第26話 ヤブ医者は酒が好き
(……ここだな)
金髪の動きに合わせるように前へ出る。
ナイフの切っ先は、俺の胸部めがけて突き出されていた。このままでは、俺の心臓は切り裂かれてしまうだろう。
それでも俺は、自分が死なないことを確信していた。
通常であれば防御も回避も不可能な間合いにいるというのに、だ。
なぜか。
寸刻の間に、右手の腹で相手のナイフの峰を押す。
「――――手首を巻き込むなよ、ヘタクソ」
刺突の軌道が変わった。
紙一重で、俺は攻撃を回避する。
「なっ……!?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、金髪は驚愕していた。
別に大したことはしていない。
ただ俺は、技の基本を意識して動いただけなのだ。
(……前に旅の古本屋で、剣術の指南書を立ち読みしておいて正解だったな)
さっき彼に指摘したのは、ナイフの刺突方法についてだ。
刺突に特化した武器であるフルーレとは違って、斬撃武器の刃には必ず上下の概念がある。
ゆえにナイフで刺突する際には、地面に対して刃を垂直に立てなくてはならない。
だというのに、金髪の彼はフルーレの要領で「手首を巻き込んで」しまった。
これでは刃全体が回転してしまっているために、最悪ナイフそのものが破損する。
……要するに、金髪の男はナイフ術の素人。
イキって刺青を入れただけの、ぶきっちょ脳筋野郎だったのである。
「――おらぁッッ!」
刺突を完ぺきに受け流した俺は、ふっと男の懐に潜り込んだ。
勢いはそのままにして、力任せに肘鉄をお見舞いしてやる。
「ごっほ……」
金髪が小さく呻く。
鈍い音を発して下腹部の気海に命中した一撃は、腹斜筋の鎧を貫いたらしい。
抵抗する暇もなく、金髪の男は意識を失った。
クタッと倒れたそいつに向かって、俺は慈悲の合掌をする。
そして。
次なる相手である茶髪の方へ、ぬるっと顔を向けてやった。
「よーし。じゃあ、次はアンタと勝負だ」
「あわわわわ……」
眼鏡を掛けた茶髪は、まるきり腰が引けていた。
亜人による予想外の反撃でビビってしまったのか、振動する太鼓の表革のように唇を震わせている。
ナイフを持つ手にも恐れの感情が表れているし……ひょっとしてこの男、戦意喪失しているのか。
「えーっと、茶髪さん」
なるべく刺激しないよう、ゆっくり静かに俺は訊ねた。
「アンタ、もしかして喧嘩した経験とかないのか?」
「あ……う」
「もし闘いたくないのなら、そのナイフを捨ててくれ。そしたらパンチ一発で済ませてやるから――」
「…………う、わぁぁぁぁッ!!」
「――ちょっ、落ち着け!」
緊張がピークに達してか、茶髪はパニックに陥っていた。
よほど俺のことを恐れていたのだろう。腸を裂かれるかのような悲痛な声を挙げ、彼は滅茶苦茶にナイフを振り回す。
話し合おうと何度呼び掛けても取り付く島がない。
間合いの外で俺は戸惑った。
……茶髪は暴走する。
「わぁ、わぁ、わぁぁぁッ!」
気が動転した茶髪は、なんと俺にナイフを投げつけてきた。
もうヤケクソだ。
「うぉっ、危なっ」
間一髪で、俺はそれを避ける。
その隙に茶髪は、この鉄火場から逃げ出そうとした。
ギリギリまで俺の動きを把握しておきたかったのか、視線は最後まで此方へ向けておいて、だ。
このまま奴を逃がすわけにはいかない。
茶髪の彼は、リンチという通常では許されない悪事を働いてしまっているのだ。
制裁を加えなければ、俺の気が収まらない。
母指球に重心をセットし、俺は彼を追いかけようとした。
しかし、
「このっ、待ちやが……!」
言いかけた途中で、俺は追いかけるのを止めることにした。
知らない人影が視界に飛び込んできたからだ。
♦
(誰だ、あの男……)
一人の男性がそこにいた。
俺より一回り年上っぽい彼は、目測でも身長が一八〇センチはあった。
尚且つ、その肉付きは爽やかな営業マンのようにスマートな体型。
優しそうな二枚目顔には、著名なフルート奏者を彷彿とさせる優雅さがある。
ただし、襟や袖口の擦り切れた白衣が遊惰な肌によく馴染んでいて、それら美点を台無しにしている。
おまけに髪型はボサボサだ。
足に安物のサンダルを引っかけ、まるで流浪人ような風貌の男。
彼は茶髪のすぐ後ろにいた。
当の茶髪は未だに俺の方を見ているため、この男の存在に気付いていない。
案山子の如く気配を殺していた彼は、逃げようとする茶髪のうなじ目掛けて、素早く手刀を放った。
茶髪が振り向くのと、手刀が炸裂するタイミング。
それはまったくの同時だった。
「――――ぐえッ!」
「あ。ごめん、ミスっちゃった」
雄渾に振るわれた手刀は、見事に茶髪の喉仏を圧し潰した。
ぐわんっと制動を掛けられた茶髪は腰から仰け反り、顔面から発射された眼鏡は慣性の法則で宙を飛ぶ。
手刀を放った彼としても、これは予想外の展開だったのだろう。
責任を問われるような「やらかし」を前に、白衣の男は居心地が悪そうに頬を掻く。
「や、ホントにごめんよ。故意にやったわけじゃないんだ」
地面に転がった茶髪の肩を叩きながら、その男は独り言を呟いていた。
もちろん気絶した人間に言い訳をしたところで、彼が盛大に手刀を外した事実が揉み消されるはずがない。
変な奴だな、と俺は思った。
「――だって君、考えてもみてくれないか」
まだ男は見苦しい言い訳をしていた。
「うなじにトンッて手刀しようとしたら、接触寸前で相手が振り向くんだぞ。
そんなの想像だにしないだろう? これは事故なんだよ、事故」
「……」
白目を剥いた茶髪は、何も言ってはくれなかった。
「そりゃあね、僕だってカッコよく首トンしたかったさ。
でも、仕方ないじゃないか。たまたま喉に当たっちゃったんだから」
「……」
「え、赦してくれるって? ありがとう! 君のことは一生忘れないよ!」
何だか一方的な内容だったが、とりあえず話はまとまったらしい。
別れの礼儀とばかりにそっと茶髪に眼鏡を掛け直し、白衣の男は立ち上がる。
視線が空中でかち合った。
プレッシャーで噴き出た冷汗が、つぅと背筋を流れていく。
「……アンタ、いったい何者だ」
思い切って、俺は訊ねてみた。
加えて、悟られない程度に腰を低く落とす。
いつ彼が本性を表してもいいように、警戒の体勢は緩めなかった。
「……なんで俺の喧嘩に割り込んだ。なんで俺の方に加勢したんだ」
「そうだねぇ。どう答えたものか――――」
キュポンッ。
栓の抜ける快音がしたかと思うと、いつの間に懐から取り出していたのだろうか。
白衣の彼は茶褐色のボトルに口を付けて、中に入ったアルコール度数の高い液体をラッパ飲みしていた。
口元に付着した琥珀色の水滴と、バニラで香りづけされた甘い香り。
瓶のラベルに描かれた「サーベルを担ぐ海賊」の絵から察するに、それなりに値の張るゴールドラムを嗜んでいるみたいだ。
自分は未成年であるからあまり詳しくはないのだが、世に出回るラム酒のほとんどは、ウイスキーと同等のキツさであると聞いたことがある。
それをストレートで飲んでおきながら身じろぎ一つしないとは、この男はかなりの酒豪なのだろう。
白衣で着痩せしてはいても引き締まった身体に、名も知らぬ男へ手刀をかませる度胸。
亜人と一般人の喧嘩へ即座に介入できる状況把握力に、自己都合で話を進めてから飲酒に走るマイペースさ。
どれをとっても得体が知れない。
ただひとつ確実なのは、この白衣の男は相当強いということだけ。
殺気の消し方も手刀のキレも、彼の動きは素人のそれではなかった。
(格闘技経験者、なのか……?)
相手の力量を見極めようとした。
次の行動を予測しようとした。
しかし、無理だった。
どんなに熟視しても彼の思考が見えてこない。
空高く浮かぶ雲のように決まった形がなく、精髄を握ろうにも指の間からすり抜けていくのだ。
ゆえに俺は動けなかった。
逃げも隠れも闘いもできずに、白衣の男が答えるのを待つ。
「――――強いて言うなら」
ボトルから口を離すと、彼は言った。
「『君が僕の元患者だったから』かな」
「元、患者……?」
「そう。通りすがりに加勢したのは、それが大きな理由だよ」
「……?」
釈然としない答えだった。
直近で医者にかかった覚えなど、俺にはない。
生まれてこのかた風邪を引いたことはないし、切傷も骨折も自分で直してきた。
重い病気に罹ろうものなら、高額な治療で借金をこさえるより死を選ぶ。そういう極貧家庭で育ってきたのだ。
だから最初のうち、俺は男がでたらめを言って揶揄っているんじゃないかと思いこんだ。
質の悪い冗談は止してくれ、と非難しようとした。
だが。
六秒間、心を落ち着かせる時間を取って正解だった。
(――まさか!)
心当たりがあったことを俺は思い出す。
(まさか、こいつがリリの言ってた『医者』か……⁉)
♦
闘技場の地下に忽然と現れた、白衣の男。
アルコール臭を漂わせ、舞台で主演の役を張れそうなくらい甘いマスクを持った男。
ヨナスとの戦闘で瀕死の重傷を負っていた俺を、瞬時に治療した謎多き男。
あの治療のおかげで今日、俺は跳んで走って戦えた。
感謝の気持ちはある。
治療の代金は全額払いたいと思っているし、犬の糞がついている靴でさえ舐めてもいいと思っているくらいにだ。
だが、ちょっと実物がイメージと乖離していて、理解が追い付かない。
本当に、この酒浸りが命の恩人なのだろうか。
「――驚いてるみたいだね」
口に付いていた酒を、男は腕で軽く拭った。
白い袖に琥珀色のシミが刻まれる。
「まぁ、無理もないか。昨日会ってるとはいえ、意識がある状態では初めましての関係だ。疑うのもしょうがないよ」
「……アンタ、名前は?」
「僕かい? そうだね、僕のことはテキトーに『ラム酒のお兄さん』とでも呼んでくれ」
「ラム……兄……?」
「さーて! じゃあ自己紹介も済んだことだし、経過観察といこうか!」
そう言うと白衣の男、もとい、ラムのお兄さんはニンマリと笑った。
白衣のポケットに手を突っ込み、わざと腰を反らせて後傾になった奇妙な立ち方は、彼お気に入りのポージングなのだろう。
太陽はいよいよ朱く燃え上がり、夕闇が辺りを黒く染める中。
一等星のような煌きを目に宿したラム兄は、カッコつけた口調でこう言った。
「――では、改めて訊くとしよう。
傷の具合はどうだい、イオリ・ミカゲ君?」
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