自宅警護が役目です~前編~
ナズナにとって三雲家の屋根の上は絶好の昼寝スペースだ。猫であるナズナには、眠るための場所を確保することが人生の最重要項目だと言っても過言ではない。だから彼女は、一軒家を持つ三雲家の飼い猫であることを日頃からとても感謝していた。
見上げれば、雲ひとつない青空。晴れがましい気分になりながら、比喩でも誇張でもなく確かに頭上にある雲ひとつない青空を眺めて、ナズナは目を細めた。
本日は誠に良い天気である。
こんな日は日向ぼっこをしながら眠るに限る。それが至福の時間だ。ナズナが座っている玄関ポーチはまだ影になっているが、敷地を一歩出た先の道路はすでに日の光を浴びている。見ているだけでも温かそうだ。
ナズナはひとつ欠伸をした。
首輪をつけていない雌の雑種。そこらを散歩している時には野良猫に見えなくもないが、その毛並みの良さからもわかるとおりナズナはれっきとした飼い猫だ。住まいはさして大きくも小さくもない一軒家。飼い主である三雲家は親子三人で構成されたさほど裕福でもない所帯だが、祖父の持家だったこの一軒家に住んでいる。
ナズナは数年前に拾われてこの家の一員になった身だが、一軒家に住まうことの喜びは彼女にとって非常に大きかった。それは、屋根の上という極上の昼寝スペースが確保されているからだ。マンションやアパートであれば余所様の家を借りなければならないが、なんの後ろめたさもなく寝る場所を持てるというのはなんとも魅力的なのだ。家の周囲に並ぶのは同じような住宅ばかりでビルの影が差すようなこともない。夏場ともなれば流石に瓦が熱くなってしまって立ってもいられないこともあるが、いまのような春も半ばの時期は心地良いことこの上ない。
そんな心地良さを得るため、ナズナはゆるりと腰を上げ玄関ポーチから庭へ下りた。
小走りで地面を進み、祖父が住んでいた頃からある立派な梅の木に前足を伸ばした。爪をかけ、手慣れた動作でひょいひょいと幹を登る。あとはこの枝を伝っていって跳んでしまえば、あっという間に屋根の上だ。
しかし、ナズナはそこで一旦動きを止めた。
まだ駄目だ。屋根の上に向けた目が、そう思わざるを得ない状況を見止めた。
ナズナの視界にあるのは、空を舞うカラスの群れと屋根の上に立つ二人の人物。そこでひと悶着起きていた。
「てめえらここまで下りてこいコラッ!」
「うるさい! わざわざ殴られにいくバカがいるかよ!」「カーッ! カーッ!」「カァーッ!」
「殴られる度胸もねえならさっさとどっか行け!」
「ちょっと待って下さい。そんな風に口を動かしていても状況は進展しませんよ」
「うるせえ! 少なくとも俺の怒りが発散される!」
「どれくらいですか?」
「億兆分の一ぐらい!」
「その程度だったら黙っててくださいよ」
「なーに仲間割れしてんだよ。バーカ」「カーッ! カァーッ!」「ガァーッ!」
一番大きなボスらしきカラスが嘲笑し、囃し立てるように周囲のカラスたちがしきりに鳴き声を上げる。
カラスたちに見下ろされている屋根の上の二人は、人物といっても正確には人ではなく、ナズナのような猫どころかひいてはそこらにいる動物ですらないものだった。その二人は、真っ赤な鬼と真っ白な鶏だった。
赤黒い肌に虎縞模様の腰布。両の目はくっきりとして大きく、口元からは牙がのぞき、金色の短く尖った髪はさながら芝生のよう。そして額からは立派な角が二本生えている。紛うことなき鬼。ただ、鬼はその身に強固な筋肉の鎧を纏っているのだが、その体躯自体は決して大きくなかった。背丈はほんの一メートルほどで、おまけに全体のバランスも普通ではなく、頭が大きなわりに体は小さな三等身体型だった。
「だぁ――ッ! うるせえカラスだ!」
鬼はその手に自分の身の丈と同程度の長さをした鉄棒を持ち、空に向かってぶんぶんと振り回している。口から放たれる怒号はやむ様子はない。
一方、それを呆れた顔で見ているのは鶏だ。こちらは鬼よりも少しばかり小さいものの、普通の鶏と比べればやや大きい体をしている。見た目には一般的な鶏となんら変わらないが、ただ一点、白い羽毛に映える真紅のトサカが特徴的だった。まるで人間の髪のように波打ってさらさらと揺れるそれは、キューティクルさえ見えてしまいそうなほどにつやつやとしていた。
「エイキ、あなたの方がよっぽどうるさいです」
「そう言うお前も小言がうるせえんだよ、シルケイ! 喋ってる暇があったら飛べ! さあ飛べ!」
「言われなくてもそうするところですよ」
鶏は鬼に向かってそう言うと、羽を大きく羽ばたかせた。すると、彼の体がふわりと浮いた。繰り返し強く羽ばたくと、鶏の姿は一息に空へと踊り、カラスの群れの周りを旋回する軌道を取る。少し浮き上がる程度の羽ばたきではなく、思うままに空を飛びまわり始めたのだ。
「よっしゃ! 絶対に落とすなよ!」
鬼は鶏にそう指示を飛ばし、振り回していた鉄棒の動きを止めた。握っていた手を緩め、片方の手のひらで柄尻を押さえるように鉄棒を支え持って、やり投げにも似た構えを取った。そして、上空のカラスたちを睨みつける。カラスたちの鳴き声が一層やかましくなった。
ナズナは一連の光景を無言で眺めたのち、
「あの数なら、すぐ終わるかねえ」
半目でそう呟いた。彼女は朝っぱらから群れを成して騒ぐカラスにも、鉄棒を振り回す鬼にも、人語を話し空を自在に飛ぶ鶏にも一切驚くことはなく、冷静かつ興味のない視線でそれを見ていた。
「どっせい!」
言うと同時、なんの前触れもなく鬼は構えていた鉄棒を空に向けて放った。風切り音を発した鉄棒は一羽のカラスを捉え、間髪入れずに鈍い音を生じさせる。
「よぉしッ!」
叫びを上げることもなく、鉄棒の直撃を食らったカラスは気を失って屋根へと落下。その落ちる先にはすでに鬼が走り込んできていた。そして、
「――さらに、どっせぇーい!」
走る勢いをそのままに、カラスに向かってラリアットをかました。腕を、大きく振り抜く。
カラスの体が激しく回転をしながら明後日の方向へ飛んで行った。
「まず一匹!」
「その調子です!」
笑みを浮かべて力こぶを作ってみせる鬼に向かって、鶏が空の上から声をかける。彼の脚には、いましがた鬼が投げた鉄棒が掴まれていた。
「さあ二投目をどうぞ」
鶏が脚を離し、鉄棒が鬼の下へと落ちてくる。鬼はそれを片手でなんなく受け取り、再びカラスたちに向けて構えた。
「次はどいつだぁ~~?」
笑みのまま、カラスたちに視線を飛ばす。
「おい、てめえら黙ってやられんな! あんなもん避けやがれ!」
ボスガラスがそう指示を飛ばすが、カラスたちだってそれができるなら言われるまでもなくやっている。その証拠に一羽残らずすべてのカラスが自分たちの周囲を飛ぶ鶏には目もくれず鬼を注視している。警戒心が最大限になっていることは明らかだ。
「せい…… のッ!」
二投目はすぐに放たれた。そして、カラスたちの警戒も空しく、それは一羽のカラスを正確に捉え、仕留めた。
「なにやってんだよ、おい!」
先ほど同様に落下するカラスに対し、鬼も同じく走り込む。
「一昨日きやがれ!」
そして今度はドロップキック。全力の蹴りを食らい、黒い塊は遠くへ飛んで行った。
カラスに命中して空に舞った鉄棒は、こちらも先ほど同様に鶏が即座に回収。
「三投目、いきますよ」
鉄棒は鬼の手に戻る。そして鬼は構える。
鬼は軽く肩を回し、カラスに向かって嗜虐的な笑みとともに言う。
「てめえら、絶対にここで糞はさせねえからな!」
「あと、巣も作らせません!」
鶏も追従する。
「いいや、今日こそ絶対におまえらをぶっ倒してやる!」
そうして三投目の鉄棒が放たれるのを眺めながら、
「……頑張れ頑張れ」
ナズナはそう呟き、盛大に欠伸をした。
住居ないし住処や寝床というのは、ナズナのような猫にとって重要であると同時にあらゆる生物にとって命の次に大事といっても良いものである。それは人間にとっても同じで、生活する本拠というのは古来人間にとっては生活を送る時間が最も長かった場所であり、生きる上で物理的な基盤となるものである。なにせそれがなければ周囲は外敵だらけで安住など得られないのだ。
そんな重要な場である住居には、勿論基盤としての安全性を維持するための機能が備え付けられている。雨を防ぐ屋根や風を防ぐ壁、視線を遮る垣に侵入を阻む堀などは当然のことながら、それに加えて寄りつく魔を払う霊的な機能も保持しているのだ。
その一例が、屋根の上でカラスと死闘を繰り広げていた鬼と鶏の二人である。彼らの正体はそれぞれ屋根の上に据えられている鬼瓦と風見鶏である。鬼瓦は屋根に乗せる瓦の一種で、そのものずばり鬼の顔をかたどったものだ。なかには鬼の面影などすでになくなっているものもあるが、その機能としては物理的な雨を塞ぐという点の他に厄除けという側面があり、瓦の乗った屋根ではよく見ることができる。一方の風見鶏も鶏をかたどった風向計であり、こちらも厄除けの意味合いを持つものである。どちらも家を守ることを願い作られたものだ。
屋根の上で暴れまわっていた姿は、本体であるモノからエネルギーだけが抜け出し実体化したもので、そんな人間の目には映らぬエネルギー体の姿をとる彼らは、ゴンゲンと呼ばれる。彼らゴンゲンは実体化した姿をもって、その家、ひいてはそこに住まう人間たちを外敵から守るために日夜奮闘しているのである。
「お疲れさん」
梅の木から軽やかに跳躍し、瓦の上に音もなく着地。ナズナは声はかけたものの二人の方に視線を向けることはなく歩を進めた。
「おう」
「どうも、おはようございます」
二人も言葉少なに返事をする。
カラスたちとの戦いはいましがた終わったところだった。三投目を終えたところで数羽のカラスが逃げ出し、何度か鉄棒が外れることもあったが残るものたちも鉄棒とドロップキックの餌食となってあっけなく退場。外敵もいなくなったこととて、ナズナは観戦を終えてこうして屋根の上にやってきたのだ。
「あー、しんどいな」
エイキが鉄棒を腰布の下に差し込むように突き入れた。鉄棒はするりとその中に隠れ、エイキの股の間に消えていく。
「これだけのことで疲れたなんて、体力落ちましたか?」
シルケイは鶏冠を軽く撫でながら言った。
「違う。体の方はなんともねえよ。今日は喉の調子が少し悪いってだけだ」
「だったら、なぜあんなに頑なに怒声を上げてたのですか……」
「そこはお前、ケンカするのに声を出さないなんてありえないだろ。勝てるもんも勝てなくなる」
「……そういうものですか?」
「そういうものだ」
「…………まあ、わたしには直接関係ないからいいですけど」
その口ぶりからは疲労は感じられないが、よく見れば二人とも微かに呼吸が荒れていた。怪我こそないものの、ひとりは自分の背丈と変わらぬ長さの鉄棒を何度となく空に向かって投げていたし、ひとりはその間ずっと羽ばたき続けていたしで、多少の疲れがあるのは無理もない。
「しかし久々に来たもんだね。一週間は姿を見せてなかったんじゃない?」
「そうですね。もしかしたら諦めてくれたんじゃないかって、淡い期待もしていたのですが」
「そんなわけねえだろ。新顔まで引き連れてきやがったんだ。まだ諦めるなんてことはねえよ」
エイキは鼻を鳴らしてシルケイの言葉を一蹴する。
「次もまた来ますか?」
「来る。絶対に来る。俺の経験上、ああいう連中はどんだけ殴られても引くってことができねえんだよ」
「あー……エイキみたいなタイプってことですね」
カラスたちの襲撃は今回が初めてではなく、それを追い払うのは彼らの日常といってもいい。カラスたちは屋根の上に糞を落としたりそこいらに巣を作ろうとしたりする厄介者で、あのカラスたちだけでなく別のカラスの群れがやってくることもある。そんなカラスたちの悪行を防ぐのは、ゴンゲンであるエイキとシルケイの使命なのだ。
二人の会話に耳を傾けながら、ナズナは棟に座り込んで毛づくろいを始めた。自分で振った話題だが、いまはこの二人と会話することより自分の毛並みの方が大事である。
エイキは腕を組み、唇を尖らせる。
「しっかし、あいつらに限らずカラスってのは大概一度や二度痛い思いをしたぐらいじゃ全然こりねえ。あれがまさしく鳥頭ってやつかね」
その何気ない一言に、シルケイの表情が少し険しくなる。
「……どちらかと言えばカラス特有の執念深さってやつじゃありませんか? 鳥全般ではなくカラスの特徴でしょう」
「さっすが。同じ鳥だけあってよくわかってるじゃあねえか」
ひゃっひゃっひゃ、と笑い声をあげる。しかし愉快そうなエイキと反比例して、シルケイは眇目で反論する。
「あんな連中と一緒にしないでください。わたしは風見鶏であって、カラスは勿論そこらの鶏ともまったく別の存在なんです。それに、あなたに頭の良し悪しについてとやかく言われるのは癪に障ります」
はっきりとそう言いきったシルケイに、
「ああぁん?」
エイキが邪悪な笑みを張りつけた顔を近づけた。
「誰がバカだって? この野郎」
「自明の理だと思っていましたが、自覚がないほどに知能が低下していましたか?」
「特別学があるわけでもないのにインテリ気取ってんじゃねえよ。お前と俺じゃ知識も知恵も大して変わらねえだろうが」
「いいや、あなたには浅はかさがある。それを加味すれば総合的な知能で劣っているのは明白です」
あ、始まったな。ナズナは毛づくろいに集中しながらそう思った。
「なんだその言い草は。仮にお前の言ってることがあってるとしても、お前のその立派な頭はカラスどもを追い払うのになんの役にも立ってねえだろ」
「投げた鉄棒を回収させる役回りをさせておいて、そっちこそその言い草はなんですか! それにあの戦法はわたしがいなければ成立しないんですよ!?」
「でも実際にカラスをぶっ飛ばしてんのは俺だ。貢献度が違う」
「そんな偉そうなことを言うなら、もうちょっと命中率を上げてくださいよ。今日も五割以上外してたじゃないですか。明後日の方向に飛んで行った鉄棒は威力もそのままだし、取るのが大変なんですから」
「そんなの一度体で止めればいいだろ!」
「死にますよ!」
二人の会話は脱線していき、ナズナはそれを指摘するでもなく毛づくろいをしながら聞き流す。
「そんな文句を言うなら自分でやれ自分で! 飛び蹴りでもかまして落としてやれや!」
「それができるなら初めからそうしてます! わたしだって連中に巣を作られたくなんてありませんから!」
そう言うシルケイの背後、棟の端にはシルケイの本体である小さな風見鶏が立っており、その根元には木の枝で組まれたこぢんまりとした巣があった。これはカラスの作ったものではなく、シルケイの巣である。ゴンゲンであるシルケイには本来巣など必要なく休息したくなれば本体の中へ戻ってしまえばいいのだが、普段本体の外に出ている時に落ち着けるスペースが欲しいという個人的な好みから巣を持っているのだ。
「この屋根の上に存在していい巣はわたしのものだけです! カラスの根城なんて許可することはできません!」
「その文句はカラスに言え!」
ますます脱線を進めていく二人に対し、
「どっちもどっちなんだから、まあ仲良くしなさいよ」
毛づくろいを終えたナズナがやっと口を開いた。体を横たえ、すでに寝る態勢に入っている。
言い争っていた二人は揃って目を眇め、ナズナの方を向く。
「この雌猫め、新参者のくせに生意気な……!」
「新参って…………もう八年目になるけど?」
「そうだ。だから新参だ。俺なんかこの家と一緒に生まれたから、もう四十年だ」
腕を組み、ふんぞり返るエイキ。
「ちょっと待って下さい。それじゃあわたしも七年しかいない新参ってことですか?」
「そうだよ。当たり前だろ」
エイキは素っ気なく答えた。
「いやいや、なにまとめて批判してくれてるんですか?」
「お前らは新参だから古参の俺の方が偉い。それだけの話だ」
「なにが古参ですか。もう老害ですよ老害」
「なんだとコラ!」
二人の言い争いが再開した。
ナズナは八年前、子猫の時に三雲家の妻兼母である翔子に拾われた。それ以前の記憶は定かでなく年齢もいくつになるかはわからないが、ともかくこの家で三雲家の三人プラス目の前の二人とともに八年間を過ごした。
エイキはこの家が建てられた当時に屋根瓦として載せられた鬼瓦で、シルケイの方は七年前に三雲家の夫兼父である三雲飛鳥がどこかから買ってきた風見鶏である。シルケイが作られたのが何年前なのかとか、ゴンゲンの年齢に対する感覚がどうなっているのかは猫であるナズナにはわからない。ともかく言えることは、この家で過ごした時間で考えればエイキが断トツで長いということだけ。そして、四十年と十年足らずとを比較すれば、老害と新参という評も間違いではないだろう。
一応当事者ではあるのだが、ナズナは目の前でなおも繰り広げられている言い争いを第三者目線で眺め、またひとつ欠伸をした。ぽかぽかと暖かく日差しが心地良い。自然と欠伸も出てしまう。
こういう日は、やはり寝るに限る。
口喧嘩の声をBGMに、ナズナは静かに眠りについた。
時刻は昼を回り、ナズナは一旦屋根から下りた。ナズナ愛用のお椀には、すでに翔子がキャットフードを入れてくれていた。それをがつがつと食べ水をしこたま飲み、腹を満たしてから再び屋根の上へ上がる。
今日は一日屋根の上で過ごそうか。空模様を見てそんなことを思い、屋根の上の定位置に向かう。カラスが来るのは基本的に朝だけで、それ以外の時間帯には取り立てて屋根の上になにか危険がやってくるということはない。ゴンゲンは家屋とそこに住まう人間を守る存在だが、それを脅かす存在自体はそう多くあるわけではない。彼ら二人に限らず、ゴンゲンというのは具体的になにかの危機に対処するような事態に遭遇することは滅多にないのだ。
ナズナが定位置につき毛づくろいを始めると、屋根のど真ん中では鬼と鶏の二人が何やら始めようとしていた。
エイキが鉄棒を持ちだし、持ち手を上にして目の前に立たせて支える。シルケイは軽く羽ばたきその持ち手の先端部分、束にあたる箇所に着地した。
ナズナはその光景を一瞥し、朝同様に口を開くこともなく毛づくろいを続けた。ナズナにとってそれは見慣れた光景だったからだ。
エイキが立てた鉄棒の上でシルケイは器用に片足立ちになり、少しばかり羽を広げてゆらゆらと揺らすように動かした。すると、シルケイの体がその場でゆっくりと回転を始めた。速度は徐々に上がっていき、姿形はまるで違うもののバレリーナのようにくるくると安定感のある回転を見せる。羽を広げ鶏冠を靡かせ、くるくるくるくる。
そうやってまわり続けていると、出し抜けに、
「コケコッコーッ!」
一鳴き。空に響き渡る大音量の鳴き声だ。それを合図にエイキが鉄棒を突き上げ、シルケイは宙を舞った。
きりもみ回転をしながら放物線を描き、勢いをそのままにエイキとナズナの間に着地する。数枚の白い羽根が辺りに散ったが、衝撃はしっかりと殺されていてシルケイ自体は無傷だった。
「なにか出たか?」
エイキが着地したシルケイの背中に声をかけた。ぶっきらぼうな物言いだが、これは朝方の口喧嘩を引きずっているわけではない。喋り方が元から粗野なだけだ。
シルケイは体ごと振り返り、エイキの方をまっすぐに見た。あれだけ回転していたのに、目を回しているような様子は微塵もない。
「これは…………一大事です」
シルケイは静かにそう言ったのち、
「この家に、隕石が降ってきます」
端的にそう述べた。
「なにぃ!?」
エイキが声を上げ、ナズナも体を舐めるのをやめてシルケイの方を見た。
「一週間後、ここ目掛けて隕石が降ってきます。時刻は午後三時ちょうど」
「マジか?」
「マジです。予知が絶対なのはあなたもわかっているでしょう?」
言っている内容の衝撃度に比べて、シルケイは極めて落ち着いた口調でそう話した。
いま二人が行っていた珍妙な行動は、この家を守るための危険予知である。予知といっても厳密には占いのようなもので、シルケイが頭の中で念じた事柄に対し、その答えがイメージとして浮かんでくるのだ。未来に関するものであれば向こう一週間分はわかるらしい。よって二人は週に一度のお決まりとしてこの危険予知を行っている。
居つく先を持っていない流浪のゴンゲンの来襲を予知したり、台風によって屋根に損害が出ることを予知したり。さらには、三雲家の人間の病気やけがを予知したりすることもあった。
この予知には、家を守ることを使命としているゴンゲンたちが皆共通して持っている第六感を用いているらしいのだが、猫であるナズナにはそこら辺の仕組みはなにひとつわからないし知ろうという気もなかった。シルケイが鉄棒の上で回転する一連の行動の必要性もまったくの謎であるが、ただ、ナズナはこれまでの経験からその予知が信頼性のある正確なものだという認識は持っていた。
だから、ナズナは予知を聞いての率直な感想を口にする。
「隕石なんて落ちたら、この家どころか辺り一帯が衝撃波で粉々になるんじゃないの? そうなると規模が大きすぎて防ぐ手段なんてないでしょ」
「元々の大きさがそれほどではないんですよ。落下する間にも削られていって、直撃の瞬間の大きさは人間の頭ほどもないぐらいでしょう」
「それなら逆に被害が出ないんじゃない?」
「おそらく屋根は貫通するでしょうし、運が悪ければ家の中にいる奥様に当たることだってありえます」
隕石の直撃を受ければ、当然大怪我では済まない。そしてその危険はナズナにだってある。
「そりゃあ、やばいな。翔子が自力で避けることなんてできるわけがねえし」
「隕石を自力で避けられたらそりゃ人間じゃないね」
「ちなみに頭の中に浮かんだ映像ではエイキが顔面をぶち抜かれていました」
「それ言う必要あるか? 俺に対する悪意がないか?」
エイキがシルケイに詰め寄る。
シルケイはその顔から目を逸らしつつ、
「ともかく、隕石をどうにかしなければなりません。奥様を守るのは当然、家の方も無傷ですむようになにかしら手を打たねば」
エイキの追及を避けるように話を進めた。一週間後は平日であり、飛鳥と娘の更沙の二人はそれぞれ会社と学校に行っているはずだ。危険が及ぶ可能性があるのは翔子のみである。ナズナに関しては自分の身を守ろうと思えば家の敷地内から出ればいいだけ。予知が正確であれば、それだけで隕石の直撃は免れることになる。
「そうなるとどうしたもんか……」
エイキはそれ以上シルケイに絡むことはせず、大人しく身を引いた。そしてその広い額に手をあてて思案する。
ナズナも同じように策を考えてみるが、
「――無理だね」
一瞬で結論を出してしまった。
「おいコラ、クソ猫! なに勝手に終わらせてんだ!」
「だって落ちてくる隕石から家と人間を守るなんて無理でしょうよ。あんたはなにか案があるっていうのかい?」
「そりゃお前……」
エイキは僅かに言いよどんだのち、
「例えば、隕石の軌道を反らすとか」
「無理」
「無理ですね」
「なんだよシルケイまで! じゃああれだ、家をなにかでぐるっと囲んで防ぐってのは――」
「はぁ?」
「なにを言ってるんですかあなたは」
「なんでそんなに冷たいんだよ!」
「前者は他に被害が及ぶ可能性がありますし、後者は実現すること自体に無理があります。寝言は寝てから言ってください」
「辛辣すぎるだろ! そんなに言うならお前らも案を出せよ!」
「じゃあ、あたしからひとつ。落ちてくる隕石をエイキが屋根の上で受け止めて犠牲になる作戦。これで家や人間に被害は出ない」
「なるほど!」
「なるほどじゃねえよ! その作戦はてめえらで実行しろや!」
エイキが額に青筋を浮かべてがなり立てる。
「だってゴンゲンは本体が無事ならその体が粉々になろうがなます切りにされようが死ぬわけじゃないでしょ? 隕石が当たっても数秒後に復活できるでしょうよ」
「俺の感じる痛みを考えろ、痛みを!」
「それはどうでもいいですけど、威力が大して落ちない可能性がありますから却下ですね。確実性が薄い」
一瞬賛同したのはどこへやら、シルケイは手のひら返しで冷静に判断を下す。
「となると、どうしましょうか」
三人は再び考え始める。
すると、数分と経たたずすぐさま口を開くものがいた。
「そんなに文句を言うなら、ぐうの音も出ねえ作戦を提案してやるよ」
エイキだ。不敵な笑みを浮かべ、先ほどまでとは一転してどこか勝ち誇ったような顔をしている。ナズナとシルケイは訝しげな表情で続く言葉を待った。
「方法は単純明快、簡単なことだ。落ちてくる隕石を打ち返す」
「は?」
ナズナの口から、思わず声が出た。
「あんたなに言ってんだい?」
「俺の鉄棒でカキーンと打ち返す。というか、打ち砕く。粉々にすれば周りにも被害は出ないだろ。これで万事解決。問題なし。だろ?」
「いや無理でしょ!」
「そうです! 無理です!」
ナズナに続き、シルケイも声を上げた。当然である。誰が考えてもそんなこと不可能であり、作戦として無謀すぎる。一介の猫でしかないナズナでもそんなことはわかる。
「エイキ、よく考えてください。それは無茶です」
「なんでだよ」
「これまでの鉄棒の命中率から見て、あなたの腕では隕石を空振りしてしまう可能性が大きすぎます!」
「そっちの心配!? シルケイ、あんたまでなに言ってんの!?」
予想外の言葉にナズナの方が狼狽える。
「そうだぞシルケイ。飛んでるカラス目掛けて鉄棒を投げるのと、落ちてくる隕石を鉄棒で打つのとじゃ全然違うだろ」
エイキはエイキで、まるで隕石を打ち返す方が簡単であるかのような物言いである。
「それでも難しいことに変わりはありません。エイキ、あなた野球経験はあるんですか?」
「ない」
改めて確認するまでもない。
「だったら無理ですよ。現実的じゃない」
「無理じゃない! いまできなくても練習すればいいだけだろうが! 隕石落下デーは一週間後だ。今日を入れてまだ七日の猶予がある!」
「…………本気でやる気なんですか?」
「当たり前だ! やる気がねえなら初めから口にしねえ!」
「……なるほど。決意は固いようですね」
「ああ。やろうと思えばできるもんだ。世の中はそうできてる」
「ふっ…………その決意があるならわたしも手を貸しましょう」
「シルケイ……おまえ…………」
「エイキ、バッティング練習をしましょう。そして一週間後の今日、隕石を打ち返してやりましょう」
「おう!」
二人は手と羽を取り合い、希望に満ちた瞳を見つめ合わせた。
ナズナは、なに言ってるんだこいつら、と思った。
完全な置いてけぼりを食らったまま、何故だか二人の間では隕石落下への対策案が決定していた。話を聞いている限り実現不可能としか思えないが、二人の顔にはやる気しか見られない。冗談で言っているとかとち狂っているとか、そういうわけでもなさそうだ。
やっぱりこいつらはどこかおかしい。
いまから異論を述べてもこの様子では二人とも取り合おうとはしないだろう。自分たちならできるという謎のやる気と自信に満ち溢れている。ナズナにだって対案があるわけでもない。ここは静観するほかないところだ。
二人、というかゴンゲンという存在そのものに対してのわけのわからなさを再認識しつつ、ナズナはもしもの時は翔子に被害が及ばないようにできる限りのことはしようと心に誓った。