第7話 騎士と蛙、その差はあまりに遠く
「……ッ!」
床に落ちた愛剣を拾い、全力で地面を蹴る。
視界に映る景色は徐々に横向きに延伸し、光の速さで後方へと流れていく。
激情で視界に火花が散る中、俺はヨナスの首に焦点を絞った。
(――なんでお前なんだ)
心臓の底で修羅が疼く。
クラウディアに決闘を断られたあの時。初めは卑賎意識から来た差別だと思った。
その後、彼女の説明で納得した。
……俺は『精霊騎士』ではない。
だから俺は、クラウディアと決闘が行えなかった。
純然たるルールによって闘えないというのなら、是非もない。そう自分を律することができた。
でも、今はダメだ。
腸が煮えくり返って自分を制御しきれない…………否、制御する気なんて毛頭なかった。
――ヨナス・アルストマ。
この男だけは赦してはならない。
なぜだ。なぜなんだ。
精霊や亜人を金のなる下等生物と見下し、精霊決闘にかける誇りもなく、人を踏みつけて嘲るだけの男が、なぜ平然とあの闘技場に立つことができるんだ。
自分には、あいつと闘う権利さえないというのに……なんで。
「――――なんでアンタみたいなクズが、あいつの前に立てるんだ!!!」
飛び込み斬りの間合いに入った。
高速戦闘なら脚に自信のある俺に分がある。しかも俺のことを嘗めているのか、奴は鎧を身に着けていなかった。
確かに奴の風属性魔法は脅威だ。
しかし、その分発動までに若干のタイムラグがある……その致命的なデメリットを、精霊決闘マニアである俺は知っていた。
行ける。勝てる。
尚早にそう思い込んだ俺は、さらに加速しようと地面に足を着けた。
……気が緩んでいたのだろう。
ヨナスが張った抜かりのない罠を、俺は見落としてしまっていた。
「――《急転直下》」
それは転瞬の間の内に起動し、完結した。
突如として天井から撃ち下ろされたのは、目に見えぬ突風の一塊。
揺れもなく音もなく、巨人が鉄槌を振るったかのように暴力的な風は、無感情に目下の獲物を轢き倒した。
意表を突かれた俺は、無様に地面へと叩き落とされる。
「カッ……ハ!」
しまった。迂闊だった。
今のは中級魔法、《急転直下》。
数年前までヨナスが多用していた、風属性魔法の一つだ。
魔法そのものを空間に設置しておけるのが特徴で、その隙のなさと感知のし辛さから、公式戦で相手方から忌み嫌われた話はあまりに有名。
要はこの魔法、『敵を自動で仕留めるトラップ』なのである。
ここ一年で対策が練られ、詠唱する暇を与えさせなければいいと結論付けられたはずのこの魔法。
……しかし、どうやら俺が見習い剣士たちを斬り伏せる間、密かにストックしていたらしい。
おかげで俺は、もろに攻撃を喰らってしまった。
(――まずいまずいまずいまずい!)
胸から地面に叩きつけられたせいで、まともに息ができない。肋骨は折れていないようだが内臓が割れそうに痛かった。
神経から伝わる電気信号も混線中なのか、両腕がガンガンと痺れてしまっている。
……でも、弱音を吐いている時間はない。
早く体勢を立て直さないと、その隙にあの男が斬りかかってくる。
クラウディアに敗北した人間とはいえ、こいつだって化け物揃いの二部リーグ登録者だ。
そんな男の斬撃を防御姿勢も取らずに喰らおうものなら、戦闘義体を持たない俺は確実に死ぬ。
「ク……ッソォ!」
霞んだ視界の中、俺はなんとか膝を立てた。
――急げ急げ急げ!
全身の細胞が命の危機を一斉に報せている。
すぐそこまで殺気が来ているのが、皮膚感覚だけでわかった。
ふらつきながらも剣を構え、直感的に歯を食いしばる。
地面が揺れ、身体中から嫌な汗が噴き出し、己の旗色は最悪な方向へと染まっていく。
この勝負、気後れした俺が勝てるはずもなかった。
……次の瞬間。
奴の堅い斬撃が、俺の身体を捉えた。
♦️
…………離れた場所で、男二人が話をしている。
どうやら、今後の俺の処遇について話し合っているらしい。
奴隷売買に何の抵抗もない彼らは、淡々と言葉を交わしていく。
「――では、ここらで私は失礼させていただきます」
やがて、話がまとまったのだろう。
此の場に用がなくなったヤギ紳士は、取引相手に向かって仰々しく腰を折る。
「今後とも我々、《滑稽な配達人》をどうぞご贔屓に」
「あぁ……そうさせてもらおう」
「それでは、またのご利用をお待ちしております――――」
別れの礼を尽くしたヤギ紳士は、俺に背を向けて柱の向こうへと消えていく。
地下施設からの去り際。
ふと何を思ったのか、彼は俺の方を見た。
ヤギ皮を被っているから、どんな表情をしていたのか窺い知ることはできない。
だが。彼はその皮の下で薄っすら笑っていた、ような気がする。
「…………今のあなたに価値はないが、未来は誰にも分からない。
道化である我々にとっても、あなたは大事な商品になり得るのです」
最後に、彼はこう言った。
「――――栄えある旅路を期待していますよ、イオリ・ミカゲ君」
やがて、ヤギ紳士はいなくなった。
この地下空間で意識があるのは、俺とヨナスの二人きり。
石棺に情けなく寄りかかった俺は、無気力にヨナスの声を聞いていた。
「まったく、手間をかけさせてくれたな」
「……」
「蝿を食らって生きる下民が、何度も何度も立ちあがりおって。溝鼠より質が悪い」
水中にいるかのように、音が鼓膜で堰き止められる。
世界から自分だけが隔絶され、俺の脳は孤独の闇に覆われていく。
……意識が途切れそうだ。
(やっぱり、無謀だったか…………)
口内で広がるのは、苦味のある血泡。
その舌触りに吐き気を催しながら、俺は他人事みたいな感想を抱いた。
あれから闘いは、ヨナスの一方的な展開になった。
風属性の中級魔法を幾度となく撃たれた。闘牛並みの突進を何度も食らった。
付け焼刃の防御は嵐前の笹葉ほどにも意味を成さず、最後は例のオブジェに叩き付けられた。
身体中がボロボロだった。
ヒビの入った鎖骨付近は紫色に腫れ上がり、左手は筋紡錘の損傷が激しいのか痙攣させるので精一杯。
鉛玉のような突風を受けすぎたせいで腹も背も打撲だらけ。
そこに斬撃による裂傷が大小合わせて無数にあるため、古着から滲み出した血液は俺の周りに赤黒い池を作る。
(……棺に巻き付いた鎖を斬って、ヨナスに喧嘩を吹っ掛けて……結局、何も成し遂げられなかった…………)
視界がぼやけてきた。
血を流し過ぎたのか、精神を摩耗したのか、視界の端では人型の幻影がちらつき始めている。
体力的にいよいよ駄目そうだ。開けた薄目を閉じることさえできない。
数分後にはもう、俺は死んでいるのだろう。
例えトドメを刺されなくても、俺は亜人だ。
金稼ぎにご執心なヨナスからすれば、俺の身体は金塊みたいなもの。その手の研究者に実験用個体として売られれば、死よりも残酷な未来が待っているのは容易に想像できる。
そうだ。
俺の人生はここで終わるのだ。
(……せめて、これに入ってる精霊だけでも逃がしたかったけど……無理そうだな)
オブジェは何も語らなかった。
戦死者への鎮魂歌が彫られているわけでもなければ、新世界への旅立ちを祝福する装飾が施されているわけでもない。
冷たい乳白色の巌は素地ならではの美しさを保ち、それはただ泰然と座しているのみ。
縛られる物のない真四角の石棺は、汚い俺の血を浴びてもなお無言だった。
本当に、この石箱には精霊が封じられているのだろうか。
ひょっとしたら繋ぎ目一つ見当たらないこのオブジェは、商人野郎が用意したパチモンなんじゃなかろうか。
そうだとしたら滑稽な話だ。
――俺がヨナスに失望させられたのと同じく、ヨナスもこれから商人に失望させられるのだから。
(……試してみるか)
どうせここで終わる命だ。
だったら最後に、この石棺に精霊がいるのか確かめてみよう。
そう思い立った俺は、精霊と契約するべく呪文を唱え始める。
♦️
「…………『我が声を聴く者。我が意を汲む者。我が命運を知る者。汝に問う――』」
うろ覚えの呪文だ。喉も十分に開かない。それでも唇を動かした。
精霊契約の詠唱を、俺は続ける。
「『――汝、穢れし人界に立つことを諾すか。汝、服わぬ愚者に力を添えるか。此の問いに応じるならば、汝の本旨を我が手に告げよ――』」
ダメもとの詠唱だ。応答があるはずがない。
誰もいない空間へ差し出したカエルの手に、触れる変人なんていないのだ。
……でも、なぜだろう。
いつの間にか俺の胸中には、ある得体の知れない期待が芽生えていた。
多分、視界の端で白い何かが動いたのが見えたせいだ。
地震で土砂崩れが起きた時のような振動も、地面を伝って確かに感じた。
まさか石棺の蓋でも開いたのか。
今のが幻覚だったのかどうか、憔悴しきった今の俺では判別できない。
ただもしも、石棺から精霊が解放されたのであれば、俺の目的は半分達成できたことになる。
あとは精霊が逃げおおせるのを祈るだけ。
薄紙を重ねられていくかのように、ゆっくりと視界は暗くなっていく。
…………すると。
「『――汝の心に悪計なし。ゆえに慈恵を持って、我は其の手に応じよう』」
「……!?」
そっと、左手を握られたような気がした。
驚きのあまり蘇生に成功した俺は、最後の力を振り絞って小さく瞼を引き上げる。
隣に誰かが立っているのが見えた。
これは……女性か?
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