第11話 湯屋にて再開、桶が飛ぶ
目が覚めると、俺はベッドの上で横になっていた。
頭上には雨漏りで黒ずんだ木の天井。
隣の部屋とは、隙間風が吹き荒ぶ薄い木板で隔てられており、寝台下の床は先客が酒でも零したのか、糖やら酒精やらで所々変色していた。
鼠の走った跡がないだけマシなのかもしれないが、人が寝る室内環境としては今一つ掃除が必要そうな状態。
そんな安宿、『ナベの蓋』の一室で俺は寝ていた。
「……」
ゆっくりと上体を起こす。
木枯茶色の天窓からは曙光が仄かに差し込み、薄暗い室内は陽の気で満たされていく。
その明かりに目が慣れてきたところで、ふと俺は自分の身体に目を向けてみた。
ヨナスに付けられたはずの傷は、不思議なことにほとんど癒えていた。
試しに頬に張り付けられた湿布を剥がしてみたが、痣もなければ痛みもない。
各部の骨にも異常は見受けられないし、腹部の裂傷もきれいさっぱり消えている。
唯一の治療痕として肩に包帯が巻かれていたが、これはおそらく損耗した筋肉を労わったテーピングの代わり。
俺の身体に蓄積していた戦闘ダメージは、実質的に殆ど解消されていた。
もしや、何者かが治癒魔法でもかけてくれたのか。
よく思い返してみれば、この部屋で寝るまでの経緯を俺は全く覚えていなかった。
闘技場の地下で気絶した後、俺は自力でここに辿り着いたとは考えられない。
だからって、道行く行商人に助けを求めた可能性なんて、生魚の腸を呑むより有り得ない事象だ。
糞の役にも立たなくなった満身創痍の俺を、一時の気紛れで助けた者がいたと考える方がまだ合点がいく。
だとすれば、そいつは何処へ行ってしまったのだろう。
「……顔でも洗うか」
へたった掛布団を押しのけ、床板を軋ませて降り立つ。
そして、改めて部屋を見渡してみる。
実に殺風景な部屋だった。
広さは牛二頭がギリギリ並べる程度しかなく、本棚もなければ水差しもない。
あるのは部屋中央に雑然と置かれた丸テーブルに、廃材で組み立てたような安っぽい椅子が二脚。それに俺の荷物くらいなもの。
とてもじゃないが、見ていて気分が上がるような画ではなかった。
♦️
木戸を開けて廊下に出る。
この建物は木造三階建て。戸口が狭くて奥行のあるタイプの宿泊施設だ。
そして、寝室があるのは三階で水場は一階。
向かい合った四部屋の宿泊者の迷惑にならないよう、忍び足で俺は階段を下りていく。スペースを取らないためか、かなり急な階段だった。
二階を通り過ぎ、一階の倉庫へと向かう。
改装する前が路地裏にひっそりと建つ集合住宅だったためだろう。部分的に貼り換えられた壁板は、その色の違いから年月の経過を控えめに語っていた。
また建物の影になって薄暗いだけの窓横には、有名絵画の贋作が飾られていた。
そのチープさは、ここが貧乏人のための安宿である事実を内部から補強していた。
「……井戸はあっちだっけ」
一階に降り、馬車の駐車場を通って中庭へ向かう。
豪邸のそれとは違い、娯楽品が何一つない庭だった。
草木が生い茂っているわけでもなければ、彩り鮮やかな花が植えられているわけでもない。
無駄なものを削ぎ落して機能性に特化させたのか、そこには何の変哲もない水場があるだけ。
宿泊している側としてはもう少し遊びがあってもいいのではとも思うが……宿の経営方針に口を挟もうとは思わない。
結局、俺は保守的にこの風景を受け入れた。
つかつかと井戸へと歩を進める。
二階部分から吊るされた洗濯物は、そよ風で微かに揺れていた。
四角く切り取られた吹き下ろしからは、澄み渡った青い空が見える。
「こりゃ、絶好の観戦日和だな……ん?」
と、そこで俺は初めて気付いた。
――井戸のほかにもう一つ、ヤギでも入っていそうな掘立小屋があった。
建築木材の色合いからして、建てられたのはつい最近。
釘の打ち方や板の張り合わせ方が素人臭いから、たぶん宿屋の主人が日曜大工感覚で作った代物なのだろう。
錆のない蝶番の付いた扉には、『湯屋』と文字の彫られた看板が掲げられていた。
(……どうせなら全身洗っておこう)
闘技場の地下であれだけ血と汗に塗れた後だ。
身だしなみに無頓着な俺でも、この時ばかりは水浴びくらいしておきたかった。
使用が有料なのかどうかは不明だが、もしも金銭を要求された時は宿屋の主人にツケにしてもらおう。
そんな都合のいい企みを胸に抱きながら、俺は湯屋を利用しようとした。
ノックもせずに、脱衣所の扉を開ける。
完全に油断していた。
♦️
「…………ッ!」
「――あ」
ヤバいと思った時にはもう遅い。
……薄暗い室内には、無防備な姿の女性がいた。
ちょうど水浴びをしようとしていた所だったのだろうか。羽織った巫女服の前は開けており、その隙から艶やかな虎丘の谷間が顔を覗かせている。
帯を解いた青袴は床に落ち、優美な細線で引かれた素足は淡雪のように白い光を反射していた。
前屈みになった彼女の胸と腰を隠すのは、薄く織られた下着だけ。
その美しさに、俺は思わず息を呑む。
脈拍は早くなり、己の意思に反して瞳孔は開く。
相手の女性はこちらを見るなり、身体を硬直させていた。
自身のあられもない姿を見られた恥ずかしさと、下着まで脱いでいなくてよかったという安堵が混じってか、無言で顔を紅くする。
状況が理解できなかった。
一つだけわかったことと言えば、彼女の顔を俺が知っていたことくらい。
――先日、俺を助けてくれた精霊。
それが彼女の正体だった。
「えっと……」
もごもごと俺は言い淀む。
正常な判断力は故郷へ里帰りしてしまっていた。視線を動かすことができない。
絹のように滑らかな銀髪。一切の穢れを寄せ付けない生命力を纏った肌。
可憐な顔には本人の純真無垢な性格が如実に表れており、すらりと伸びた手足は嫉妬深い女神の心さえ奪いかねない程に完璧。
ハリのある二つの膨らみは、俺の手から零れ落ちることが目視で確認できる。
雷を受けたように茫然とし、俺は彼女に見惚れていた。人生において経験のない未曽有のハプニングに、脳が機能停止してしまっていた。
だが、いつまでもこの膠着状態を続けるわけにもいかない。
俺にだってこの後予定はあるし、彼女だって早く扉を閉めてほしいはず。
意を決した俺は、一言だけ弁明してこの状況を切り抜けようとした。
そっと鼻の下を手で覆う。
そして、俺はこう言った。
「な…………何も見てないですよ?」
「うそつけ――――ッ‼」
砲丸投げの要領で投げつけられた木桶が、俺の顔面を強打する。
パカンッ、と小気味良い音が鳴り、情けなく俺はひっくり返った。
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