第1話 プロローグ
学園から帰宅した俺は、上着を脱ぎ捨て、うざったい前髪をオールバックにセットし、思考を仕事モードに切り替えた。そしていつものように書斎にこもって日本の株価や海外の市場をチェックしていると、電話が鳴った。
『お忙しいところ申し訳ありません、若様』
電話ごしに稟とした声が響く。彼女――鈴原美咲は俺の側近であり、俺に代わって会社を幾つも経営する代理人でもある。
「構わん。用件を言え」
『はい。我が社が保有する河島物産の株式についてですが、本日付で全ての売却を完了いたしました』
「分かった。で、ショート(空売り)の方はどうなっている?」
『ダミー会社や個人名義の信用取引口座で当局の疑いを持たれない程度に仕掛けております』
「まだいけそうか?」
『……いえ。これ以上の仕掛けは我々が引き金になる恐れがあります』
――矢面に立つのは俺たちではない。いい判断だ。
「では、火種は俺が用意するとしよう。買い戻しの判断はお前に任せる」
『御意』
「用件はそれだけか?」
『はい。若様の貴重なお時間を割いてしまい申し訳――』
『いいから社長を出せって言ってんだよ! 俺を誰だと思ってんだ!』
突然、電話の向こうから男の怒声が響き渡った。
『……若様、失礼いたします』
「切らなくていい。何があった?」
『……どうやら黒川興業の社長が強引に乗り込んで来たようです。先日、我が社が買収したホテルとクラブの件について話がしたい、と」
なるほど、黒川興業か。
いずれやって来るとは思ったが、存外早かったな。
まあ、自分の手足を食われてることに気づかない薄鈍では俺としても潰し甲斐が無い。
「丁度いい、電話を代われ。俺が相手してやろう」
『……御意』
一拍おいてすぐに怒気を含んだ中年の声が返ってきた。
『黒川だ! てめえはいったい――』
「東雲千明です。以後、お見知りおきを」
『東雲千明…………』
男の声がしぼんでいく。
『……そうか。お前が東雲商事の代表か。エスティー・アセット・マネジメントというのは――』
「ええ、私が新規に立ち上げた東雲商事傘下の投資ファンドです。ご報告が遅くなり申し訳ありません」
東雲商事は警察庁から指定を受ける広域暴力団・赤城連合系であり、俺は学生でいながらその最高幹部の一人だ。
警察の頂上壊滅作戦に遭って以後、ヤクザが暴力で覇権を争う時代ではなくなった。
崩壊しかけた全国の暴力団は、共存平和路線をとって、表看板を合法に切り替えた。
そこで赤城連合の先頭に立って裏社会から表社会への転換を図ったのが東雲商事である。
『……まあいい。東雲商事の子会社なら話は早い。そっちが勝手に食ったウチの縄張りについて、どう落とし前つけてくれるんだ?』
「落とし前とは、穏やかではありませんね」
合法とはいえ、東雲商事は赤城連合のれっきとした舎弟企業だ。連合は東雲商事を筆頭に、金融、不動産、建設、風俗営業、それにホテルやアミューズメントパーク、ゴルフ場などにも委託営業している。
年商の総計は巨大財閥にも匹敵するはずだ。
『中央区にあるクラブとホテル。あそこはウチが独占でやっていたはずだがな?』
だが、たまに連合の中でも商業圏――連中はシマと呼ぶが、ぶつかり合うこともあって、今みたいに強面が怒鳴りつけてくることがある。
マーケットのシェア争いなんて、ビジネスでは当たり前のはずなのに、古臭い考えのヤクザは落とし前をつけろと言う。
「申し訳ありませんが、件のホテルとクラブが御社の独占マーケットだという認識はありませんでした」
『馬鹿野郎! あそこはウチがもう二十年もケツ持ってんだよ! 知らねえわけねえだろうが!』
ああ、当然知っているさ。あのホテルとクラブが、あんたのところの営業収入のなかでも、大きな比重を占めているってこともな。
「多年に渡る固定取引先だとしても、この世に変わらぬものなどないのです。そんなものがあれば、別れる男女などいないはずでしょう?」
『……なんだと?』
向こうの息が荒くなった。
「黒川さん、あなたは何か勘違いされていらっしゃいませんか。今回の一件は御社のマーケットが荒らされたのではなく、我々のマーケットが拡大しただけのことなのです。いわば我々の営業努力が御社より勝っていたというだけであって、これは正当な企業活動です。ビジネスシェアを獲得したりエントリーするのに挨拶や名乗りを上げる必要がありますか?」
そのとき、電話の向こうで何か物が壊れる音がした。おおかた、ガキに舐められて腹が立ったから、机でも蹴飛ばしたのだろう。
『おい、小僧。ウチだって赤城連合のフロント企業なんだよ。いわばウチと東雲商事は兄弟みてえなもんだ』
「それで?」
『ふざけんな! 兄弟のシマ食い荒らすような真似しやがって。てめえ、筋者の息子のくせして仁義ってもんを知らねえのか!?』
「私は、杯を受けているわけではありませんので」
それに、親父は俺に仁義など教えなかった。親父から教わったのは、電話の向こうのマヌケのように、弱みを見せた獲物を喰らう姿勢だ。
「ところで話は変わりますが、おたくの会社はずいぶんと儲けていらっしゃるようですね」
『ああっ!?』
「不正を働いていらっしゃるのでしょう?」
『てめえ、言葉には気をつけろよ、どこにそんな証拠があがってんだ』
「少しおたくの企業活動を調べさせてもらいました。所得隠蔽のための裏取引の契約書や、架空名義預金がかなりあるようですが、これを警察に届ければ面白いことになるでしょうね」
『……でたらめを抜かすな!』
そのとき、俺は獲物がひるんだ気配を見逃さなかった。
「今からその調査リポートをファックスでお送りしましょうか?」
相手の顔が蒼白になるのが目に浮かぶ。
『お、脅す気か?』
「とんでもありません。私はあくまで正常かつ合法的な商談がしたいだけなのです。今回は中央区のホテルとクラブについて、御社の理解が得られればそれだけで幸いです」
『……っ!』
屈辱を押し殺したうめき声が返ってきた。止めを刺した手応えがあった。
証拠はこっちが握っている。あとは、骨の髄まで絞りつくしてやればいい。
「それでは、今後ともよろしくお願いいたします」
電話を置くと、俺は名簿をチェックして、すぐにまた電話をつかむ。
「東雲です、お世話になっております。例の河島物産の手形についてお電話したのですが――」
親父の跡を継いでから、俺はずっとこんな毎日を過ごしている。
「――ええ、決算書は拝見しましたよ。ただ、あれは……」
俺の指図で、巨額の金が動く。学生の身分に過ぎない俺の判断で、会社が潰れたり人が不幸になったりする。
来月にはまた何人かの人間が、首を吊ることになるだろう。
「一般に企業というものは三枚の決算書を用意するものです――」
俺が短い人生で唯一学んだことはといえば、金だけは絶対ということだ。
「一枚は株主用、一枚は銀行用、そしてもう一枚は取引先です。それぞれ書かれている内容に差があるのは、おわかりでしょう?」
皆、金のために生きているから、金に振り回される。
「――そうですね。私が思うに、あの会社にはもう体力がないんでしょう。ええ……ええ……」
金の前では、年齢も性別も職業も関係ない。
「いえいえ、こんな助言でよかったらいくらでも。では失礼いたします」
誰もが俺を恐れ、敬う。
――だが、まだ足りない。
もっと力が欲しい。
今は東雲商事だけだが、そのうち連合全体も飲み込んでやる。そうすれば、表の社会――いや、世界に影響を与えることができる。
政治屋も大企業の取締役も各界の著名人も俺の前に跪く。
俺が欲しいのは、闇の黒幕としての地位だ。