第6話 2-2
馬鹿馬鹿しい。なんて馬鹿馬鹿しい集まりなのかしら。
弱冠11歳の子供2人のために大勢の大人が集まって、へこへこ頭を下げる。もちろん、大人たちが頭を下げているのは、私たち子供の後ろにそびえる権力に対してだ。
その日は、私と王太子の婚約式だった。完全な政略によって決められた婚約に、前世の記憶を思い出したばかりの私は冷めた感情を抱いていた。
どうせ、この婚約も破棄されるのに、どう喜べばいいの? だって、私は悪役令嬢なのよ。
米つきバッタのように頭を下げる男爵の脂ぎった額を眺めながら、あくびを噛みしめていた時だった。
数時間前に顔合わせしたばかりの王太子が会場から抜け出そうとしているのに気が付いた。使用人が出入りする扉をそっと開けて、外に出ようとしていた。この退屈な大人たちの相手を私一人に押し付けられたことに腹が立ったのと、あとは好奇心から王太子の跡を追いかけた。
跡を追って夢中で王宮を駆け抜けると、気が付けばむせ返るような花の香りに包まれていた。そこは王宮の秘密の花園だった。王太子は花に埋もれてうずくまっていた。
「殿下、こんなところで何をなさっているんです?」
「どうして来たの?」
どうしてには、二通りの意味が込められている気がした。この花園に来た方法を問うものと、花園に来た理由を問うもの。どちらにせよ、拒絶の色がはっきりと声に現れていた。
「婚約者ですから」
「1人にしてくれ」
今度は言葉にして私を跳ねのけると、王太子は私を置いて花園の奥へ行こうとした。
「お待ちください。今日は私たちの婚約式です。退屈でも我慢して出てください」
「我慢だって?」
おぞましい呪いの言葉を聞いたかのように、王太子は金色の瞳を大きく見開いた。
「私はずっと、我慢している。生まれた時からずっとだ! 何もかも決められた通りに、言われた通りにやっている。今日だって、朝から泣きたいのをこらえていたんだ」
後から知ったけれど、この日、王太子が飼っていたペットが死んだらしい。
王太子は泣き出してしまった。私は驚いて、大雨の後のダムが溜めていた水を一気に流すように、涙が溢れて出てしまった。
「わ、私だって! いきなり結婚相手を決められて、将来の王妃だって言われて、だけど私は悪役だから幸せになれないって分かっていて……!」
ボロボロと涙が止まらなかった。子供相手に何を言っているんだろうと思ったけれど、止まらなかった。
「仲良くなりたいと思っていたのに、あなたは私を見てため息をついて、目も合わせてくれなくて。ああ、私は悪役だから、あなたに嫌われる運命なんだって思い知ったのに……!」
気が付けば王太子が私の側に寄って、私の背中をさすっていた。
「仲良くなりたいと思ってくれていたの?」
「だって、私たちは婚約者でしょう? それに」
「それに?」
「あなたの顔が好きなの。特にその、金色の瞳が」
言ってしまった、と思った。私は初めて会った時から、いや、前世でゲームをプレイした時から王太子の顔が好きだった。顔だけじゃない、笑った表情とか、優しい瞳とか、全てが好きだった。なのに顔が好きだと、陳腐な事しか言えなかった。笑われたらどうしよう。だけど、王太子は笑わなかった。
「私も君の赤い髪が好きだよ。猫みたいに吊り上がった目も」
王太子は私の乱れた縦ロールをそっと掻き揚げると、顔を寄せて頬にキスをした。私と同じ年齢であることを疑うほどに、自然な動作だった。
「私たち、似ているね」
「そう、みたい」
その後、私たちは約束した。お互いを支え合い、国を2人で背負うこと。その証として、2人きりのときは愛称を呼び合うこと。この約束は学園に入るまで続いていた。
王太子と私は、昔は仲が良かった。
強い風が吹いて、私の頬を木の葉が撫でた。
鋭い木の葉で皮膚が切れて血が流れる。重力に従って血が顎をつたい、私の手のひらに落ちた。ハッと我に帰る。
私ったら、何をしていたのかしら?
ニャルラトホテプに遭遇したショックで、現実逃避をしていたようだった。昔の美しい記憶に浸っていた。いけない、正気を失うところだった。頭を振って正気を取り戻す。いま発狂して飛び出したりすれば、瞬時にニャルラトホテプに命が刈られるだろう。命取りになる。様子を伺った。
ニャルラトホテプはネクロノミコンを読んでいるようだった。ぺら、ぺら、と、ページが送られていく音がする。ニャルラトホテプならネクロノミコンに書かれている呪文なんて全て知っているだろうに、今更何を確かめているのだろう。
疑問に思っていると、やがて本を閉じた。そして、ニャルラトホテプは口のない頭部から全てを見下す傲慢な笑いを響かせて、立ち去っていった。私が来た、扉のある方向へ。
足音が完全に聞こえなくなったのを確認すると、私の膝が崩れ落ちた。
「よかった、行ってくれた」
私は役に立たなくなった足腰が復活するまで茫然と地面に座り込んでいた。もう何も考えられない。考えたくない。魔王のメッセンジャーで、強大な力を持つニャルラトホテプが学園に学生として潜んでいたなど誰が想像できただろうか?
ニャルラトホテプは前世ではキャラクターとして人気があったが、決して人間側の正義の味方ではない。むしろ、人間を翻弄する理不尽な脅威の体現者だった。気まぐれに人間の前に姿を現し気まぐれに力を与えて、結果、破滅に陥れる。
何か邪悪な出来事の裏には必ずニャルラトホテプがいる、と言われるほど人間を弄ぶことが好きな邪神だ。今回のアザトース召喚もニャルラトホテプの仕業かもしれない。そうなれば、私は邪神と対抗しないといけない。
「邪神と対抗するなんて、ムリ。せめてイースの偉大なる種族やユゴスよりのものみたいな神話生物ならなんとかなったかもしれないけど、ニャルラトホテプはムリ。
私は所詮、力のないひ弱な人間だもの」
ニャルラトホテプに対抗できる術なんてない。気がつけば目頭が熱い。目を拭うと涙が溢れた。ポタポタと絶え間なく流れる。
私は転生してから初めてぽっきりと心が折れた。
図書館に戻ると、扉の前にディーゴが倒れていた。ぐったりとして力が抜けている。
「ディーゴ様、大丈夫? 目を覚ましてちょうだい!」
私は焦った。ニャルラトホテプがこの扉を通ったとしたなら、扉の前にいたディーゴは無事では済まないと思ったからだ。
「しっかりして! ディーゴ!」
「う、ううん?」
何度か頬を叩いたところで、ディーゴは瞼をあけた。
「ディーゴ!」
「どうしたんだ? クティアーナ嬢。何かあったのか?」
ディーゴは寝ぼけた声で答えた。眠っていただけのようだった。私は安堵して、がっくりと肩を落とした。もう、心配して損した。
「何かあったかと聞かれれば、それはもう色々と。ですけど、まず質問しても良いかしら。
ディーゴはいつからここで寝ていたの?」
「そうだな、あまりハッキリと答えられないが恐らくクティアーナ嬢が消えてから、すぐだな。それより後の記憶がないから」
「私が扉の向こうに行ってからすぐに眠ったの?」
「そ、そうだ」
「では、ここを誰かが通ったかも分からないということね?」
「あ、ああ」
ディーゴは気まずそうに答えた。自分が役に立たなかった自覚があるからだろう。私もディーゴがここまで何もしないとは思いもよらなかった。いくら真夜中で眠い時間とはいえ、人が消えた後に寝こけてしまうなんて、予想外だ。
だが、一通り呆れ果ててから考え直した。あの異様な消え方をした私を心配せずに眠れるほどディーゴの神経は太いだろうか?
確かに人並外れて鈍そうな神経だけど、あの時のディーゴは私を助けようと手を伸ばしていた。私を助け出そうとしたディーゴとすぐに眠りこけたディーゴが繋がらない。流石に、少しは心配して周囲を探したりしたのではないか。
となれば、ディーゴは誰かに眠らされたのではないか? それも、直前の記憶を消されて。そんな事をする人物は1人しかいない。
遭遇したばかりのニャルラトホテプだ。
私は念のために重ねて聞いた。
「私が消えた後、誰か通らなかった? 例えば、顔のない人とか」
「顔のない人ってなんだよ。怖いこと言うな。クティアーナ嬢が消えてからすぐに眠ったから、誰が通ったか知らない。情けないけど」
ディーゴは困ったように頭を傾げて首の後ろをかいた。ポリポリと人差し指で引っ掻かれた首筋から、ぽろりと何かが落ちた。
「首から何か落ちたみたい」
咄嗟に灯をつけて照らして地面に落ちたモノを見た。それは半透明に輝く鱗だった。
「ディーゴ、あなた……!」
「な、なんだよ?」
私は身を捩るディーゴを捕まえて、その首元に灯を近づけた。
「なんてこと……!」
「どうしたって言うんだ?」
「あなた、首元にまで鱗が現れているわよ!」
「ええっ?! 一体どうして?
いま、首をかいたからか?」
「そうかもしれないわ。でも、どうして急に首まで鱗が広がったのかしら……」
ディーゴに思い当たることがないか、尋ねてみたけれどディーゴは首を横に振るだけだった。ディーゴには分からないようだった。だけど、私は薄々ながら予想がついていた。
ディーゴの鱗は、昨日から今日にかけて手から腕まで広がった。ディーゴの祖父である深きものどもに夢で触れられた原因だった。そうであれば、今回も誰か超常なる存在に触れられたと考えるしかない。
そして、その誰かといえば恐らくはニャルラトホテプだった。
「ディーゴ、あなたはこれから大人しくしていた方がいいわ」
「なんでだよ? 俺が役に立たないからか? 頼む! もう一度チャンスを与えてくれ。祖父と約束したことは守り通したい」
「別にディーゴが足手まといだからって訳じゃないのよ。あなたが心配だから言っているの。学園の中に邪神が潜んでいる以上、あなたが下手に動けば深化――その鱗の範囲が広がっていくと思うわ」
「どういうことだ? 邪神ってなんだ?」
私は扉の先であったことを伝えた。不思議な本の森が広がり、恐ろしい魔術書<ネクロノミコン>があり、圧倒的な力で周囲をねじ伏せた邪神、ニャルラトホテプが現れたこと、そして私が推測したことを伝えた。話しているうちに鈍いディーゴも流石に白い顔を青くした。
「その、ニャルラトなんとか言う邪神に俺が眠らされたのか?」
「たぶんだけど。きっとニャルラトホテプはディーゴに顔を見られることが嫌だったのよ。だって、学園の学生として潜入しているみたいだし。もしかしたら、あなたの知り合いなのかもしれないわ」
「そうか。それで、もし学園で俺がニャルなんとかに出会ったら邪神の影響を受けて鱗が広がるかもしれないのか」
「そうよ」
「クティアーナ嬢の心配はわかった。だけど、まだ納得していない。どうしてクティアーナ嬢はそんなに邪神に詳しいんだ?」
ディーゴに問われて私は悩んだ。どう答えれば正解なのだろう。正直に話せば、前世で知ったと答えるしかない。だけど、輪廻転生の価値観がないこの世界で前世の記憶があると信じてもらえるだろうか。突飛な話だとまともに聞いてくれないかもしれない。でも、ディーゴは夢で深きものども<ディープワンズ>に会うという超常現象に遭遇している。転生の話を受け入れてもらえる余地があるかもしれない。それに、ここまで協力してくれたディーゴに嘘をつきたくなかった。
「実は、私は前世の記憶があるの。前世で本を読んで知っていたのよ」
「ということは、前世でクティアーナ嬢は神官だったのか?そんな異教の神に詳しいなんて」
予想通り、ディーゴは前世の話を頭から否定しなかった。
「神官ではなくて、ただの一般人だった。前世では実在しない創作された神話として語られていたの。それが、この世界に来て本当に現れるなんて思いもしなかった」
私の言葉にディーゴは眉を顰めた。
「どういうことだ? 創作って、作り話だってことか?」
「そうね。複数の人によって書かれた小説だった。最初の発案者はラブクラフトという人なんだけどーー」
最後まで言い終える前に、ディーゴが立ち上がった。ディーゴの瞳が冷たく鋭く私を見下ろした。
「もういい。作り話には違わないんだろ。そんな不確かな話に付き合わされるなんて馬鹿馬鹿しい。クティアーナ嬢を信じた俺が間違いだった。
祖父には悪いが、俺は別の方法でこの病気を治してみせる。
じゃあな。眠りこけてしまって悪かった」
「待って! まだ全てを話してないのに」
真夜中の図書館に消えていくディーゴの背中に呼びかけたけど、ディーゴは振り返らなかった。私の声は絶望で染まった闇の中へ吸い込まれた。
ディーゴは私を信じてくれなかった。
せっかく仲間ができたと思ったのに……。
私は、再び一人ぼっちになってしまった。
神様、これが私の運命なのでしょうか。