第7話 2-1
ループして3日目の朝を迎えた。明日は卒業パーティー、アザトースが召喚される日でもある。世界の滅亡を防ぐべく動いてきたけれど、何もできなかった。
なんだったんだろう、わたし。
同じ日を繰り返すには意味があると信じて行動した。一時はディーゴが仲間になってくれたし、ネクロノミコンが見つかって前に進んだ気がした。だけど、無意味だった。ネクロノミコンはニャルラトホテプの手に渡ってしまったし、ディーゴは離れて行った。きっと明日には世界が滅ぶだろう。
メッセージカードだって告げている。
『あと1日しかない』
あと1日で世界は終わる。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で私はただ、横たわっていた。息を吸って吐くだけ。それを明日の世界の終わりまで続ければいい。ここでじっとしていれば、いずれ来るアザトースの黒い触手が私の存在を消してくれる。
なんの意味も、なかったなぁ。
私は生まれてから今までの人生を振り返っていた。一番古い、ゆりかごに揺られている光景から、甘やかされた少女時代。そして、前世の記憶を思い出した日。私は前世を思い出した日から自分は他の人と違う存在だと思い上がっていた。
前世の知識を使えば上手くやれる。経営も、人との付き合い方も、ゲームで起こる出来事も知っていたから。前世で流行していた悪役令嬢の小説のように、上手くできると信じていた。
実際に途中までは上手く行っていたのだ。領地経営は税金のかけ方を工夫することで上手く回るようにできたし、攻略対象たちとは良好な関係を築いていた。特に、王太子とは王家から隠れて愛称で呼び合うほどに親しくしていた。
それも全て、学園に入ってからその痕跡を消されてしまった。ゲームの強制力によって。
開きっぱなしだった瞼を閉じる。乾燥した目に涙が滲んだ。目は酸素を求めて赤く充血しているだろう。宿主の心とは別に、体は死ぬまいと生命を維持させる機能が反応する。
扉が叩かれる音がした。
淡々と働いていた耳が音を捉え、止まっていた心に響いた。
「ティナ、私だ。ラルトだ。お願いだからドアを開けてくれ」
王太子ラルトだった。普段だったら私は警戒して開けなかったかもしれない。だけど、その時は違った。王太子は私の愛称を呼んでいた。学園に入学する前と同じように。
懐かしさに心が弾み、ベッドから降りた。ドアノブに手をかけて扉を押した。
「ラル……」
「ああ、ティナ。よかった、やっと話ができた」
王太子は何かを噛みしめるように私の顔を眺めると、すぐに眉をひそめて心配そうな表情をした。
「どうしたの? 目が赤くなっている。それに薄着では体に良くないよ。私の上着を羽織って」
私は素直に受け入れて上着を肩にかけた。上着は肩のあたりがブカブカで、王太子との体格の差を認識させられた。いつの間に、こんなに肩が広くなっていたのかしら。交流の途絶えた学園の2年間で、王太子は少年から青年に変わっていた。昔は私と同じくらいの背丈だったのに。とっくに追い越されていた。
王太子は扉を閉めると紳士的に私の腰に手を添えて、私をベッドに座らせた。
「何があったんだい? ティナの白い顔がますます白くなっている。今にも消えてしまいそうだ。悲しいことがあったのなら話してくれないか。力になれると思うから」
王太子は優しかった。話す言葉だけでなく、声すらも優しかった。声変わりを終えた落ち着いた大人の声で私を包み込む。その声の温かさは繭のようで、私はその中でトロトロに溶かされてしまいそうだった。
それでも、私は王太子に何も話せなかった。これまであった出来事を王太子に話したとして、信じてもらえるかわからなかったから。ディーゴのように、信じてもらえずに見捨てられたらと思うと怖かった。
「私に言えないことなのかな?」
黙ったままの私に王太子が、変わらず優しい声で尋ねた。聞き分けのない幼い子を諭すような調子で続けた。
「誰にも言えないことがあるのは、わかるよ。私だって秘密を抱えているからね。だけど、私たちは学園を卒業したら結婚する。夫婦になるんだ。一緒に国を支えていくと誓ったじゃないか。私たちの間には隠し事はなしだろう?」
王太子の言葉に私は顔を上げた。確かに、幼い頃に誓った。婚約式の後のお披露目で大人たちが主役そっちのけで盛り上がっていた時に、2人で抜け出して秘密の花園で誓い合った。共に助け合い、この国を背負うことを。
「覚えていたの?」
「忘れるはずがないよ」
力強いまつ毛で縁取られた大きな瞳を細めて笑うその仕草は、昔の王太子と同じだった。ラルが戻ってきた。学園に入学する前の優しいラルが戻ってきてくれた。
もうだめだった。
私の心の結界は破られた。
「すっかり忘れてしまったとばかり……」
「ティナのことを忘れたことなんて一時もないよ」
「リリアンさんと仲が良さそうだったから、私は婚約破棄されると諦めていたの」
「不安にさせてごめん」
王太子は私を強く抱き寄せた。王太子の心臓が力強く脈を打っていて、私は安心して身を委ねてしまった。この人なら信じられると。
「だから、私に全てを話してくれるね?」
王太子の言葉に私は何も考えずに頷き、自分の身に起きたことを話した。
前世の記憶を持っていること、学園に入って心細かったこと、世界が一度滅んだこと、ループして世界の滅亡を防ぐ手段を探したけれど、何の意味もなかったこと。
全てを話し終えた時に、王太子は静かに口を開いた。
「そうすると、ティナはディーゴと2人で寮を抜け出して夜の図書館に行ったんだね……」
「だけど、それは調べ物のためで、1人より2人の方が効率がいいと考えたからなの。神に誓ってやましいことはなかったわ」
言い訳がましい私の言葉に、王太子は柔らかく頷いた。
「わかっているよ。ディーゴは友人を裏切る人間ではないし、ティナはゲノス先生に言われて図書館の扉の先に行っただけだって。ゲノス先生からあの呪文をティナに渡したことをちゃんと、聞いたから」
「信じてくれるの? ……よかった」
「もちろん。だって、私もあそこにいたからね。まさか、クティアーナに見られているとは思わなかったけれど」
「ええ?私、ラルを見かけたかしら。暗い上に広かったから見落としていたのかもしれないわ」
「いいや、さっきクティアーナがはっきりと口にしたじゃないか。『顔のない男を見た』と」
そこまで言われれば、悲しみで鈍った私の頭でも王太子の意図していることが理解できた。『顔のない男』はニャルラトホテプである。だけど、その事実と王太子を繋げることはしたくなかった。まさか、私の知っている優しいラルが、まさか、まさか。
「そのまさかだよ、クティアーナ。ほら、この本に見覚えがあるだろう?」
王太子は、私の目の前に古びた本を差し出した。端が削れたボロボロの柔らかい皮でできた本だ。私は生々しいその表紙の感触に覚えがあった。
「ネクロノミコン……!」
「そう、君が落としたネクロノミコンだ。どうして私が持っていると思う?」
王太子の甘い声に、私は心臓が止まる思いがした。ひょっとすると、実際に止まったのかもしれない。血を上に押し上げる力が弱まり、頭から血がさあっと下がっていく。私は呼吸の方法も忘れて、目の前の男を見た。威厳があり、褐色の肌をした人並外れた美貌の男は黄金の瞳を三日月のように細めて、美しく微笑んだ。
「私こそがニャルラトホテプだよ」
まさか、そんな、神様! 神様?