第32話 ところであなたは、ネスト、という組織は知ってますよね
イチバンさんはおれよりすこし年上で、日本で和風建築とその技術史について勉強していたそうで、コンビニのバイトは趣味みたいなものだった、と言った。こちらでは島の女王を母に持ち、その母は諸王の王(女王)ということになっていた。
「日本だと県知事ぐらいですかねー。それなりの独立した行政権があるので、江戸時代だと藩主? みたいな」と、イチバンさんは言った。ネット検索しても見つかりにくい仮名にしてあるのは基本だから、それが本当なのかどうかは不明である。
イチバンさんによると、スペインの船が来るまで、諸島には三百余の国があって、それぞれに国王がいて、領土の大小に関係なく、何年かに一度の共同会議で代表者が選ばれていたとのことである。
「ギリシャ語だとバシレウス・バシレオーンやね。海洋民族国家群か」と、ハチバンは言った。
おれたち三人はホテルのバーを出て、日がゆっくりと傾く遊歩道を歩きながら話を続けた。とても暑い中を、イチバンさんは外側が黒、内側が赤の小さな日傘を差し、おれはおしゃれ帽子じゃなくてもうすこし本格的な麦わら帽子状の帽子をかぶって歩いた。ハチバンは何もかぶらないで岸壁のへりを、あらよーっ、という感じで、綱渡りでもしているように腕を横に広げてふらふらと歩いた。イチバンさんは南国のお嬢様っぽくゆっくり歩いたので、3人の歩調は自然に揃った。
おれたちには気づかれないようにしているとは思うんだけど、どうも周辺にテロ対策みたいな私設警備員みたいな人の数が増えた気がして仕方がない。あと、どうもハチバンはニースのときほどにはぐだぐだに酔っぱらってないのもうさん臭い。
日没を見るなら、もっといいところがあるんです、とイチバンさんは言って、おれたちを港のヨットハーバーまで案内してくれた。そこには白すぎて、午後の陽光の中ではまぶしすぎる豪華クルーザーがあった。
船の名前はアスクレピアス号です、とイチバンさんは言った。
ギリシャ神話のアポロンの息子、アスクレピオスに由来します、という説明だが、日本語だとトウワタね。別名ガガイモ。
船首には医者の神様のシンボルであるアスクレピオスの杖(蛇杖)を模した、杖に絡みつく蛇が形作られていた。
船は十人ぐらいでおしゃれパーティをやってもいいぐらいの広さがあり、デッキには椅子とテーブルもあって、船が岸を離れて安定した速度になったところで、イチバンさんはおれたちにシャンパンをごちそうしてくれた。シャンパンでもビールでも、泡とアルコールのあるものは積極的に摂取するタイプなので、おれはせっせと、ハチバンにはあまり飲みすぎないように注意しながらどんどん杯を重ねた。
「ところであなたは、ネスト、という組織は知ってますよね。N.E.S.T.」
英語だと「巣」って意味だ。おれは知らない、と答えた。
「ニュー・イースタン・セマンティックス・フォー・セオリー、新東方意味論理学なんだけど、実は」と、ハチバンは適当に話しはじめた。ああ、それなら知ってるよ。通称は東方なぞなぞ海賊って結社で、空理を説いて公海域の船の通行料を掠め取っている悪い奴だな。
マニラ湾の日はどんどん西に傾いてきていて、こんなにきれいな夕陽は地元の人間でもめったに見られないです、とイチバンさんは言った。
「ネストのせいで、諸島は今、大変な王女不足におちいっているのです」
イチバンさんが国に戻ったのも、そのせいだそうである。




