第4話 2-2
ゲノス先生が教えてくれた怪文書のような呪文を学園の制服のポケットにしまい、図書館を後にした。これから、夜になるまで時間を潰さないといけない。どうしようかと考えて、思いついた。
「昨日行けなかった買い出しにいきましょう」
街へ出るため外出許可をもらい、門の外へ近づくと背の高い、よく鍛えられた騎士らしき人影が見えた。ディーゴだ。私は昨日のことを思い出した。あの鱗のついた白い手。今日は手袋をつけているようだった。
病気なのか体質なのか私には判断できないけど、繊細な問題には違いない。私はややこしいことに関わりたくなくて、門に近づけないでいた。
「どこか行かないかしら。門を通って外に出たいのに、貴方がそこにいたら出られないじゃない」
ディーゴに聞こえない遠くから文句を言う。少し待ったけれど、ディーゴは動きそうになかった。私は仕方なく門に背を向けて寮に戻ることにした。
「クティアーナ嬢、ここにいたのか」
後ろから声をかけられた。最近こういう事が多い気がする。油断のしすぎかしら。
私は強ばる頬で無理に笑顔を形作って、振り向いた。
「ごきげんよう、ディーゴ様」
「ちょっと、時間いいか? 話がしたいんだ」
ディーゴは私の硬い表情など気にせずに、要求をぶつけてきた。私からすれば気軽に盛り上がる話題なんて無いのだけど、ディーゴの途方に暮れたブルーグレーの目に、私は首を縦に頷いてしまったのだった。
「実は、授業の終わりに、クティアーナ嬢を教室まで迎えに行ったんだ。だけど、クティアーナ嬢は授業を休んでいると聞いて驚いた。
クティアーナ嬢は一体どこにいたんだ?」
「図書館で探し物をしてましたわ」
「ふん、そうか。それは昨日の俺の手について調べるためか?」
「いや、違いますわ! それとは別のことを調べていたのよ」
「とにかく、それはどっちでもいい。どうせマトモな図書館から調べたって出てこないから」
「一体何のお話?」
「とぼけるなよ。クティアーナ嬢は昨日俺の手をはっきりと見ただろう。俺の手の異常さに気がついていたじゃないか」
「え~っと、ああ、そう! ひどい手荒れだったわよね。お辛そうだなって思ってたわ。その後はどうなったの?」
「見たいか?」
私は首を横に振ったけど、それを無視してディーゴは手袋を外し、制服の袖を捲った。
「っ!」
私は声を上げそうになったのを必死で抑えた。口元強く噛み締める。そうしなければ、声が漏れそうだったから。
ディーゴの白い手にはびっしりと鱗が生えていた。薄くて透明な鱗がキラキラと日の光を反射していて、それだけ見れば綺麗とも思えるのに、腕毛を巻き込みながら肘まで覆っている様は理解し難くておぞましかった。
「昨日から急にこうなったんだ」
「痛く、ないの?」
「不思議と痛みはない。ただ痒みがある。痒みに耐えかねて皮膚をバリバリ掻いたら、皮膚が剥がれて下からこんな鱗が顔を出してきたんだ」
うっ、正気度を失う話だわ。腕を掻いたらやわらかい皮膚がべろりとめくれて鱗が出てくる様子を想像してしまった。もう二度と腕を掻けない。
「なあ、教えてくれ。これを治す方法を」
「なぜ私に聞くの? 私はお医者ではないわ」
「クティアーナ嬢なら知っていると聞いたんだ」
「誰から?」
「祖父からだ」
ディーゴの返事を聞いて私は血の気を失った。ディーゴの祖父は、10年前に死んでいる。ディーゴ、どうしたの? 気が触れたの?
「ちょっと、待って。貴方のお祖父様はとっくに亡くなっているでしょう。死んだ人がどうして、話せるのよ?」
「実は祖父は亡くなっていなかった」
「えぇっ?!」
「信じられないよな。俺もだ。だけど、本当なんだ。昨日みた夢の中で俺は祖父に会った。俺は海底にある奇妙な作りの高層建築が建ち並ぶ都にいた。そこで祖父に会ったんだ。全身が鱗に覆われて、目がぎょろぎょろと動く、巨大な魚の顔をした祖父に。祖父の人間らしいところといえば、魚の胴体から伸びている長い手足だけだった。
祖父は俺の右腕を掴んだ。そして、こう尋ねた。
『この右腕が気になるか?』
その声が記憶のままの厳しい祖父のもので、俺は、理解してしまったんだ。祖父は海神の眷属になって海底の偉大なる都で生きていると。思えば晩年の祖父は皮膚が弱いからと、ずっとローブを被っていた。
祖父は俺に言った。
『そんなに若いうちから眷属になってかわいそうに。我ら深きものどもの一族にとって深化は名誉な事だが』
『もう少し地上で遊びたいなら、クティアーナ嬢に会え。クティアーナ嬢に協力すればこの症状を止められるかもしれない』
俺は祖父が嘘を言っているように思えない。それにあれはただの夢じゃなかった。目覚めたら、祖父が掴んだ所が赤く腫れていて、皮膚が剥がれ落ちた後には鱗が生えた。
なあ、クティアーナ嬢、俺は祖父みたいになるのが怖いんだ。俺を助けてくれないか」
ディーゴは空気に曝されてすっかり水気を失って乾燥した腕の鱗がポロポロと落ちるほどに激しく私を揺さぶった。だが、私は反応できない。いま知った事実を消化する事で精一杯だった。
ディーゴは夢の中で祖父と交信した。ディーゴの祖父は、深きものどもに深化した。それもルルイエと思しき都で暮らしている。ということは、海の神とはまさか、本当に――
「クトゥルフ……」
「お、おい?」
「いあ! いあ! くとぅるふ ふたぐん!」
「いきなりどうした!?」
「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん!
いあ! いあ! くとぅるふ ふたぐん!」
「暴れるな! 落ち着け」
立ち上がり拳を天に突き立てて、邪神を讃える言葉を繰り返す私をディーゴは『ごめん』と言って殴った。
「落ち着いたか?」
「もう大丈夫。申し訳ないわ。取り乱したところをお見せして」
「いや、俺こそ悪かった。いくら落ち着かせるためとはいえ、殴るなんて」
ディーゴの反省した声に私は静かに微笑んだ。私としては、殴ったことよりも心の準備をする間も無く、SAN値が削れる話をしたことを謝って欲しかった。
「なあ、俺を治す方法を知っているか?」
「残念ながら知りませんわ」
当然ながらただの人間である私は知らない。というか、前世の知識によれば深化を止める方法なんてなかった気がする。
「そんな、俺はどうすればいいんだ……!」
「ディーゴ様、落ち込まないで。住めば都と申しますし、海の都も意外と楽しいかもしれませんわよ」
「諦めが早すぎるだろ。俺が祖父みたいになる前提で慰めるな」
「仕方ないわ。大いなる力に人間が争う方法なんてないもの」
だからこそ、私はアザトースの召喚そのものを防ぐ方法を探している。矮小な存在の人間が外宇宙からの脅威をどうにかするなんて、考えることすらおこがましい。
神に対抗できるのは、神だけなのだ。
「だが、俺は祖父からクティアーナ嬢に協力すれば治ると教えられた。だから、俺はとにかくクティアーナ嬢に付き従うぞ」
ディーゴは祖父から聞いた話を信じているらしい。私に協力するつもりで、待ち伏せしていたようだ。迷惑だけどディーゴの必死な顔を見れば、断っても簡単に引き下がりそうにもない。それなら、今夜の探索の道連れにしようか。
「では、今夜付き合ってくださる?」
「もちろんだ」
ディーゴは私の誘いに潜む危険を確かめもせずに頷いた。やった、これで肉盾を確保できた。危険そうな魔導書はディーゴに読んでもらおう。私はニヤリと笑った。いま、とっても悪役っぽいと思う。
そんな私たちを見ている黒い影があることをこの時は知りもしなかった。