九重亮という作家さん、『箱の中をのぞき見る』って作品を書いた人」

「その作家ならね確か知っているな・・・『日と月』って作品でデビューした人じゃあなかったかな、確か。昔読んだことがあるな」マスターは懐かしく遠くを見るように言った。「他は知らないが、私は会社員だったな。そうだ、その本を読んだからだったな・・・」

「そうですよ、その小説家の話です。彼の作品『箱の中をのぞき見る』その作品を取り上げたんです。もちろん九重亮本人も」二宮は言った。

「その作品は知らない」マスターが返す。

「連日テレビでも報道してますよ」二宮は軽い驚きを覚えたように目を開いて言った。「テレビドラマになって今やっている最中だし、それに映画化も決定してる」

「テレビは見ないんだ」

「そうですか・・・」続けて二宮は何かを言おうとしたが口元に軽く親指を当てて言うのを止めた。コーヒーを少しだけ飲んで音を立てないようにカップソーサーに置く。「まぁ彼のお陰だってことですよ」

「それでこれからも彼を追っていくわけだ」マスターが挟む。「会社もそれを望んでいるはずだからな」

「いえ、それはないです」

「どうして?」

「彼は死んだからです」二宮が間髪入れず答えた。

 マスターは無表情のまま何も言わずに口をつぐんだ。二宮は指を折って数を数えた。

「彼の作品は結局七作だけだったんです。十五年間で。二年に一本のペースで、結局売れたのはデビュー作がまぁまぁと、それに最期の一本だけ。それでもお金には困っていないようだったし、彼自身も好きなことが書けた、とそう言っていましたし・・・」

「最期は?」マスターがカウンターに手を置いた。「彼の最期だよ」

「あぁ、最期は猟銃をこんな風にのどの奥まで突っ込んでですね」二宮は指を二本立てて銃に似せると口の奥へ入れた。「それからズドン・・・即死で後頭部が全壊だったそうです。狂気じみていたんですよ、でなければこんなこと出来やしませんよ。奥さんだってそう言っていたんです」

「そうか、そうやって死んでいったか」マスターはしみじみと言った。

 突然入口の鐘が鳴り二宮はドアの方を見た。しかし誰の姿もなかった。それからテーブル席の方へ目を向けると、トレンチの鍔広帽の男の姿がなくなっていた。テーブルの上には小銭がきらきらと小さな光を放っている。

「この話はもう止めよう、人の生き死にの話しだ」マスターが言った。

「そうですね」二宮は応じた。

 谷間に向かって開いている一番大きな窓に体を向けて、二宮はぼうっと外を眺めた。その景色を見ていると腹の下のところがむず痒くなって何故かドキドキしてきた。それでも不思議なことに落ち着くのだ。矛盾しているようにも思えるが、そんな感覚だった。店の中には音楽が静かに流れているが二宮には聞こえない。前にもいった通り、流れる音楽は流れる風や川と同じだった。







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