第3話 2-3,2-2
卒業パーティーの日にアザトースが召喚されて、世界が滅亡した悪夢を見た。しかし、その悪夢は現実だった。
世界は一度終わったのだ。だが、何某かの力によって時間が卒業パーティーの日の3日前に引き戻されて、私は2週目の世界を送っている。
「ううぅっ」
自覚すると、今まで抑え込んでいた記憶が頭の中に流れ込んできた。1週目の今日、私は2週目と同じように後ろからリリアンアタックを受けて顎を怪我した。そして救護室に行き湿布をもらって授業を受けた。その時、ディーゴには会っていない。
授業が終わると、私は街へ買い出しに出かけた。国外追放されて庶民落ちしたときに役に立ちそうな品々を買い込むためだった。買い物を終えた後は寮の食堂で夕食を取り、自室に戻って日記をつけて就寝した。
「アザトースが現実にいるなんて……ここが異世界とはいえあり得ない」
そうだ、あり得ない。前世ではクトゥルフ神話はフィクションだった。フィクションだからこそ、理不尽な宇宙からの脅威を恐怖し、享受していた。なのに、クトゥルフ神話の最強の神格であるアザトースが存在するって?
そんなこと、理解してしまったら発狂してしまう。それこそ1週目の私のように発狂して死んでしまう。
「あー、もうっ! これ以上考えていられないわ。寝るわ。寝ればなんとかなる。うん、うん」
私は全てを一旦忘れるためにベッドに飛び乗った。ふかふかの毛布に身を委ねると、あっという間に眠りについた。
次の日、目が覚めた私が最初にしたことは日記を再び確認することだった。
「うわあ……」
日記には新たなメッセージカードが挟まれていた。
そこにはこう記されていた。
『アザトース召喚まで、あと2日』
カードの主は、ご丁寧にカウントダウンしてくれるらしい。
当然ながらカードを残したのは私ではない。なら、誰なのか。私は最期に見たあの黒く蠢く影を思い出した。
「人間の理解を超えた存在――盲目白痴のアザトース」
だけど、すぐにその考えを否定した。
「ないわね。アザトースは些細なことに構わない。アザトースは自然現象に近い存在で、宇宙そのものだもの。こんな手の込んだことができるはず、ないわ」
クトゥルフ神話の中で最も強大な力を持つアザトースに知性はない。アザトースと敵対する旧神と呼ばれる大いなる存在が知性を奪ったという話もあるが、意見が分かれている。とにかく、アザトースは強大な力とは裏腹に知性を持たない存在だ。アザトースは混沌とした宇宙の根源であり、この世の全てはアザトースが寝ている間に見ている夢だという説もある。
「邪神が現れて世界が崩壊した後にループするなんて、悪夢みたい。いっそのこと、本当に夢であればいいのに」
全ては夢で、目が覚めたら何事もなく前世に戻れるのではないかと心の隅で願い続けていた。あくびを噛みしめ過ぎて顎が痛くなるほど退屈で平和な日本の日々が懐かしい。
ゲームの世界に転生したと気が付いた時は嬉しかった。自分の好きなキャラクターとそっくりな人物が生きて動いているのだから。だけど、ヒロインが現れてゲームの強制力でイベントが起きるようになってから一変した。
それまで親しくしていた王太子、ディーゴ、リュシアン、それにゲノス先生にまで嫌われるようになって、孤立するようになった。身に覚えのない悪事を責められて辛かった。悪役令嬢だから誰にも弱音は吐けないけれど。
アザトースが完全に目覚めたら、この世界は終わるのだろうか?
それはいい事のように思えた。
アザトースが目覚めて、皆が一瞬で消え去るならいいじゃない。苦しまずに死ねるのだから。この世に蔓延る理不尽な事柄、苦しみも、悲しみも、全てが一瞬で無かったことになるなら、いいじゃない。どうせここはゲームの世界。ぼっちの悪役の私が幸せになることなんてないんだし、こんな世界、リセットしてしまったっていいわ。
しかし、私の理性はすぐに反論した。
いや、ちがう。ちがうわ。苦しまずに死ねないわ。
私は1週目のループの最後を思い出した。そうだ、アザトースは最後の最後に最大級の恐怖を植え付けて世界を終わらすのだった。全然楽じゃない。苦しすぎる。私だって、もう一度あの恐怖を体験するのは絶対に嫌だった。
それに、いくら私個人が辛い目に遭っているとはいえ、この世界に生きる人たちが消えてしまっていい理由にならない。
「アザトースにこの世界が壊されるのは嫌だわ。なら、それを阻止する方法を考えないといけないわよね」
椅子から立ち上がると、私は窓から空を見上げた。
「邪神さんたち、人間を舐めないでよね」
「とは言ったものの、一体どこから手をつければいいのかしら」
アザトース召喚阻止を目標に掲げてみたものの、手がかりは少ない。
「まず、わかっていることから整理しましょうか」
私は嫌々ながら誰かのメッセージを日記から除けて、これまでのことをまとめた。
ループ開始日(卒業パーティ3日前)
・リリアンに後ろから突撃される
・顎を治療するため救護室に行く
ループ一回目:先生に湿布を貰う
→街に買い物に行く
ループ二回目:ディーゴに会う
→寮に戻って寝る
「ディーゴの手……あれは何だったのかしら。アザトースが存在しているなら、本当に深化している……?
いや、まさかね。あれはただの皮膚病よ。そんな簡単に神話生物がいたら私の正気が保たないわ。
それよりも重要なことは、ループしても完全に同じことを繰り返すとは限らないってこと。つまり、行動次第で未来を変えられるのよ! これは大きな発見だわ。ゲームの強制力みたいにイベントが不可避って訳じゃない。これだけでも最高よ。
さて、それじゃあ二回目のループが終わっていない残りの3日についても確認しましょうか」
ループ開始から2日目(卒業パーティ2日前)
・最後の授業を受ける
・噴水でリリアンをみかけ、王太子に睨まれる
・裏庭の猫に最後の挨拶をする
ループ開始から3日目(卒業パーティ前日)
・卒業式の準備をする
・リリアンが階段で落ちるところに遭遇し、濡れ衣を着せられる
ループ最終日(卒業パーティ当日)
・王太子によって私が婚約破棄される
・アザトースが召喚されて世界が終わる
・世界が終わると3日前に戻る
「こうしてみると、イベント発生場所の側を通り過ぎただけで罪を着せられるのね。取り巻きもいないし、嫌がらせなんてしていないのに。本当に理不尽だわ。
なら、誤解されようがない行動をすればいいわ。リリアンが噴水に落ちたり、階段から落とされるタイミングがわかっているのだから。
イベントを回避できれば断罪されることもなくなるし、そうしたら案外アザトース召喚も回避できるのではないかしら。
それともそれは楽観視しすぎ?」
私の断罪後にアザトースが召喚されることはわかっていても、断罪とアザトースの召還の2つに因果関係があると判明していない。ないとも限らない。
断罪されるような行動を避けつつ、アザトース召喚も阻止する方向で動くべきだろうか。
「そうなると、問題はアザトース召喚の犯人が誰かということよね?」
状況からしてアザトースは誰かに召喚されたと思う。アザトースが自分でやってくるとは思えない。それに、見知らぬ誰かからも『召喚される』とメッセージを残してくれているし。素直に誰かがアザトースを召喚したと考えていいだろう。
邪神を召喚するには専用の呪文が必要だ。呪文は大抵の場合、魔導書に書かれている。他の一般的な魔法と違って諳んじることはできない。恐らくだけど、その理由は人間の知能では理解不能な意味不明の言葉の羅列が永遠と続いているからだ。だから、邪神を召喚するときには必ず魔導書があるはずだ。
もちろん例外はある。だけど、今の時点ではとんでもないレアケース、具体的にはアザトースを召喚するのに魔導書や呪文を必要としないレベルの神格――アザトースの息子で代理人であるニャルラトホテプとか――が召喚しているケースは考えない。考えたくない。だって、ニャルラトホテプが犯人(犯神?)だったら、ただのひ弱な人間である私がどうこうできる相手じゃないし。
それに、いくら何でもアザトースが存在するからって、ニャルラトホテプまでこの世界の、この学園にいる訳ない。いたら邪神のデパート状態よ。いないわよね?
「とりあえず、邪神犯人説はややこしくなるし、考えるのをやめるわ。
少なくとも、一回目の記憶によればアザトースは、学園の大広間の天井から現れたように見えたわ。つまり、あの学園の大広間が召喚の中心になっていた。あの場に犯人がいた可能性がある。
すると、犯人は学園内で呪文を入手した、もしくは既に手元に所持していたのかしら?
どちらにせよ、学園内に呪文が存在する可能性があるわね。
そういえば、この世界で邪神たちはどういう扱いなのかしら?」
調べ物といえば図書館だ。幸いなことにこの学園の図書館は王国内でも有数の蔵書数を誇る。何か手がかりがあるかもしれない。
私はさっそく図書館に向かった。最後の授業?そんなの知らない。それより、世界の存亡の方がずっと大事だから。
無数の本棚が並んでいる図書館は静まりかえっていた。授業中なので、学生が一人もいないからだった。そうでなくても、吹き抜けの天井までぎっしりと隙間なく詰められた本たちが音を吸い込んでしまいそうだった。
これなら誰にも詮索されずに調べ物ができそう。万が一、ネクロノミコンとかがあったら、読んでるだけで変人扱いされそうだもの。いや、ネクロノミコンは邪神にまつわる様々な儀式や呪文が書いてあるから、見つかったら色々と楽なのだけど!
学園の図書館はル・ルイエール王国でも有数の蔵書数を誇る。何かしら文献があるはずだ。
「えーっと、邪神邪神……って、そんな分類ある訳ないわよね。神話とか、宗教かしら? それとも召喚魔法? あー、こんなとき、クトゥルフ神話TRPGなら図書館技能で判定すればいいのに!」
現実は、図書館技能なんてない。私はしらみつぶしに片端から関係ありそうな本を集めて、机の上に重ねていった。世界の神話集、宗教の解説、召喚可能な生き物一覧……。山のように積み上げられたそれは、簡単に読み終わりそうにない。私はひたすらページをめくりながら、関係しそうな単語――クトゥルフとか、アザトースとか、ニャルラトホテプとか――を探した。
閲覧室に設られた100年前の古い時計の針が昼の12時を示したころ、私は全ての本に目を通し終えた。
「ない、ないわ。全然ない。ないのよ、どこにも!」
私は叫んだ。これだけ苦労して探したのに成果がひとつも得られなかったからだ。この世界には絶対的に崇められている主神を始めとして数多くの神様がいる。だから、そのうちの一つくらいには神話生物の名前があっても良さそうだった。なのに、一切見つけられなかった。
「直接的な表現はなくても、それらしい記述があってもいいのに。全くない。盲目白痴の神が存在を示唆する一文すらない。どうしましょう。困ったわ」
「何を困っているのですか?
それは、私の授業を欠席してまで調べるほど重要なことでしょうか、サヴィア公爵令嬢」
頭上から灰色の厳しい声が聞こえてきた。会いたくない人ランキングNo.4、攻略対象のヤン・スーイ・ゲノス先生だ。ゲノス先生は若くして学園の教師になった魔法理論の天才で、ついでに攻略対象だからクールなイケメンだ。私のクラスの担任でもあって、学園最後の授業はゲノス先生の魔法理論だった。
よりによって、サボった授業の先生に会うなんて気まずいことこの上ない。リリアンを虐めていると誤解されているせいで、私は先生から嫌われているし。
「ゲノス先生、いや、あのこれはですね……」
私は上手い言い訳が咄嗟に思いつかず、しどろもどろになった。
「神話に、宗教に、召喚魔法……いまひとつ纏まりが見えませんね。まさか、神様でも召喚するつもりですか?」
「いえ、滅相もございませんわ。ただの知的好奇心ですの」
妙に鋭いゲノス先生の指摘に、私は必死で否定した。神様の召喚なんてとんでもない。むしろ、私は召喚を阻止する立場だ。
笑って誤魔化そうとするけど、ゲノス先生の視線は変わらず厳しい。私はなんとか話を逸らそうとした。
「そ、そうだったわ!
先生にご質問したいことがありまして!
先生は様々な魔法にお詳しいですよね。それで、お聞きしたいのですけど、時間を巻き戻す魔法ってありますか?」
「時間を巻き戻す? それは、タイムリープを指していますか?」
タイムリープというのは、前世のSF用語で使用者の精神だけが過去や未来に移動することを意味する。私の身に起きている事は、たぶんタイムリープに当たるのだろう。勢いで聞いた質問だけど、私が陥っているループの解決の糸口になるかもしれない。せっかくなのでこのまま質問を続けることにした。
「そう、そうです。タイムリープです。タイムリープを起こす魔法はありますかしら」
「そんな魔法があったとして、貴女が知ってどうするのです?」
「私はこう思っていますの。人間はもっと時間を超えて生きるべきだって。時間という狭い檻に囚われたこの状況に困惑しているのです。自由に時間を跳びたいと思って、過去に戻る方法を探しているのです」
誤魔化すために適当に思いついたことを言った。正直に今の自分の状況を説明しても信じてもらえないと思うし。
だけど、私の妄言を奇妙なことにゲノス先生は神妙な顔で頷いて聞いていた。
「そうですか。貴女もそういう事ですか。
道理で貴女はこの時代の人間にしては、知識レベルが高いと思った。それなら納得です」
「あの、先生?」
「いいでしょう。貴女にはこの世界の真実を知る権利があるようです。
今夜、図書館の奥にある扉にお行きなさい。そこでこの紙に書いてある通りの呪文を唱えるのです。そうすれば、貴女が求めている知識が手に入るでしょう。
その紙は終わったら燃やすのを忘れずに」
「えっと……ありがとうございます?」
「礼などいりません。同郷のよしみですから」
戸惑う私に対して、ゲノス先生は眼鏡をスッと上げると去っていった。なんだったのだろう。ゲノス先生は私を『同郷』と言ったけど、そんな事実はない。学園が始まる前、王都で出会った時の自己紹介によれば、先生は東方の出身だったはずだ。私の出身は西方のサヴィア公爵領で、同郷と表現するにはお互いの故郷が離れ過ぎている。一体何を指して同郷と捉えたのか、不気味だ。
「はあ、なんだったのかしら?」
意味がわからない。意味がわからないけど、とにかく疑われずに済んで助かった。
「この紙どうしましょう? 夜の図書館に行けって仰ってましたっけ。確か呪文とか。鍵開けの呪文かしら?」
前世と違ってこの剣と魔法の世界には、呪文が溢れている。だから、何の警戒もなく私はその紙を見た。
「いやっ、なにこれ?」
開いた瞬間に、前世の新聞や雑誌の切り抜きで作られた怪文書がフラッシュバックした。それくらい強烈な違和感をその『呪文』は放っていた。
それは、呪文にしては奇怪な文字の羅列だった。一般的な呪文は、知らない人からしたら意味不明な文字の羅列だけど、魔法理論で定義されている一定の法則に従って文字が並べられている。理論を学んだ人からすれば意味の通った文字列だ。
しかし、その紙に書かれた呪文はこの世界の理論では理解できない、意味不明な流れで書かれていた。ほぼ全ての呪文に含まれるこの世界を創造し、魔力を生み出したした神への感謝の言葉すらもその呪文からは読み取れなかった。
「こんなの、呪文じゃない。呪文に対する冒涜だわっ!」
ゲノス先生が燃やせと指示したのもわかる。そして、これだけ冒涜的な呪文が隠している情報はきっと、私が求めている物――邪神の情報――に近いはず。
「行くしかないわね。夜の図書館に」
おぞましい呪文が導く先にあるのは、どんな真実なのか。クトゥルフ神話では発狂するような何かが待ち受けていることが多い。恐怖で体が震える。
神様、どうか私に力を分け与えてください。