第66話 炎帝の回顧(後編)
――貴様も味わったか。
二年後。
闘技場のフィールド中心にて、ヨナスはそう声を掛けてきた。
彼が何を言わんとしているかは、すぐに理解できた。
救難信号を出したあの時から、彼はこの絶望を抱えて「貴族」という役割を演じてきたのだ。
おそらくその時の私は、死んだ魚のような眼をしていただろう。
町民の期待を裏切ったと思い込んだ私に、夢も希望もありはしなかった。領地の管理業務は、なるべく感情を殺し、ローリスクで現実的なプランを組み立てるよう努めていた。
少数であれば、犠牲は厭わなかった。
――踏み台のことなど気にするな。生け贄を捧げねば、主は恵みを授けぬものだ。
ヨナスのやつれ具合は、さながら死神のようだった。
無理もない。
その年のリーグ戦において、彼の戦績は三勝七敗。前々から伸び悩んでいる節はあったが、ここまで彼が白星を落とすとは誰も予想していなかった。
ネガティブになって当然だ。
それだけに、業界では様々な憶測を呼んだ。
ヨナスは人身売買に手を染めた。占い師に洗脳されたから剣に身が入らないのだ。
根も葉もない噂が、ギャラリーの間を飛び交う日々。そんな環境に晒されれば、頬がこけるのも当然だ。
対して、私は絶好調のままシーズン後半戦へと臨んでいた。
あと一勝すれば、リーグ昇格権争いにも食い込めるという戦績だ。このチャンス、確実にモノにしたい。そう思っていた。
だが、試合開始の間際。
ヨナスが零したある一言で、私の視界はぐらりと歪んだ。
「――――結局、理想を叶えるには犠牲は付きもので……私も、その一人なのだろうな」
♦
半刻後。
その決闘は、ヨナスの勝利に終わった。
手を抜いたつもりはなかった。
だが、心の何処かで「自分が負けてしまえばいい」と願ったのもまた事実。この一勝を機に、ライバルである彼には再起して欲しかったのだ。
決闘の終了時、ヨナスは眼を見開いてこちらを見ていた。
まるで崖を上る途中、頼りにしていた命綱を目の前で切られたかのような、そんな落莫とした面持ちだった。
もし観客席に人が居なければ、ヨナスは私に斬りかかって来ていたことだろう。
青白い彼の手は、怒りでブルブルと震えていた。
それ以降。
私は彼と一切の言葉を交わさなくなった。
決闘終了後に、毎回バーラウンジに向かっても、そこに彼の姿はない。
また、私は判断を間違えたのだ。
♦
すべてが苦痛だった。
町民たちからの期待も、弟子から向けられる尊敬の眼差しも、私の足を重くする枷でしかなかった。
やがて動きは鈍り、足元ばかりを見て、私はその場に立ち止まる。
何かする度に称賛を浴びていた私は、いよいよ自分から行動を起こさなくなった。貴族として最低限の業務はこなすが、他人の人生に関わるような発言は慎んだ。
多くの責任を背負う者として、安全な道を通るべきだと思った。しかし、それは自己欺瞞でしかなかった。
実際は、自分が傷つきたくなかっただけだ。
誰かを救いたくて踏み出した一歩で、また別の誰かを踏みつけてしまうかもしれないと、残酷な現実を恐れただけだ。
……本当は、皆を幸せにしたかった。
農家も、商売人も、奴隷も、富豪も。この世に生きる者すべてに希望を与える存在でありたかった。
そのために才能を磨き、知識を身に着け、トリルバット家の当主という役を演じ続けてきたはずだった。
だというのに。いったい、何処で間違えたのだろう。
もはや私は、正しい判断を下すことよりも、「間違えないこと」を優先する人間になっていた。情けない男に成り果てた、と自分でも思う。
そして、二十四歳となったある日。
ヨナスが人身売買専用の闇ルートを運営している、という情報を私は耳にした。
ついに彼は、人道を外れてしまったのである。
どうにかして、彼の悪事を止めようと思った。
だが、確実な方法が思いつかない。決闘にて八百長まで行うようになった彼を、正気に戻せる自信がなかった。
上を目指すことを諦めたヨナスのことを、責める気にはならない。理想の壁の前で挫けたのは、私もまた同じなのだ。人道から足を踏み外す可能性は、私にも十分あった。
せめて、裏の商品リストに載っている精霊だけでも救おうと思った。
だが、世界を守る気など一片もなかった。
人型の精霊という特別な商品を買い付ければ、もう一度ヨナスと話ができると思った。そのために私は、『鍵』と呼ばれた精霊の管理を申し出た。
……企みは水泡に帰した。
数度書簡を交わしただけで、取引が完了してしまったのだ。
書面からは頑として私と話すまいとする、ヨナスの固い意志が感じ取れた。
手元には、彼の怪しい儀式の片棒を担いだ事実だけが残った。
♦
結末を覆そうとは思わなかった。
この現実こそが正しいのだ、と思い込んだ。
何もかもが噛み合わない世界で、今日も私は「理解ある貴族」を演じている。
その中身はただの無知蒙昧な愚者だというのに、誰もその事実に気付かない。
いつも思う。
「正しさ」とは何なのだろうか。存在するのだろうか、と。
その真理さえ知っていたのなら、私は皆を救えたのだろう。犠牲を払うことに胸を痛めることもなかったのだろう。
唯一無二の親友を失うこともなかった。人の道に背いてしまった彼を、この手で引き留めることもできたはずだ。
……教えてくれ、ヨナス。
あの時、あの決闘で、私はどう動くのが正解だった。
――――私は君に、いったい何と声をかければよかったんだ?
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