変な詩
次の詩を解読してください。『うかぶ綿にはすべての死がある。この葉はやがて、妄信するものから出るだろう。居間にいるクモの巣の下へ、位牌が蝶となって軒からあらわれる。熨斗はいらない。谷へとおちた馬はその伝手をたより、今このとき、巣からもどってくるだろう』
ほこりを被った缶の表面は、うっすらと広がる錆でざらついていた。
詩人だった母が好きだったクッキーが入っていた缶。天袋の奥に隠されるように置かれていた。
脚立から降りた信弘は、畳みの上であぐらを組むと、ふたに手をかけた。中には一枚の便せんがきれいに折りたたまれて入っていた。
『うかぶ綿にはすべての死がある。この葉はやがて、妄信するものから出るだろう。居間にいるクモの巣の下へ、位牌が蝶となって軒からあらわれる。熨斗はいらない。谷へとおちた馬はその伝手をたより、今このとき、巣からもどってくるだろう』
公孫樹の葉が黄色にそまる秋の昼下がり。信弘は作業を中断し、詩の解読を始めた。
◆
ガラスのコップに注いだ麦茶をかたわらに、庭につづく縁側に腰かけた信弘は、しばしの休憩をとった。うっすらと額にかいた汗が、喉を流れる冷たい麦茶とともにひいていく。
父の死を見届けて数週間が経つ。信広は、実家の中を整理していた。そこで見つけた、母の字で書かれた一つの詩。
信広は思い返す。母はいたずらが好きだった。
そんな母の行方がわからなくなったのは、信弘がまだ漢字も読めなかった幼き頃。いつのまにか母はいなくなっていた。
遠い日、父のむせび泣く姿を見た。しかし信弘は、いつか帰ってくると信じていた――。
麦茶を呷る。紙を手に取り、信弘は詩を声に出して読んでみた。
「うかぶ綿にはすべての死がある。この葉はやがて、妄信するものから出るだろう。居間にいるクモの巣の下へ、位牌が蝶となって軒からあらわれる。熨斗はいらない。谷へとおちた馬はその伝手をたより、今このとき、巣からもどってくるだろう」
声に出しただけでは理解できなかった。何かの比喩か、あるいは暗号だろうと思った。
缶の中には、綿が敷き詰められていた。便せんは、その上にそっと乗っかっていた。
缶を膝の上にのせて、敷かれた綿を取り出してみる。綿の下から出てきたのは、折りたたまれた白い薄葉紙。そこに挟まれていたのは一枚の葉。どこまでも伸びていくような黄色の公孫樹の葉だった。
これは母が包んだものだろうか。
信弘はふと庭先に目を向けた。そこには一本の公孫樹の切株があった。
信弘が幼き頃は、そこに見事な黄色の葉がついていた。切り倒されたのは、母が行方不明となって何十年も後のこと。落ち葉の処理に困って、信弘がやむなく業者を手配して切り倒させたのだ。
葉柄をつまんで、じっと見つめる。大切にされていたこの葉には、何か特別な意味がある。そう感じた信弘は居間に向かった。
居間の隅には、昔から仏壇が置かれている。そこには今、母の位牌だけが並んでいない。そこから見上げた天井の隅。蜘蛛の巣は張られていなかった。
仏壇の前で腰を下ろし、目を閉じて手を合わせる。だが、解読する手掛かりは浮かばない。
◆
遅めの昼めしに焼きそばを作って、一人で食べた信弘。洗い物も残したまま、ふたたび縁側に腰かけて麦茶をのんだ。
そよ風の中で、母との思い出を振り返る。
いたずらが好きだった母。たまに帰ってきては、この庭でよく一緒に遊んでいた。詩を口ずさみ、四季を謡い、その姿はいつまでも風のように飄々としていた。案外、この詩に意味はないのかもしれない。
それでも信弘は考えてみたかった。
『うかぶ綿にはすべての死がある。この葉はやがて、妄信するものから出るだろう。』
缶の中に入っていた綿と公孫樹の葉。
『クモの巣の下へ、位牌が蝶となって軒からあらわれる。谷へとおちた馬は──』
詩の中に出てくる生き物は、蜘蛛、蝶 馬。やはりこれらは何かの比喩なのだろう。
『熨斗はいらない。』
熨斗とは、贈答品に添えられる飾り。いまとなっては印刷されているだけのものがほとんどだ。上辺だけの飾りはいらないと、そう言いたいのだろうか。
『その伝手をたより、今このとき、巣からもどってくるだろう。』
伝手を頼る──力になってくれそうな人に協力を仰ぐ。そして、巣から飛び出す。この「巣」もなにかの比喩だろうか。もしもそうなら、巣から連想するのは家──「実家」。つまり、今いるこの場所となる。
ただ、詩の中には「クモの巣」とも書かれている。これらが同じものを指しているとするなら、解釈は変わってくる。
そこで信弘は考えた。そして、気づいた。
詩には「蜘蛛」ではなく「クモ」と書かれている。もしもこの「クモ」が「雲」だとしたらどうだろう。「うかぶ綿」とは「雲」の暗示。雲の巣とは──それは詩的表現として、「天界」や「天国」を表しているのではないだろうか?
ならば、巣からもどってくるという『谷へおちた馬』とは、天馬を意味するのではなかろうか。ペガサス座は、秋に見頃を迎える星座だ。秋は、公孫樹の葉も見頃となっている。
◆
なおも信弘は、縁側に座ったまま詩の意味を考えつづけた。
『この葉はやがて、妄信するものから出るだろう。』
詩には「木の葉」ではなく「この葉」とある。これはどこかに落ちている葉ではなく、特定の葉を指していると考えられる。とすれば、間違いなく缶に入っていた公孫樹の葉のことであり、この葉は、庭に生えていた木のものだろう。
幼き頃の信弘は、いつの日にか母が帰ってくると信じていた。信弘は、詩に登場する「妄信するもの」が自分を指していると考えた。
『位牌が蝶となって軒からあらわれる。』
位牌とは、故人の霊魂が宿る依代のことだ。我々は、位牌を通して故人とつながる。
行方不明ゆえ、生死も不明な母の位牌は居間の仏壇には存在しない。母が姿を消した期間は決して短くない。もうすでに死んでいても、何ら不思議ではない。
信弘は、飄々した母が死後に蝶となって軒に現れるところを想像して、少し笑った。──蝶を選ぶとは、詩人だった母らしい。
いま母はどこで何をしているのだろう。
信弘は紙とペンを取ってくると、解読を進めた。小一時間して腹も再び空いてきたころ、ようやくそれらしき意味を見出した。
「うかぶ綿」→雲。雲は天国の暗示。「うかぶ綿にはすべての死がある」→すべての人間はやがて死ぬ。ゆえに天国にはすべての人間が訪れる。
「この葉」→缶に入っていた公孫樹の葉。「この葉はやがて、妄信するものから出るだろう」→いつの日か、この公孫樹の葉を、信弘が見つけるだろう。
「居間にいるクモの巣の下へ」→居間にある仏壇(仏を祀る場所=天国の意)のこと。
「位牌が蝶となって軒からあらわれる」→死後、蝶になって家に戻ってきます。
「熨斗はいらない」→飾らなくていい(特別なことは必要はない)の意。
「谷へとおちた」→困難に見舞われたことを暗示→戻ってこられない状況=死、を表している。
「馬」→天馬→ペガサス座→秋の夜。
これらをまとめ、意訳せば次のようになる。
「私の死後、信弘、あなたは庭の公孫樹がつけたこの葉を見つけるでしょう。私は蝶となって戻ってきます。特別に飾る必要ありません。この葉を頼りに、秋の暮れ、私は再びここへと戻ってきます」
縁側から見上げた空には、星が煌々と輝いていた。
信弘は満足すると、中に戻って晩飯の準備に取り掛かった。
この解読は間違っています。正しい解読法は特殊な読み方にあります。ぜひ漢字に注目してみてください。『うかぶ綿にはすべての死がある。この葉はやがて、妄信するものから出るだろう。居間にいるクモの巣の下へ、位牌が蝶となって軒からあらわれる。熨斗はいらない。谷へとおちた馬はその伝手をたより、今このとき、巣からもどってくるだろう。』