第5話 2-2
「待ってましたわ、ディーゴ様」
「どんな所に呼び出されるのかと思ったら、図書館か。今日も行っていたのに随分と図書館が好きなんだな、クティアーナ嬢は」
「だって、仕方ないじゃない。ゲノス先生から夜に行くように指示されたのですもの」
「ゲノス先生が? クティアーナ嬢はゲノス先生と相性が悪そうだったが、どうして先生がそんな助言をしたんだ?」
「知りませんわ」
昼間の噛み合わない会話を思い出す。ゲノス先生は昔会った時はそこまで会話が通じないタイプだとは思わなかったのだけど。改めて思い出せば、ゲノス先生の表情に違和感があった。声や口ぶりが喜んでいるようなのに、表情が一切変わらなかった。まるで、人形のように無表情のままだった。
その事実に気がつき、私は身震いをする。余計なことを考えないように、目的の扉の前まで早足で進んだ。重そうな石の扉だ。手のひらに掲げていた魔法の灯りを扉にかざす。
「ここが、今日の目的の場所よ」
「こんな扉あったんだ。随分と古そうだ。この建物より古いんじゃないか?」
「鋭いわね。確かにこの扉の様式は、図書館が建てられるよりも前のものよ。ほら、ここ。四隅に彫られているレリーフ。これは500年前に流行した意匠なの」
「そうすると、この扉は500年前に作られたのか?」
「これが本物でしたらね。
ただあまりにも劣化がないですし、最近作られたレプリカの可能性が高いですわ」
「そうなのか」
ディーゴは残念そうに言った。ディーゴはただ素直に扉が古い物じゃないことにガッカリしたようだ。これだけ単純だと羨ましい。
もし仮に本当に500年前に作られたとして、500年前の建築物が全く劣化がなく作られた当時の姿を保っていることが異常なことだと思い至らないのだろう。単純なディーゴが一緒だと、私も考えすぎなくて済むから助かる。嬉しい想定外だ。
考えすぎは発狂の元だものね。
「なあ、中には何があるんだ?」
「それをいまから確かめるのよ」
私はゲノス先生からもらった怪文書じみた呪文を取り出した。
「うわっ、なんだそれ」
「ちょっと黙っててくださる?」
ディーゴが呪文を見て、大袈裟に驚いたので睨んで黙らせた。まったく、夜に寮を抜け出している緊張感がないのかしら。一応、規則違反なのよ。
扉の真正面に立って、呪文を読み上げる。書いてある通りに読み上げようとすると、自然と昆虫のざわめきのような異様な声になる。
「おい、それ本当に呪文なのかよ」
ディーゴの疑問に私も同意した。本当にこれは呪文なのか。呪文にしては異様だ。この世界のどこでも聞いたことがない音節。これを教えてくれたゲノス先生のことが怪しく思える。
「確かに呪文だとゲノス先生は仰ったわ。だけど変ね。何も起こらないじゃない」
指示通りに呪文を唱えたけれど、目の前の扉に変化はなかった。扉が開いたり、横にずれたり、倒れたりする様子は見られない。
私が扉をどうにかして開けられないか調べていると、ディーゴが肩を叩いた。
「おい、クティアーナ嬢、足が……」
「足がどうしたの?」
ディーゴに促されて床を見下ろした。すると、私の足が消えている。足元の床に描かれたモザイク画がくっきりと見えた。
「な、なによ、これ……」
動揺して口から意味のない言葉を出すも、どんどん透明になる範囲が広がった。広がるスピードが加速しているようで、すぐに私の胸元まで透明になった。
「クティアーナ嬢!」
ディーゴは私を引っ張ろうとしたけど、その腕は宙を掻いた。私はその時には消えてしまったからだ。呪文の紙切れを残して。
私の視界が真っ暗になった。
「いたた、ここはどこなのかしら?」
気がつくと、私は地面に倒れていた。そう、図書館の床ではなく地面だった。千切れた草の香り、湿った土の匂い。間違いなく地面だった。
「ここは森かしら……」
頭を起こして辺りを見回した。周囲には木々が立ち並んでいた。先が見えないほど背の高い木々が鬱蒼と繁っていて薄暗い。立ち上がり、手近な木に手をかけようとしたら、樹皮とは違う感覚がした。
「何かしら?」
樹木の頼りがいのありそうな支えではなく、簡単に抜けそうなグラグラとした感触がした。私は呪文を唱えて小さな光を灯して、手元を照らした。
「これは、本? 木の中に本があるの?」
ただの木ではなかった。中がくり抜かれて本棚にされていた。木がそのまま本棚になっている。周りの木々にも同じように本が納められている。図書館を本の森に例える人がいるけど、ここは文字通り森の図書館だった。
「不思議な場所ね。どんな本が置いてあるのかしら」
私は何気なく本棚にある一冊に手をかけた。それは、本にしては柔らかい装丁だった。今時の本は表紙に薄い木の板や硬い紙を使うから、古い本なのだと思う。少なくとも、一般的な皮が使われていたのは500年は昔だ。私は貴重な本だと確信して、興奮気味にその本を引き抜いた。
分厚い本を灯りで照らす。そこにはくっきりとタイトルが浮かび上がった。
「ネクロノミコン……!」
私は硬直した。ネクロノミコンといえばクトゥルフ神話の代表的な魔導書であり、その写本の一部は人の皮膚を纏っているという……。それなら、この柔らかい感触は……。
「い、いやぁ!」
気味が悪くなり、手にしていた本を落としてしまった。700ページにも及ぶ分厚い本は鈍器も同じ。地面に鈍器が落ちて土をえぐる鈍い音がした。静かな森に私の叫び声が響いた。
沈黙を守っていた森に自分の声が反響していくのをじっとして聞いていると、どこからから草を踏みしめる足音が聞こえた。私の方に向かってきているらしかった。
誰か来る! ここから立ち去らないと……!
私はその足音と反対方向に向かって走った。そして、木の陰から足音の持ち主をじっと伺った。咄嗟に逃げてしまったけれど、もしかしたら私を追いかけて来たディーゴかもしれないし、ひょっとすればゲノス先生かもしれなかったからだ。灯りの魔法より魔力の消費が多くて疲れるけれど、暗視の魔法を自分にかけて見守る。
最初に見えたのは足元だった。制服のズボンの裾が見える。ディーゴだろうか。
その人物は地面に落ちているネクロノミコンに気がつき、しゃがみ込んだ。表紙を確認するため、私がしたように魔法の灯りをつける。
灯りで照らされた顔のない頭が笑った、ように見えた。
その瞬間に私の隣にあった木が倒れた。
起きたことをありのまま表現すると、謎の人物の頭が変形して長くうねる触手となり、一帯の木々を刈り取ったのだった。
私の心臓が早鐘を打つ。あと一本ズレていたら、私も無惨な木々のように刈り取られていたかと思うと、死ぬような心地だった。
更に悪いことには、同じ空間にいる謎の人物に私は心当たりがあった。
顔の無い、変形する頭部。全てを嘲るような笑み。圧倒的なパワー。
アザトースの息子にして外なる神のメッセンジャー。
這いよる混沌、ニャルラトホテプだ。
「に、ニャルラトホテプまでこの学園にいるの……?」
ああ、神様、私が何をしたというんでしょうか。