第51話 そして真の夜が来る
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風呂から上がったばかりなのだろう。
この安宿でも最上級の綿製タオルで、彼女は濡れた頭を拭いていた。
とんとんっと髪を挟むたび、仄かに石鹸の香りが辺りに散っていく。
布の隙間から溢れたその髪は、滑らかなうえ銀の艶を放っていて華憐。
火照った顔に憂いはなく、代わりに額や首下に薄っすらと汗をかいている。
宿屋のフロントで借りた女性用の寝間着は、野に咲くスイートピーのような淡桃色をしていて可愛らしい。
また、留め忘れた第一ボタンの付近からは、無防備となった胸の谷間が垣間見えている。
そんな風に悪気なく服装を乱したリリは、肌触りの良い袖を弄りながら言った。
「なんで、まだ寝てないの。明日のお昼なんでしょ、決闘がある日ってさ」
頭ごなしに非難するような口調だった。
ぶすっと下唇を突き出して、俺は言い返す。
「その決闘の対策を練ってるんだよ。ローラン卿の闘い方を研究してんだ、こっちは」
「呆れた!
テスト前の子供じゃあるまいし、休むときはちゃんと休みなよ!」
「わかってるよ…………鶏が啼く前までには寝るつもりだ」
「――それ、ほとんど明け方じゃん!」
「……というか、お前は今まで何処行ってたんだよ」
圧されっぱなしの状況も癪なので、今度は俺の方から質問した。
「下の階が騒がしかったが、なんかあったのか?」
するとなぜか、リリはピースサインを見せてきた。
嬉しそうに、彼女は語る。
「それがさ、宿屋のおじさんがパイを振る舞ってくれたんだよ!」
「パイ?」
「そう、アップルパイ!
二階にいた親族さんへの差し入れだったらしいんだけど、たまたま居合わせた私にも分けてくれてさ!」
「やけにホクホク顔だなとは思ってたけど、そういうわけか。理解したよ」
手帳に目を戻しながら、俺は感想を聞く。
「美味かったか」
「うん。リンゴと蜂蜜のハーモニーが凄かった!」
「そうか。よかったな」
「ハイ! これ、お土産!」
そう言うと、リリは隠し持っていた包みをずいっと手渡してきた。無造作に巻かれた紐を解くと、中に入っていたのは三角形にカットされたパイ。
「……サンキューな」
槍術について書いた項から目を離さず、俺はそれを受け取ってやった。
試しに一口齧ってみると、バターで焼かれた小麦の香ばしさと自然由来の甘味が絶妙に舌を刺激してくる。
なるほど。
リリのテンションが激増するわけだ。
「うん、ウマいな」
「でしょでしょー?」
「なんでお前が自慢げなんだよ」
たった三口で、俺はパイを平らげてしまった。
♦
「……うーわ。にしても凄いメモの量だね」
と、いつの間にか後ろに回り込んでいたリリは、俺の背中越しに手帳を覗いていた。
感心したように、彼女は一文一文に指をさす。
「細かい字……これ、インクで書いてるの?」
「木炭だよ。顔料なんかは高いから、何年も使ってない」
「擦っても字が崩れないなんて、特殊な炭なんだね……紙は羊の皮じゃないんだ」
「それだと製本し辛いからな。家の近くに生えてる木の皮で作ってる」
「――作ってる!?」
何かおかしいことでも言っただろうか。
手の届かない高級品は、自分で作って当たり前だろうに。そう思い、ふとリリの顔を見上げてみる。
魂の底からびっくり仰天している様子で、彼女はこっちを凝視していた。
「…………なんでそういうスキルを、稼ぐ方面で活かさないの?」
「雇ってもらえる会社がないんだよ。起業するにしたって金が要るし、カエルの俺じゃパトロンが付かない」
「なんというか……変なところで器用だよね、キミって」
「親父の方がよっぽど凄かったよ。家も家財道具も、風呂も台所も、全部一人で作ってたからな」
「……親父さん、何者?」
「貧乏家族の大黒柱」
「いや、そういうことじゃなくて――――って! 違うよ!」
ハッと我に返った相棒は、何やら一人で騒いでいた。
付き合いきれないと思った俺は、再びローラン卿戦に向けた戦術の考案作業へと没入していく。
はてさて。
二部リーグの貴族さまに、俺ごときが付け入る隙はあるのかどうか。
素養の足りない頭を更に働かせて、俺は戦術の研究を進めようとした。
が、しかし。
「――――もう勉強は終わりなの! 早くキミは寝なさいってば!!」
そう言うや否や、リリはいきなり俺から手帳を取り上げた。
「あっ、おい!」
思わず、俺は非難する。「何すんだよ!」
当のリリは、真面目な顔で手帳を抱えていた。
奪われないようにするためか、両手でぎっちり隠している。
どういうつもりなのだろうか。
早く理由を述べてほしい。
怒りの念が沸騰寸前の俺に対し、リリは二歩ほど後退して距離を取る。
「言ったはずだよ。キミは早く寝なきゃいけないって」
丁寧な口調で、彼女は語った。
「大事な試合が明日に控えてるんだから。無理をしないことも対策のひとつでしょ?」
リリが言いたいことは、だいたい分かった。
要は、睡眠不足で負けてほしくないということだ。万全の状態で決闘に臨んでほしいということだ。
そこは理解できた。
ただし。
「お前なぁ……明日の決闘は、俺たちの命が掛かってるんだぞ。
生半可な対策じゃ、跳ね返されるだけなんだよ。泣きを見てからじゃ遅いんだ」
「だからって、徹夜すればいいってものでもないでしょ?
一夜漬けしたところで、実力なんて劇的に変わるわけないんだから」
「〇・一パーセントの勝機も逃したくないんだ、俺は」
「休息なしで戦う方が、損をするに決まってるよ」
「まぁ、そうかもしれないけどもだな……」
ぐぬぬ。
痛いところを突かれ、俺は言葉に詰まってしまう。
リリの言う通り、これ以上頭を捻ってもローラン卿の攻略は進まないだろう。
彼の動きについてのイメージトレーニングは出来ているし、対策については脳の端に幾つか浮かんでいる。
それなら疲労を抜くためにも、早めに寝るのも悪くない。
不安なら、朝早く起きればいいだけなのだ。
ここはリリの提案に乗るのが吉、なのだろうか。
「――はい、これ」
「あ、うん」
寝るかどうかを悠長に悩んでいる間に、リリは俺に手帳を返しにきていた。
締まりのない反応をして、俺はボロい手帖を受け取る。
「さ。もう寝よ?」
眠気を誘うように、リリはこちらへ言い聞かせてくる。
「明日は明日の風が吹く、って言うでしょ。休んだ方が得だって、ゼッタイ」
「……わかったよ」
ここまでしつこく主張されては致し方ない。
たまには、リリの変人行動に付きやってやろう。
しぶしぶ折れることにした俺は、手帳を机の上へと置いて、就寝準備を始めていく。
♦
「そうだ。お前、歯磨きはどうした?」
「宿のを借りたよ」
「そうか」
自作の歯ブラシと布で歯を磨き、服を着替え、トイレを済ませて部屋に戻る。
外した手袋は、いつも通りウエストポーチに詰めた。
既にリリは、簡易ベッドの作成に取り組んでいた。
それは邪魔な机や椅子を隅にやり、干し草を詰めた箱を並べるだけの単純作業ではあったが、毛布を掛けるとその見栄えは中々に良い。
セッティングを完了させると、リリは鼻の穴を膨らませた。
「どーよ、この出来は? 一人でやったんだよ、一人で!」
「あぁ、頑張ったな。ありがたく寝させてもらうよ」
「感謝の言葉は要らないよ……なんたって、こっちの箱にはわたしが寝るんだから」
「はい?」
不思議に思う俺。
存在を強調するように、リリは立派な方のベッドをばふばふ叩く。
「――キミはこっち!
羽毛がへたって平べったいけど、元高級な布団でゆっくり疲れを取っちゃって!」
「ちょっと気が進まないな……女子をそんなトコで寝かせるなんて、世間的にアウトだろ」
「いいんだよ、わたしが決めたことなんだから!」
そう言ってこちらの腕を掴んだリリは、そのまま俺を羽毛ベッドへと連行した。
されるがままに、俺は反発力が皆無なマットレスに座らされる。
なぜかリリは満足げだった。
「……なんか悪いな」
こそばゆさを感じた首を、無意識に俺は擦る。
「優遇されるのに慣れてないんだよ、俺って」
「ふふっ、気にしなくていいのに」
目を細めて笑うと、リリは灯光石のある方へと歩いていく。
「明かり、消すね」
装置のスイッチを切ると、灯光石は徐々に光を落していった。
部屋に点在していた影たちは闇に盗まれ、やがて辺りは夜の空気に包まれる。
申し訳程度に注ぐ僅かな月光は、瞼の裏をほんのり青く染める。
ベッドに横になった俺は、右側にある壁に向かって目を瞑っていた。
さっさと寝てしまおうと羊を数えていた。
だが、それも束の間。
何やらモゾモゾと背中側に気配を感じ、すぐに俺は両目を開いた。
いったい誰だろう。他人の入眠を阻害する、不敬な輩は。
こっそり、後ろを確認してみる。
――――リリが布団に潜り込もうとしているのが見えた。