第19話 怪奇! 吸血コウモリ男、なんちゃって。あは、あはは
沈みゆく太陽の光を浴びて、きらきらと、と言いたいところだがルビーの反射光はダイヤモンドほど光り輝くようなものではない。夜の闇をいち早く吸い取ったかのようにそのルビーの指輪は存在感を漂わせながらゆるく、ニースの海岸に投げられた。
女子は、というかそもそもヒト以外の動物はものをオーバースローで投げられるようにはできていないので、ハチバンがオーバースローっぽく投げた物体も、ゆるい放物線を描きながら、波打ち際までの距離の半分、せいぜい十メートルぐらいしか飛ばなかったはずである。
おれは自分の体が震え、存在の虚実をただよう無意識の力に飲み込まれそうになるのを感じた。その力はヒトの神を信じる力よりも古く、力強く、冒涜的な恍惚感に満ちていた。投げられたものがルビーでなく、黄昏時でなかったならば、おれはその快楽を十分に律し得たかもしれない。おれの魂は無数の存在と非存在の間を、不定形な形でさまよい、一瞬のためらいのうちにおれの体を黒く、小さく、鋭い牙と柔らかな翼を持った飛行動物に変えた。
ルビーの指輪の落下地点の、ほぼ1メートルほどの空中でおれはそれをキャッチし、玉砂利浜の上にヒトの体で落ちた。下が十分に硬かったら本気で痛いところだが、なんとかほどほどに痛い程度ですんだ。
おれはかなり怒った感じで、アクレナさんに手伝ってもらって岸壁に戻り、元の場所にすわった。
「ね、ね、ね? 見たでしょアクレナさんも。ナオがコウモリになって、あたしが投げた指輪を受け止めたのを」と、ハチバンは言った。
これが酔っぱらいかつ女子でなかったなら、おれはハチバンを一発殴っていたところだ。ただの酔っぱらい、またはただの女子だったら殴っていた。仮定法と集合。
「いや、その…確かにコウモリみたいなものが飛んで、それから浜辺でナオさんが指輪を手にしたのは見たけど…手品?」と、アクレナさんは言った。
「ナオが半分、非実在であることの証明だよーん。怪奇! 吸血コウモリ男、なんちゃって。あは、あはは」
恥ずかしい。物語の力に負けてしまったこのおれ自身が恥ずかしい。
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そもそも、コウモリに変身する吸血鬼で、外側が黒、内側が真紅の襟が立ったマントを着ている、というのは、ブラム・ストーカーが『ドラキュラ』という小説を書き、それを戯曲化してヘンリー・アーヴィングが演じたときの演出が元になっている。このふたりに関しても、BLっぽい長い確執と偏愛の物語があるんだけど、それは置いておいて、なんでそういう演出をしたかというと、まあ手品みたいなもんですね。
こう、全身が隠れるマントの背中を観客に向けて、身を沈めると、役者はマントだけ残して消える(舞台下の奈落に潜れるような仕掛けが設置してある)。
でもって、黒い長い棒の先に、コウモリのぬいぐるみ、というか小道具? をつけて、ふわふわふわーっと飛ばせる。実に演劇というか、見世物的に絵になるでしょ。棒のしなり具合と、コウモリが飛んでるように見える具合が、うまいことできてるんだよね。
でもって、それが映画の時代にまで継承されて、映画だとさらに、吸血鬼は霧にもなれる、ということになった。日本の映画の忍術で、児雷也がドロンと消えて、あとに煙が残る、みたいな映画トリックだな。
つまり、吸血鬼がコウモリになれる、というのは、あくまでもドラキュラ伝説とそれに基づく演劇・映画の技法と関連づけられるもので、広義の吸血鬼の特技というわけではない。
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というような説明を、アクレナさんにしているうちに、ハチバンはまた眠ってしまった。いい気なものである。落日の絶景チャンスにも起こすのはやめてやろう。




