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石と誰かの物語

スモーキークォーツっていうのよ

作者: 河 美子

石と誰かの物語です。

 もう何十年も前の話。

 あなたは旅行会社に勤めていたわね。

 田舎育ちの私には、あなたの話がとてもキラキラしていてわくわくしながら聞いたものだった。

 二人が知り合ったのは満員の地下鉄の中。朝から調子が悪かったが新入社員の私は休みを取ることもできなくて、昼休みにでも近くの医院に行くつもりだった。だが、車内は冷房の効き目が悪くてしかも雨が降っていたから汗のにおいや男性のポマードの香りに気分はますます悪くなっていった。

 ふーっと、意識がなくなって気が付いたらホームのベンチに一人、いえ二人。

「大丈夫ですか」

 私の顔を覗き込む人がいた。それが彼だった。

 まだ、二十二歳の私はびっくりして立ち上がった。でも、ふらついてまた座ってしまった。

「ダメですよ。そんなに動いては」

「すみません。貧血を起こしたんですね、私」

「ええ、今日は満員でしたから」

「お世話を掛けました。すみません」

 何度も頭を下げた。彼は爽やかな笑顔でハンカチを貸してくれた。

「あ、どうも」

 青いチェックのハンカチがまぶしかった。ハンカチなら持っていると思ったがつい手が受け取ってしまっていた。

「僕はここから歩いても会社は近いです。あなたは?」

「あ、私もです。あと一駅ですけどちょうど中間あたりなので歩きます」

「えーと、僕は橋田亮介といいます。この先の東西観光の添乗員をしています」

「あ、私は中野エリです。塚口商店という文房具の会社の事務をしてます」

「じゃ、これで」

「ありがとうございました」

 その後、二か月ほど経っても彼と会うことはなかった。貸してもらったハンカチは洗ってアイロンを掛けていつもバッグに入れて持ち歩いていた。

 塚口商店の文房具といっても、最近はスチール製の机や書類棚がよく売れていて会社の業績はとてもよかった。世の中は万博ブーム。大阪の太陽の塔とやらが有名で近く会社の慰安旅行で行く話が出ていた。

「中野君、今度の慰安旅行をどこかに頼んでよ」

「はい」

 橋田のいる東西観光しか頭に浮かばなかった。電話帳で調べて電話をする。今のようにケータイやパソコンのない時代。黒塗りの電話でダイヤルを回した。

「もしもし、東西観光です」

「あの塚口商店の中野と申します」

「ああ、僕です。橋田です」

 電話はあの橋田だった。顔がびっくりするほど赤くなるのが自分でもわかった。心臓が口から飛び出そうだ。慰安旅行の件を話すと、すぐに企画書を持ってくるということだった。

 会社のトイレに行き化粧を直した。髪もとかしてあのハンカチを用意した。お礼にと自分の選んだハンカチも添えた。走って来たのか、橋田は汗びっしょりでやって来た。わずか一泊の慰安旅行だが、橋田はいろいろと考えてくれた。塚口社長もすぐに承諾してくれた。社員十二名だから決めるのも簡単だった。橋田ははきはきとしていて社長も実にいい奴だと褒めていた。

 応接室で二人きりになると、ハンカチを渡すと橋田は喜んで受け取ってくれた。そして、ポケットの中からシルクの小さな巾着を出した。

「これ、香港のお土産です」

「え? 私に?」

「はい、あれからずっと仕事が忙しくて。そのうちにどこの会社だったか忘れてしまって。名前だけ憶えてました。電話をもらってうれしかったです」

 彼の言葉にうきうきした気持ちになったのは言うまでもなかった。

 中国の雰囲気の赤、青、黄色のストライプの袋には小さな石のペンダントが入っていた。

「これは?」

「煙水晶といって癒し効果があるし、不安をなくすらしいです」

「へえ、きれいな石ですね。いただいていいのでしょうか」

「ええ、そのつもりで買ってきましたから。受け取ってください」

 掌に載せるとその石はグレーに光り、暖かくなるような気がした。


 あれから、四十五年余り。

「おーい、母さん」

「はーい、どうしたの」

「息子たちがやって来たぞ」

 階段の下から息子が顔をのぞかせる。

「元気だった? 敦夫も大学合格したから連れてきたよ」

「おばあちゃん、こんにちは」

 合格通知を見せてくれた。橋田敦夫と書いている。

 そう、今は孫もいる。


 あの時にもらった煙水晶は、スモーキークォーツとしゃれた横文字で今はいうそうだ。

 銀婚式の時に、あのペンダントはデザインを変えてもらった。今も胸に飾っている。


 この調子で金婚式も一緒に迎えたい。いえ、ダイアモンド婚まで頑張ってね。

 

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