第77話 ラウンジにて
カランッ、と氷がグラスに当たった。
透明な液面は小さく波打ち、ミントの葉は瑞々しく揺蕩う。
闘技場内部に設けられたラウンジスペース。
バーカウンターの一角にて私は……ローラン・トリルバットは独りグラスを傾けていた。
「……」
モヒートの入ったグラスへ、静かに口を付ける。
軽快な口当たりのホワイトラムは、朝摘みミントの爽やかな香りによくマッチしていた。ライムの果汁も良いアクセントとなっていて、何度呑んでも飽きが来ない味わいだ。
心地よい甘味と苦味に酔いながら、私はグラスの中を覗いてみる。
魔法によって作られた純度百パーセントの氷が、物言わずに重なり合っていた。
「……今日も来ない、か」
灯光石の橙晄がノスタルジックに室内を照らす中、私はそう独り言を漏らした。
吞み始めて、どれくらい時間が経ったのだろうか。ウェスタを屋敷に帰してからというもの、このラウンジを訪れたのは未だに私一人だけだ。
それもそうか。
今頃外は、記念式典の後夜祭で盛り上がっている。このような陰気な場所に、わざわざ来る理由がない。初老のバーテンダーも、食事の為についさっき休憩に出て行ってしまった。
正味な話、私自身もここに居るはっきりとした理由はない。
ただ、背後にある入口から知り合いが現れないかと、勝手に期待しているだけだ。
己の浅はかさに笑気を覚えつつ、また私は酒を飲んだ。
すると。
「――いつまで、背中を丸めているつもりだ?」
「……?」
ふいに声を掛けられ、何気なく後ろを振り返る。
入り口付近の暗闇に紛れて立つのは、死神のように生気のない顔をした男だった。
その顔をよく知っていた私は、僅かに宙を踏むような感覚を得る。
「…………ここに来るとは珍しいね」
目元を緩め、私は言った。
「何年振りかな、こうして話すのは?」
♦
来客の正体は、旧友のヨナスだった。
ふん、と鼻を鳴らす様子を見るに、かなり不機嫌になっているらしい。
軽侮するように顎を上げ、彼はせせら笑っていた。
「無様だな。天より賜った《あの霊剣》を引き出していれば、楽に勝てた試合であっただろうに――大衆に恥を晒した気分はどうだ、嬉しいか悲しいか?」
「それは君も同じだろう?
ドクター・ラムに事件処理を一任していたとはいえ、地下での一戦については騎士の間でも広まっている…………我々は、あの二人の絆に敗れたのさ」
「私は負けてなどいない。
あのヤブ医者さえ乱入しなければ、万事うまく行っていた。あの忌々しいカエルの皮を剥ぎ、銅銭に変えることもできたのだ――」
殺気を込めて、ヨナスは小さく舌打ちをする。
「……人型の精霊も失って、裏のルートも押さえられた。一匹のクソ亜人のおかげで、今期の決算は大赤字だ」
愚痴をこぼすヨナスが、カウンターに座ることはなかった。その場から半歩も動かず、じっと私を見ていた。
酒を飲む気はなく、長話をする気もない。
そんな確固たる信念が垣間見える態度だ。どうやら二年前に犯した私の罪を、彼は爪の先ほどにも赦していない様子だ。
……厳しい性格の彼らしかった。
「これからも、裏社会での交易は続けるのか?」
グラスを回して、私は訊ねる。
癇を昂らせたように、彼は歯を浮かせて言った。
「嫌味な言い方をするな。『人身売買は悪』、とでも?」
「あぁ」
「では問おう。
――命を買うことの、いったい何処が問題だというのだ」
嘲るような口調で、彼は語る。
「我々貴族が統治するこの社会で、個人は才能や人脈といった『価値』によって選別されている。
低価値な人間は、糞便汲みで一日を終え…………高価値な人間は、髭面のバカを一時間相手にするだけでぼろ儲け。それが現実だ」
「……」
「無意識のうちに他人に価値を付け、見限り、利用しようとするのが現代人の偽善よ。
辺りを見てみろ。銘家は小間使いに飯を食わせているものと思い込み、庶民はどんなものでも賭博の対象にする。この常識が覆されたことはない。
わかるだろう…………『格差』が、社会を回すのだ」
私は黙って傍聴していた。彼の考えを知っておきたかった。
そして、理解した。
きっと彼は、自身の価値を見失ってしまったのだろう。
だから、人に価値を付けることで己の存在価値を補強しようとしている。
自分の弱さを前にして二年。今もヨナスは、暗雲垂れ込める挫折感に溺れていた。
死んだ魚のような目で語る彼は、最後にこう締めくくる。
「――奴隷の売買が、亜人に奴隷という価値を与える行為だけが、なぜ罪としてやり玉に挙げられるのか。この盛大な矛盾に、愚かな民たちは気付きもせんよ。
創造主でさえ、我々人間を傀儡にしてきたという事実には」
「……っ!」
あれほどまでに宗教を重んじていたヨナスが、神をジョークに使うという珍事。
ただならぬ心境の変化を迎える彼に、思わず私は確認した。
「…………それが、君の本音なのか?」
「さて。どうだろうな」
鬱憤を吐き出して、気が晴れたのだろうか。
さらりと答えをはぐらかしたヨナスは、この場から消えようと足を返した。その際にも灯りの下へは一切出ようとはしない。影よりも濃い紺のコートを翻し、彼は入口の方へと歩いていく。
去り際。
別れの挨拶代わりに足を止めると、彼はこんなことを言った。
「――私は主の救済を信じている。
ゆえに愚者共に価値を付け続ける。くだらない善導を広めるより、そちらの方が遥かに有意義だ。
悪と断じたければ、好きにすればいい…………貴様のような偽善者に、私を理解してもらおうとは思わん」
「……そうか」
おそらくヨナスは、ここに宣戦布告をしに来たのだろう。背を向け合った私たちが、再び交友関係を結ぶことは有り得ない。
今日この場を持って、私たちの縁は切れる。
私は灯光石に照らされたバーラウンジに座り、彼は薄暗闇の中に立っていた。
この対比において、『正しい』のはどちらか。『上』に当たるのはどちらか。今の私にはトンと見当もつかない事象であった。
ゆえに私は、今この瞬間だけ、正しさを捨てることにした。
罪は二度と繰り返さない。
彼を救えなかった過去を払うためには、ここで啖呵を切るしかないのだ。
♦
「でも、安心してくれ――いつか私が、君の悪事を止めてみせる。この手で、必ず」
傲慢な物言いだと自分でも思う。
だが、未来予測でもしていたのか。顔色一つ変えることなく、ヨナスは言った。
「ぬかすな。貴様には、もう何も期待していない。私は私の信じる道を貫くのみだ。
次こそは『鍵』を手に入れ、『真実を語る者』が見た理想郷を築く。新世界を創造するためならば、この身をも捧げるつもりだ。
…………手を汚せない貴様如きでは、この私は止められんよ」
直後、鋭い眼光が私の目を刺してきた。覇気のある光だ。久方ぶりに見る彼の表情に、私はごくりと唾を呑む。
しかし、不思議と惧れはなかった。相手を否定する、その覚悟が出来ていたせいだろう。
だから私は、こう言葉を投げかける。
「――――なら、殴ってでも止めてみせるさ」
「ふん。道を見失った半端者が、よくほざく」
ややクサい台詞だったかもしれない。
私の言葉を鼻で嗤うと、ヨナスは入口の奥へと消えていった。
気紛れに、たった一粒の期待心を残して。
「…………二言は許さんぞ」
お読みいただき、ありがとうございました!
「面白い!」「続きに期待!」と思ってくださった方は、ぜひブックマークや★評価をよろしくお願い致します!
執筆のモチベーションに繋がりますので、どうか!
これからも応援のほど、何卒よろしくお願いします!!