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6. 契約

 

 ベオウルフという名を聞いた聴衆はざわめきだす。

 楽聖の名を拝した後突如の失踪。噂では事故死したということもながれていた。

 しかし、観客の一人であるウィルだけはその反応が違っていた。

 

 舞台に立つベオウルフは客席に向かって礼をすることもなく、すぐに演奏を始めた。

 初めは静かになりだしたはずの音だったが、次第にその音は勢いを増し、そして破壊的な音が観客席を飲み込む。

 だれもがその暴力的な音の前に微動だにできなかった。

 

 最後の音の余韻が消えた後、観客席の人間は一斉に立ち上がった。惜しみない賞賛の拍手を前にベオウルフは笑みをうかべることもなく、静かに立ち去った。

 

「いや、すごかったなあ。まさかあのベオウルフが復活するとはな」

 

「……そうですね」

 

 ウィルの脳裏には、酒場で演奏していた遍歴楽師を名乗る男の姿があった。そして、ルサルカと共に消えたという事実も……。

 

「すいません、ちょっと用事を思い出したので席はずします」

 

「ん、トイレか? 早めにもどってこいよ」

 

 ウィルの向かった先は、出演者の控え室。


「なんだね、ここは関係者以外立ち入り禁止だよ。いるんだよね、おまえみたいなぶしつけな訪問者が。ほら帰った帰った」


「どうしても会わなきゃいけないんです! 通してください!」


 警備員に引きとめられ、それでもなんとか通ろうともみ合っているところに楽屋の扉が開く。

 扉の先にいたベオウルフとウィルの視線が合い、ウィルは隠せない敵意を彼にぶつけた。


「聞いた声だと思ったらキミか、すまないが、私の客だ。通してやってくれ」


 部屋に招き入れられ、イスを勧められるがウィルは立ったままにらみつける。

 

「覚えていたんですね……、ボクのこと」

 

「その顔は労いのために訪れたといった感じじゃないね」

 

「はい、約束を守ってくれたお礼と、それとルサルカについての質問です。村の人に聞いた話では、彼女はあなたと一緒にどこかへ行ってしまったそうですが、本当ですか?」

 

 ウィルにとってベオウルフはルサルカの存在を知るための唯一の手がかりであった。必死な顔を見せるウィルにベオウルフは飄々とした態度を崩さない。

 

「会ったとも、キミの言うとおり彼女の声はたしかに素晴らしかった。いい後援者を見つければ、劇場の舞台にたつことも夢じゃないだろう」

 

「ルサルカは今どこにいますか? 村の人からはあなたについていったって聞いています……」

 

「嫉妬かな?」

 

 真剣な表情のウィルの質問を茶化すようにベオウルフは笑みを浮かべる。

 

「彼女は君を選ばなかった。それだけだよ」

 

「嘘だ……。約束したんだ、彼女と……」


 今聞いたことが信じられないといった様子で首をふるウィルに、冷たい声が刺さる。

 

「でも、彼女はいなかった。それが答えだよ」

 

 ウィルは部屋を飛び出すと、あてもなく走り続ける。

 

 

 部屋に残されたべオウルフは暗い顔をしてうつむく。

 

「演奏家の握る楽器では決して出せない音があると知ったとき、その意味をキミも知るだろう……」

 

 そのつぶやきは誰にも聞こえることはなく霧散していった。

 

 

 路地裏でガラクタがくずれる音が響く。

 つまづいたウィルが冷たい地面の上に転がり、身を起こそうとはしない。

 屋根の間から弓のような月がウィルを見下ろしていたが、不意に赤いドレスの裾が月をさえぎった。

 

「ひどい顔……、でも、その顔はよく見てきたわ。欲しくても手に入らないものがあるってわかったときの人間の顔だわ」

 

 ウィルはかつて抱いていた夢を思い出す。あどけない笑顔をうかべる少女とともに舞台にたち、自分の演奏を背にして少女の歌声が観客を酔わせる。

 その風景を見ることはかなわなかった……。裏切られてしまったという思いが、ウィルの心を黒く染めていく。

 

「……欲しかったもの、それはおまえと契約すれば手に入るのか?」

 

「契約だなんて味気ないいい方しないでちょうだい。わたしが望むのはあなたの愛。そうすれば、あなたに望むものをあげる」

 

「……わかった、どうすればいい?」

 

「口付けをちょうだい。なるべく情熱的なものを」

 

 細い腰に手を回し力強く引き寄せる。ウィルの瞳に宿る暗い色さえも愛おしそうに、リャナンシーは優しくウィルの頬をなでる。

 

「女の子みたいな顔をしているのに積極的ね。でも、唇も震えるわよ……。かわいいのね。大丈夫、私に全部ゆだねなさい」

 

 月の光が重なる二つの影を照らしていた。

 

 

 その夜の酒場では、席はいつもの客で埋まっていた。しかし、誰もが動こうとしない。

 いつもはにぎわっているはずの声はなかった。

 呼吸音すらも邪魔だと感じるような静寂がその場を満たす。

 そして、その場を支配するのはただ一つの音。

 その中心にいるのはウィルだった。

 

 リュートをかき鳴らしていた手を止めるが、だれもが動こうとしない。

 

「……演奏おわりです」

 

 ウィルが発した一言を機に、いっせいに拍手の音が満ちる。

 

「ウィル坊、おめえどうしちまったんだ。いまの演奏は……」

 

 いつもへたくそだとからかっていた客のひとりが戸惑ったように声をかける。

 その中で、ただひとりイヴァンだけが眉根をよせながらウィルを心配そうに見つめていた。

 

 やがて、とある酒場にて並外れた演奏を見せるという噂を聞きつけた客が酒場に押し寄せるようになった。

 閉店時間となりアンコールをねだる客を追い出したイヴァンは、雑巾を手にテーブルをふくウィルに申し渡す。

 

「おう、ウィル。おめえ、なにしやがった」

 

「なにって、何をですか?」

 

「おまえのその演奏だ! まさか、本当にリャナンシーに魂を渡したわけじゃねえだろうな。あるとき急に階段を駆け上るように上達するやつはいるが、今のお前の変化は常軌を逸している」

 

「なにいってるんです。イヴァンさん自身も音楽家の恋人のうわさなんてバカにしてたじゃないですか」

 

「……そうだけどな、おまえ顔色が最近わるくないか」

 

「ここのところ毎晩練習して疲れているからかもしれませんね。ボクは本気で楽聖を目指すことにしたんです。そうしたら、楽聖を生みだした場所としてこの酒場も有名になるかもしれませんね」

 

「あんまり無茶するんじゃねえぞ。今のお前は魂を削っているみたいで、見ていて―――心配になる」

 

 冗談を口にして笑うウィルを、イヴァンの眉根をよせながら見ていた。


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