第8話 2-1、2-0
信頼していた婚約者が、ニャルラトホテプだった。
「うそよ、うそ。ラルがニャルラトホテプな訳ないわ。だって、小さい頃から知っているもの。ラルは人間よ。ねぇ、嘘だといってちょうだい。私を揶揄っただけだと、言ってちょうだい!」
私は王太子にすがりつき、必死に言葉の撤回を求めた。なんでもいいから、先程の言葉を嘘だと取り消して欲しかった。あれが嘘と証明されるなら、婚約破棄されたって構わない。
しかし、無情にも王太子――ニャルラトホテプはとびきり美しい笑顔を崩さずに答えた。
「神の言葉を信じないとは、流石は私が見込んだ愚かな人間だね。その頑なさは他に得難いものだ。普通の少し賢い人間であれば、私の正体を知ればすぐさま地に頭をつけるというのに。
その頑なな頭に刻みつけるためにも、もう一度だけ伝えて差し上げよう。私こそが這い寄る混沌、ニャルラトホテプである」
「そ、そんな……ラルが、どうして?」
「どうして?
納得のいく理由が聞きたいのかな? 愚かな人間どもが好きな合理的な理由とやらを聞きたいのかな?
そんなもの、ない。
強いて言えば暇つぶしだよ。この国を混沌に陥れれば細やかな慰みになろうかと、思い立ったまで。
ほら、君ら人間もやるじゃあないか?
ビニールでできた包装用の小さなクッション――プチプチというんだっけ?――アレを潰す無意味な行為。なんの生産性もないあの行為と私がこの国の王太子になったことは同じことだよ」
「ラルがニャルラトホテプだったなんて……そんな、私は!」
「まだまだ信じられないようだね。
聞き分けがないね。仕方がないが、特別に私の化身の一つを見せて差し上げようか。
昨夜は薄暗くてはっきりとは見えなかっただろうから」
ニャルラトホテプがそう言うと、王太子の美貌がぐしゃりと潰されて、引き伸ばされて、長い触手と顔のない頭部が現れた。ギチギチと肉が裂ける音がする。名状し難い光景に、とうとう私の脳が焼き切れた。
「あああっ!!」
「はぁ、全く人間とは脆弱な生き物だ。私の顔を見たくらいで壊れてしまうとは。ああ、そうそう。今日はちゃんとシナリオ通りに来たまえ。
リリアンが階段の上で待っているよ」
王太子の顔に戻ったニャルラトホテプは私の額に手をかざし暗示をかけた。私の頭の中には、リリアンが待っている階段の踊り場に行くことが刷り込まされた。
私はふらふらとした足取りで、部屋を出た。
その日の夜、私は王宮の独房室にいた。なぜなら、リリアンが死んだからだった。
リリアンは階段から落ちて死んだ。頭部を破損して、桃の花のような薄ピンクの塊を頭蓋骨からポロポロと転げ落として死んだ。開放性頭蓋骨骨折、大出血。私が見た限りそれがリリアンの死因だった。
私はニャルラトホテプに指示された通りに階段に向かった。学園の中央を突き刺すように通っている大階段。その踊り場で、私はリリアンを力の限り押した。言い訳させて貰えば、リリアンが突然掴みかかってきて、私が落ちそうになったので、咄嗟にリリアンを突き飛ばしたのだった。
リリアンの体は宙に浮いて、頭から階段に落ちた。階段のヘリで頭蓋骨が割れて、無防備なピンクの塊が削れていく。リリアンの体が転げ落ちていくにつれて、大階段が血に染まった。即死だった。私はその様子を笑いながら見ていた。
すぐさま、王太子が現れて私を拘束した。そして、私を非難した。王太子だけでなく、他の学生も、ディーゴも私を非難した。私はひたすら笑っていた。
気が狂っていると判断された私は、兵に引き渡されて王宮の独房に入れられた。裁判までここにいるのだろう。もしかしたら、裁判など行われずに一生ここにいるのかもしれない。それでも、よかった。
ヒロインが死んだ。この世界の主人公であるヒロインが死んだのだ。それなら、この世界が物語を続ける必要もない。それなら、アザトースも召喚されない。私は根拠なくそう信じていた。だから、私は神に勝ったと喜んでいた。
笑っていたのは、勝利のためだった。
ここで一生を過ごしたとしても、私が世界を救ったと言う小さな自負だけで生きていけると思っていた。
しかし、その儚い希望は裏切られることになる。
独房には光が入らないので、時間感覚は分からないけれど、おそらく次の日の卒業パーティーの頃だったのだろう。『もう当日』とメッセージカードが独房にまで贈られてきていたから、卒業式の日であることは間違いない。その、卒業式の日に異変が起きた。
最初に訪れたのは、寒気だった。尋常ではない寒気。私は独房に入れられるまでに散々痛めつけられていたので、衰弱した肉体についに死が訪れたのかと思った。だが、違った。次に聞こえてきたのはフルートと太鼓の音だった。以前にも聞いたことがある、人の心臓を狂わせるメロディーだった。
「な、なんで? ヒロインは死んで物語は終わったのよ……?」
私は信じられずに疑問を口走った。しかし、私の声は誰にも届かず壁に反響するだけ。そうこうしているうちに、とうとう、目の前に黒い霧でできた触手が現れた。触れたものを狂気に落とし、消滅させる触手だ。狭い独房に逃げ場はない。私は独房の隅に追い詰められた。
「アザトース!」
それが私の最後の言葉になった。
救いの神様なんていなかった。