第78話 新たなる一歩
ヨナスが去り、バーラウンジには温かな静寂が戻ってきた。
話し相手を失った私は、ただ一人カウンターにて酒を愉しむことにする。
ミックスナッツを幾つか摘んだところへ、爽やかなモヒートを一口。魂が洗われるような刺激を感じながら、私は遠方にいるであろう少年少女に思いを馳せた。
蛙の亜人と人型の精霊。
本来出逢うはずがなかった二人は、これから先どんな未来を描くのか。
希望に満ち溢れた新世界を見てほしい。
そう私は切に願った。
(――君たちのおかげで、私も前に進むことができそうだ。
ありがとう、二人とも)
残り少なくなった酒を、私は一気に飲み込む。
すると、液体が口内全体に行きわたった途端、なぜだか左の頬が痛んだ気がした。虫歯でもなければ腫物でもなさそうだ。ということは、幻覚だろうか。
そこで気付く。
イオリ君に殴られた箇所は、まさにこの左頬だったのだ。
「…………殴られてみるものだな、たまには」
今回の決闘を経て、私は新たな価値観を学んだ。
地面に根を張った足は動き出し、世界への興味を取り戻した。
景色を観ているばかりでは、結局何も知ることができない。
そう彼は教えてくれた。
ならば。
私は精霊騎士として、君が憧れるヒーローであり続けよう。
貴族としての務めを果たし、理想を追う君に道を指し示そう。
君たちが起こす奇蹟がいずれ、私の夢をも叶える道標となる。
犠牲を払わずに皆を幸せにする、そんな机上論も実現できるようになる――そう直感していた。
♦
時間は静かに過ぎていった。
年季の入った土壁を蜘蛛が這い、グラスの氷は角の先から徐々に溶けていく。もう闘技場内にいるのは、警備員や清掃員くらいなものだろう。
これ以上の滞在は、誰にとっても迷惑だ。
バーテンダーに一言挨拶をしたかったが、帰って来ないのならば仕方ない。
少々多めにチップを置いて、私は席から立ち上がる。
と、その時。
「もし。お客様」
「何か?」
「ご友人を名乗る方から、これをお渡しにするように頼まれたのですが……」
いつの間にか、カウンター内にはバーテンダーの姿があった。
外食から戻って来たのだろう。チェックシャツに眼鏡を合わせた彼は、皺の刻まれた渋い顔で何かを渡してくる。
それは一枚の萎びた紙。
手帳の切れ端だろうか。植物の繊維で製造されたそれは、小さく四つに折り込まれている。
何とはなしに広げてみると、そこには見慣れない筆跡が残されていた。相当興奮して書いたのか、ミミズがのたくったように字形は崩れている。
目を凝らして、私をそれを読んでみる。
記されていたのは、たった一文だけだった。
「――――『プレゼントありがとう、アンタの期待は必ず越える!!』、か」
最高の返答を貰い、私は密かに胸を躍らせる。
未来の種が、希望を持って芽吹こうとしていた。理想という実を結ぼうと、ただひたすらに上を向いていた。
成長を続ける彼らは、着実に私の後ろに迫りつつある。
足音はまだ聞こえてこないが、いつか必ず私を抜き去りに来るのだ。そんな確信が私にはあった。
であれば、私もまた頂に向かって歩を進めることにしよう。
かつて天才と呼ばれた者として、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。
さぁ…………休息は終わりだ。
「確かに紙は受け取った。わざわざ手を煩わせてしまったね」
コート裏のポケットに紙をしまい、私はバーテンダーに会釈した。
「長居して済まない。また、貴方のカクテルを飲みに来るよ」
バーテンダーは控えめに首を横に振る。
「お気になさらず。お客様に安らぎの空間を提供するのが、我々の務めですから」
「――まさか、私を一人にしてくれたのも貴方の図らいで?」
「誰であれ、思索に耽りたい時はあるものです。なので、これは……デビュー当時より貴方がたを応援する、我々なりのサービスですよ」
「そうか――――いつも見守ってくれて、ありがとう」
ご馳走さま。
それだけ伝えると、私は帰路に就くことにした。
足元にはパズルのように木目の揃った、情緒を感じさせるフローリング。カウンター上のラックスペースには、一種のアートのように有名銘柄のボトル類が陳列されていた。
いずれも、自分が座っていた席からは見えなかった景色である。
やがて私は、アーチ状の出口の前に立った。
サムラッチ式のドアノブに手を掛ける。
「……」
深呼吸を挟み、ゆっくりと扉を開けた。
冷涼な秋夜の空気は優し気に肌を撫ぜ、私を星空の下へと誘っている。
迎えの馬車を呼ぶつもりだったが、今日くらいは歩いて帰るのも面白そうだ。待たせていた従者には休みを取らせ、自由気ままに遠回りでもしてみよう。
また何か、新たな価値観を見つけられるかもしれない。
今現在に限り。私の心は、十歳頃の少年時代に立ち戻っていた。
…………そして。
まだ見ぬ夜の世界へ、私は一歩足を踏み出した。
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