9. 湖の妖精ルサルカ
酒場の舞台に立つウィルを見て、客たちは驚いたように手を止めていた。
「ウィルじゃねえか、こんな場末の酒場にもどってくるなんてどうしちまったんだ? 聞けば、今度の天空演奏会に出るんだろ?」
「大舞台を前に緊張してるみたいで、古巣のここで演奏させてもらおうってイヴァンさんに頼んだんですよ」
「そうかい、それじゃあ、気楽に演奏してくれや。ここにいるのはいつもの酔っ払いぐらいしかいないからよ」
「なあにいってやがんでえ、体がふらふらしてようと耳だけはちゃんと聞こえてるぜ」
酒焼けした赤ら顔でふざけながら笑いあう客たちをみながら、ウィルの表情が柔らかくなっていく。
ウィルのリュートから流れだす音は、優しく語りかけるようなものだった。
客たちも気が緩んだ様子で酒を傾けながら、その音色に耳を楽しませていた。
演奏が終わると、ウィルは客たちに呼ばれて同じテーブルにつく。
「ウィルも偉くなったもんだなぁ。ほんとうにこの間まで皿やジョッキもってオレたち客の相手してたってのによぉ」
「ボクにとっては、なんだか遠い昔のように感じられます」
「ガキがなにいってやがんだ。まだまだこれからだろ。まずは酒の味でもおぼえとけ」
酔客に絡まれながらもウィルは嫌そうにはせず、むしろ居心地よさそうに笑っていた。
そこに、ほかのテーブルの客が話す噂話がウィルの耳に入ってきた。
「聞いたか、スコットのやつが町への途中にある湖で噂のアレを見たんだってよ」
「またかよ、最近あの湖での事故が多いって話じゃねーか。あそこにはなにか住み着いているのかもな」
「聞いた話じゃよ、夜の湖の近くを通りがかると歌が聞こえるんだってよ」
「歌だ? そんな夜更けに歌ってるなんざただの酔っ払いじゃねえのか」
「それが、この世のものとは思えないようなキレイな声でふらふらーと誘いこまれてちまうんだってよ。一緒にいたジジイは耳が遠くて聞こえなくて、魂が抜けたみたいな顔をするスコットを押さえつけて逃げてきたんだとか」
「はぁ、なんだそりゃ。まるで海で出るっていうセイレーンみたいな話じゃねえか。おっかねえな、あいつらも歌で誘い込んで、海の中に沈めるそうじゃねえか」
くわばらくわばらと口にする客たちの話に、興味を持ったウィルが話しかける。
「歌っていたやつの正体は見たんですか?」
「じいさまの話じゃあ、暗くってよく見えなかったけど、金髪の女の子みたいな格好だって聞いたぜ。まあ、鳥目のじじいのいうことじゃ、あまりあてになんないけど、ウィルも夜の湖には気をつけたほうがいいかもな」
しかし、噂に過ぎなかった話は一人の犠牲者を出し、町は騒然とした。
数日後、冷たい湖に一人の死体が浮かんでいるのが発見された。
「……ベオウルフさんが、死んだ?」
その日もウィルが酒場に出向き、そこでイヴァンから聞かされていた。
「ああ、旅商人が見つけたんだとよ。暗い中、足を滑らして冷たい水の中に沈んだせいで、そのまま心の臓が止まったんじゃないかって話だ」
「どうして、そんな場所に」
「わからんな、最近じゃ人とも全然会おうとしていなかったって話らしいし。ただな……、なんでかリュートを手に持ったままらしいんだ」
「リュートを?」
「音楽家らしい最期っちゃ最期だけど、もうあの演奏を聞けないのは本当にもったいないよな……」
残念そうにため息をつくイヴァンを見ながら、ウィルは複雑な顔を見せていた。
湖をとおりがかると歌声が聞こえ、それを聞いたものは二度とかえってこないという噂は広まっていった。
湖の側を通るものは歌声が聞こえないようにと耳を塞ぎ、側を通り抜ける。
「ウィル、本当にいくの?」
「うん……、ベオウルフさんがどうしてあそこに行ったのか気になってね」
「こんなに寒いときに外にでたら風邪をひいてしまうわ。大事な時期なのよ」
「わかってはいるけど、なんか気になってしかたないんだ」
空には雲がかかり、手元を照らすランタンだけが唯一の明りであった。
凍えるような湖にはさざなみひとつなく、そこにはすべてが凍えた静寂だけがあった。
「ほら、何も聞こえないでしょ。早く帰りましょう」
「待って……だれか、いる?」
湖の水面に上に何者かが立っていた。水に沈むことないソレの正体を知ろうと目をこらす。
そして、雲が途切れ月明りその姿を照らした。
身にまとうのは透けるような白い薄絹のみ。月とよく似た金色の髪を背中に流し、ひえきった白い頬には生気が感じられない
ウィルは目を見開きながら、少女の姿に釘付けになっていた。
「ルサルカなのか……」
茫洋とした目つきのまま、ひそやかな歌声が少女の口から夜空に流れ始めた。
すすり泣くような哀しみのこもった声。
ウィルは背筋をはいのぼる恐怖を感じながらも、耳に入りこむ歌声に聞き入っていた。
魂を絡みとられた少年は平静を失い、ふらふらと少女を求めるように湖に近づく。
少女の口からは冬の湖のように人の心を凍てつかせるような歌声だけがもれる。
とうとう水の中へとウィルの足が沈みだす。
常人であればナイフで刺されたような冷たさに慌てて足を引き抜くはずだったが、ウィルはかまわず前に進もうとする。
「ウィル! だめよ! あれは湖の妖精、このままだとひきづりこまれる!」
リャナンシーに引っ張られ距離をとったところで、ようやくウィルの瞳に光がもどった。
「……離してくれ。あそこに、ルサルカがいるんだから」
「無駄よ……。彼女たちは湖で溺れ死んだ人間の霊。歌を口ずさむだけでなにも反応はしない。自分たちの歌に誘い込まれた人間が凍え死んだことさえわかっていないわ」
ウィルの視線の先では、波ひとつ立てず背から伸ばした金髪を湖面につけ、透けるような白い服を身にまとった少女が夜空を仰いでいた。
その表情は空虚なもので、かつて見た少女とはかけ離れたものであった。
「大好きだった歌が人の命を奪っていく。こんなことって……」
再び月に雲がかかり、なにもかもを暗闇に閉ざしていった。




