第29話 ある日森のなか、ハサミムシに出会った。
突如、木々が騒めいた。
散った秋草の花弁は風に乗り、細かな紫雪となって原生林の海を泳いでいく。
そこは不気味な空間だった。
樹齢二百年を超えているであろう神秘的なブナや、背の低くてひょろっちいハンノキの若木が密集。
そこから僅かに射した木漏れ日を受けようと、シダ植物の一種が懸命に葉を広げている。
物言わずとも確かに命を燃やしている、そんな気配がそこらじゅうでしている。
生きている森。
活力のある森。
だというのにこの森には、鳥の囀りもなければ、縄張りを見回る獣もいなかった。
土を這う虫の息遣いが聞こえてきそうなほどに、その森は静かだ。
なぜだろうか。
童心に帰ったつもりで考えれば、その理由はわかるはずだ。
大人を前にしたとき。
見たことのない乗り物を目にしたとき。
強烈な感情を振り撒く存在と出会ったとき。
恐怖を覚えた無力な子供たちは、一体どう行動するのか。
逃げる。隠れる。心を殺す。
そして、息を潜める。
それが正解だった。
鳥獣を含む森の動物たちは、皆怖れをなして逃げ出していた。
文字通り尻尾を巻いて、安全が確保されるであろう場所にて事の成り行きを大人しく見守っていた。
では。
動物たちが恐れ戦いたその相手とは、一体どんな生命体なのだろうか。
♦
暗く深い森の中。
今まさに俺は、恐るべき『そいつ』と真っ向から対峙していた。
生唾を飲み、背負った剣の柄に手を掛ける。
「――――うーわー、マジかーい」
俺は弱音を吐いた。
「なんで此処に『魔物』がいるんだよ。闘いたくねぇー……」
そこにいたのは、巨大な蟲だった。
名を『チトゲ・ハサミムシ』。
鎌のように鋭利な牙が二振りに、腐った血肉がこびりついた凶悪な顎。
体長五メートルはあろうかという胴部には、ギラリと尖った無数のトゲ。釘抜きのように持ち上がった尾部は、真っ赤に染まった鋏の形をしている。
足は六本。
眼は四つ。
薄い翅が折り畳まれた甲殻には、黒曜石に似た光沢があった。
クカカカ。
そう奴は鳴いていた。
(近くに他の気配がないってことは……群れからはぐれたのか)
隙を見せればやられる。
そう思った俺は、殺気を放つことで相手を牽制していた。
蟲の複眼は、俺の姿をはっきりと捉えて離さない。
(単独で餌を探している時点で、コイツの習性的に仲間を呼ぶ可能性はない……それに番がいないから、闘争本能はかなり抑えられているはず……!)
静かに剣を抜いた。
鞘を捨てる余裕はない。
切っ先を正中線に構えたいところだが、下手に刺激をして先手を取られると厄介だ。
蟲の眼を睨み、俺は右足を引く。
剣は右側面に開いて構えておく。
手袋の下に掻いた汗が、じっとりと冷たく指に纏わりついてくるのが気持ち悪い。
俺は緊張していた。
一瞬でも気を抜けば、鋏の付いたあの尾で俺の首が飛ぶ。
そんな死を予感させるくらい緊迫した間合いに入る。
互いに睨み合う。
互いに相手の次の動きを予測する。
……また、風が吹いた。
「――――らぁっ!」
「クガィッッ⁉」
蟲の意識が逸れた瞬間を、俺は見逃さなかった。
前に大きく一歩踏み込むと同時に、叩くように剣を下から斬り上げる。
放たれた斬撃は、見事に蟲の顎に命中した。
さすがに硬い殻を纏っているだけあって、罅を入れることは叶わなかった。
だが、アッパーカットのように打ち込まれた鉄塊の重い一撃は、相手の思考能力を数秒奪う。
蟲の動きが止まった。
(もういっちょ!)
振り戻した剣の勢いを殺さないよう、身体を捻る。
左足をこれまた大きく体に引き付けて、今度は宙へと跳び上がる。
「――ぃよいしょっ!」
繋いだ技は、左上段からの回転切り。
打ち下ろした斬撃は、冷酷に蟲の頭部を破壊した。
釣鐘が割れるような音がし、亀裂の入った甲殻の破片が辺りに飛び散る。
牙を鳴らし、蟲は激昂した。
「ギチギチギチッ!!」
「よーし、怒ってくれたな……」
挑発は成功した。
脚や腹を狙わないように攻撃するのは大変だったが、ここから先は単純作業。
もっと森の奥深いところまで、このデカブツを誘導すればいいだけだ。
(コイツの体液は他の魔物を呼び寄せるからな。
……なるべく『工事現場』から離れた場所でお仕置きしないと、二次被害を生みかねない)
チッチッチッ。
舌打ちをすることで、さらに虫を挑発する。
予想通り、蟲は俺を追ってきた。
「ギチギチギチッ、キュラララッッ!」
「さぁ、鬼ごっこの時間だ……ついてこい!」
♦
走る。
大地を蹴る。
隆起した木の根や薄茶色の落ち葉が溜まった窪みを避け、苔の生えた倒木を片手一つで飛び越えて、胴長の捕食者から逃げていく。
ちらりと後ろに視線をやると、怒りで眼を燃やした蟲の姿が見えた。
口から涎を垂らし、トゲ付きの甲殻をスパイク代わりに、障害物を次々と薙ぎ倒して此方へ猛進してくる。
是が非でも俺を捕食する気なのだろう。
頬部分にて発達させた血液冷却用の吸気口を開いた蟲の顔は、それはもう恐ろしい形相になっていた。
(もう少し……もう少し……)
付かず離れずの距離を保っていた。
風に運ばれる紫色の花びらを追うようにして、この森林の迷路を駆け抜ける。
方向感覚が狂うことはない。
山育ちの俺からすれば、この森は地元に比べて危険が少ない方だ。
なにせ陽が差し込むギャップが多く、極小サイズの毒虫やら神経に作用する胞子を飛ばすキノコに神経をすり減らさなくていいのだ。
安全性に関して言えば、来場者一日一万の遊園地レベルの快適さだ。
(……ま、遊園地なんて行ったことないんだけど、なっ!)
三つ目の倒木を飛び越える。
すると、急に視界が開けた。
思わず俺はスピードを緩める。
シロツメクサに似た草本が生い茂る空き地が、そこには広がっていた。
近頃落雷でもあったのか、広場の中心には芯まで焼け焦げた楓の木が一本。
明るい陽気が流れる中に場違い的に佇むそれは、きらきらと煌くフィトンチッドを浴びて神秘的なオーラを漂わせていた。
天使の腰掛け。
そう呼称したくなるような空間だった。
(……!)
殺気を感じ、俺は後ろを振り向く。
広場の端に蟲がいた。
「ギチギチッ!」
「よくついてきたな……」
背負っていた鞘を外す。
両手で剣を持ち、構える。
この広場と『工事現場』の距離は、ざっと見ても二キロ以上はあるはず。
あそことは山稜を一つ挟んでいるし、この蟲は山越えをしない。
ここで虫を傷を負わせて体液を飛び散らせても、現在の『工事現場』は風上にあるうえ標高が高いから、魔物の被害を受けるのはこの空き地のみに留まる。
リリや社員さんに迷惑をかけることはない。
完璧な作戦だ。
(……よし。ここなら思いっきり戦える)
蟲は牙を鳴らしていた。
此方の動きを窺うように、小刻みに首を傾げている。
奴もこの場を戦場に定めたらしい。
息を吸い、止める。
足に力を込めた。
そして。
「――――行くぞ、クソ虫!」
「ギキャキャキャッ!」
蒼天に向かって叫び、俺は全力で地面を蹴った。
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